「佛敎の革新」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「佛敎の革新」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛敎の革新

東本願寺に對して不平の聲喧しきは毎度記する所なれども是れは單に同宗内の事として餘

所に見る可らず近來は各宗僧侶の品行も次第に妙ならずして自から信者の不平を招くこと

なれば或は眞宗同樣その不平の破裂なきを期す可らず顧みて俗界の風光を見るに國民の品

行决して高からず不體裁も少なからずと雖も改良進歩の途中に在るは明白にして時として

古風を凌ぐものなきに非ず例へば男女の關係にても在昔は恰も主從の如くにして一夫多妻

も女子は唯默々するのみにて男子は却て多妻を榮とするほどの次第なりしに今は則ち然ら

ず寧ろ男子の不德として咎むるもの多し父子の關係も同樣にして以前は父母の權力に制限

なく所生兒は唯是れ一種の私有物なりしに今は其思想一變して子に對しても相應の義務あ

るを認めざるはなし其他戸外公共の事に付ても人民一致して慈善義捐の美事少なからす特

に戰爭のとき敵味方の差別なく總ての負傷兵を救護するが如きは仁義の發達著しきものに

して古人の夢にも思はざる所なり或は國民奉公心の消長に付き世に歎息するもの少なから

ざれども是れも亦悲觀者流の夢想に過ぎざる其一證は日清戰爭の際、士卒は皆町人百姓の

子弟のみなればイザと云ふ塲合に卑怯の振舞あるやも知る可らずとて將官中には心配する

もの多かりし由なるに實際は全く豫想に反して忠勇義烈、國あるを知て家あるを知らず砲

彈半身を粉碎して氣息奄々たれども尚ほ其職務を去らざる水兵あり銃丸胸を貫けども依然

として進軍の喇叭を吹く陸兵あり幾多の美談を作りしは中外人の等しく感嘆して止まざる

所なり國民の士氣も亦進歩せるを見る可し然るに獨り僧侶の品行のみ次第に堕落して今は

殆んど極度に達したるこそ氣の毒なれ宗規に於て肉食妻帯す可らざる清僧の身にてありな

がら俗界の政府より許可を得たりとて公然妻妾を蓄へ酒肉を飲食して耻ぢざるのみか竊に

寺の寶物を賣却して花柳の巷に戯るゝものさへ少なからず葬式の如きも嚴なる法務に非ず

して商賣と化したるの觀あり例へば幾人の僧侶が臨席して何程の經を讀むに幾何の布施を

出す可しと云ふ其れは法外に高價なれば減ず可しと掛合へば然らば何圓までに値引す可し

など其應對掛引は恰も縁日の植木商賣に異ならずと云ふ本來を云へば坊主は三界に家なし

肉體は是れ一の土塊にして富貴は浮雲の如し心外無一物にして生死の爲めに曾て心を動さ

ず衣服の醜美、飲食の精粗一切無頓着にして榮華は一塲の夢のみ况んやお布施の多少をや

又况んや酒色をや毫も意に介することなくして只管德を修め行を研けば衆心漸く之に歸依

して濟度の目的を達すると共にお布施も自から多く堂塔も期せずして壯麗と爲り衣服飲食

總て意のまゝなる可し然るに今の僧侶は無理算段しても先づ肉體の慾を充さんとして品行

を顧みざるが故に次第に堕落して俗よりも俗と爲り敎化す可き身が却て敎化せらるゝほど

なれば世の信心は漸く薄くして収入は漸くに減じ堂塔頽敗するも修むるに由なし物議なか

らんと欲するも得べからざるなり啻に僧俗德義の進退上物議を免れざるのみならず又佛耶

の比較上より不滿を招く可き事情なきに非ず宗門の本色より云へば双方の間に著るしき優

劣を見ず其哲理に至ては佛敎こそ却て深遠なる可けれども現在世間に顯はるゝ所に於ては

則ち然らず第一耶蘇敎師の中には一通り文明の敎育を受けて共に當世の事を語るに難から

ざる者多し之を彼の朝夕口にする所の經文の意味すら解せざる者多き僧侶に比すれば同日

の談に非ず其品行の如き一方は腐敗の頂上に達するに反して他の一方は方正謹直を旨とし

信者に接する筆法も甲は單に門徒として冷に遇するのみなるに反して乙は兄弟姉妹として

懇切鄭寧に取扱ふ其趣は恰も骨肉の如し特に一方はお布施の多少を爭ふに一方は敎會の方

より財を散しても人を救はんことを勉め病院を開て貧民に施療し學校を設けて貧兒を敎育

するは獨り耶蘇敎徒の間に見る所にして佛門の僧侶は只死者の爲めに追弔會など營み其實

際は人を惠むに非ずして却て禍に乘じて人に惠まるゝものなり水難火難の後に寺の本堂建

立は建立の名を利用して坊主の懷を温むるなりと云ふ是等は固より宗旨に特有の相違に非

ず無學不德は佛敎の本色に非ざると等しく慈善は耶蘇の專賣に非ざれども兎に角に右の相

違は目前の事實にして爭ふ可らず既に僧侶は俗人よりも腥きが上に更らに外來の宗敎に比

較して清濁の相違明なりと云へば民心これに對して不平なからんと欲するも得べからず東

本願寺の騒動は唯其機會を得て適々先きに破裂したるまでにして他宗と雖も其内情は難兄

難弟の有樣にして今後或は佛敎全體に動搖なきを期す可らず其動搖は即ち宗敎革新の機會

にこそあれば我輩は今度東本願寺の破裂を以て革新豫報の警鐘として視るものなり