「布哇移住民拒絶事件」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「布哇移住民拒絶事件」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

布哇移住民拒絶事件

過般我神州丸は六百餘名の移民を乘せて布哇に航せしに同國税關長は内四百五十八名の上

陸を拒み其後佐倉丸の送りし三百餘名中百六十三名も同じく門前拂ひと爲り共に空しく引

返へしたりと云ふ其理由は契約移民を輸入するには移民上陸法に據り豫め布哇移民局の認

可を得ざる可らす自由移民は各々五十弗の金を携帯すべき筈なるに右の移民は此手續を踐

まず又其金を所持せざるが故に餘義なく追返へしたりと云ふに在るが如し而して移民の主

張する所は今回渡航の自由勞働者は規則に從ひ銘々五十弗の金を持參せり又契約移民は日

布條約に從て渡航したるものにして昨年十月神戸移民會社は布哇の耕主及び農業會社より

日本勞働者の注文を受け其耕主及び會社は法律に指定したる方式に從ひ移民局に勞働者輸

入の願書を差出したり移民局は右願書呈出の日より十八ケ月内に輸入の亞細亞人百名に付

十人の白人勞働者を輸入すとの證書を添へざりしが故にとて其願書を却下したるよしなれ

ども其證書を求むるは不當なりと云ふに在り然れども布哇政府は堅く執て動かざるに依り

日本人は遂に彼の大審院に起訴して其裁判を求めたり今双方論辯の要領なりと云ふに據れ

ば政府方の云ふ所は控訴人等は未だ布哇に入國せざるものなり故に布哇國に於て何等の權

利をも有せず大審院の裁判を受くるの資格なきものなりと云ふに在りて原告の主張する所

は日本人を布哇共和國の消毒所に上陸せしめながら之を未だ曾て入國せざるものと認め終

局法廷の審問を與へずして追返へすは日布條約の最惠國條款に背くものなり税關長には人

權を奪ふの職權なし税關長は控訴人を消毒所に上陸せしめて不法に其兄弟姉妹との交通を

遮斷せり已に税關長の裁判あれば又其以上の裁判もなかる可らずと云ふに在るよし是に於

てか事實の問題は一轉して法律の問題となりしものにして法律上の爭に於ては原告たる日

本人は敗訴したり大審院は受理す可き限に非ずとて其訴状を却下したりと云ふ大躰の事情

斯の如しとして扨て其始末は如何す可きや此まゝ泣寢入りとす可きか將た又外交談判を開

て我權利を押通す可きか神州丸も既に歸着し外務省へも昨今報告書到達せし由なれば委細

の事情も自から判然したることならん共和國政府の處置に於て果して不當のことあらんか

遠慮なく掛合ふて匡正せざる可らず若し又損害あらば之を償はしめて可なり元來布哇移住

は彼國の懇望に出でしものにして爾来續々出稼する者あり今は全嶋十萬の人口中日本人は

二萬五千に達し今後も尚ほ追々移住することならんなれば彼我利害の關係は既に淺からず

萬一不法の處置あらば默々に附す可らざるのみか一歩を進めて移民に不便の規則あれば之

を除かしむることも肝要ならんと雖も其談判を開くに當てや成る可く平和の手段を執り苟

も壯士じみたる擧動ある可らず世間の評論を聞くに所謂對外硬の主義に據り斷然たる處置

に出づ可しなど壯論するものある由なれども硬と云ひ軟と云ふも要や唯時と塲合を察して

活用するに在るのみ日本は戰爭後軍備擴張に着手したるより各國は痛くもなき腹を探りて

或は何か野心を抱くならんと疑ひ一擧一動に注目を怠らず西班牙が戰後直に條約を訂結し

てフヒリツピンの海上境界を定めんことを望みたるの一事に徴するも以て其事情を察す可

し然るに今若し布哇に對して多數の軍艦を派遣して手嚴しき談判に及ぶなどの強硬手段も

あらんかソレこそ日本は野心を出し初めたりとていよいよ疑心暗鬼を生じ萬般の外交上に

不如意を感ずるのみならず布哇も亦一層戒心して我に遠ざからんと勉むることなしと云ふ

可らず特に今日は米布合併論の再燃したる時にして我れ若し威迫がましき擧動に出づるこ

とあらば益々其氣運を促がすことある可し事は少しく違へども曩に朝鮮をして我に近寄ら

しめんが爲まに其間の妨害物を除かんとして活溌果斷の處置に出でたるに其結果は豫想に

反してますます我に離反して他の強國に依頼せしめたるは人々の記憶する所ならん米國人

は固より擧て布哇の合併を望むものに非ず反對者も少なからざれども近年その外交策の一

變して活氣を帶ぶるはヴエ子ズヰーラ問題に干渉しキユーバの反徒に好意を表する等の事

跡に徴するも明白にして今回の布哇問題に付ても特に軍艦を派遣したりと云ふ其意の存す

る所察するに難からざるなり然のみならず〓〔草冠+最〕爾たる布哇が我に對する筆法を

一變して俄に強硬するには自から意味なかる可らず即ち漫に想像を廻せば米布の合併論者

は其論據を強うせんが爲めに故らに日本の移民を冷遇せしには非ざるか日本が憤然として

果斷の處置に出づれば布哇は合併を請求するに善き口實あり米國も亦自から傍觀せざる可

し事情果して斯の如くんば我の強硬は適々以て彼等の計略を助成するに足るのみ我輩は固

より米國を憚るものに非ず已むなくんば公然是非を爭ふこともある可し布哇には二萬五千

の同胞ありて何れの國民よりも多數なれば布哇の運命を决する塲合には我にも亦發言權あ

りいよいよ合併するとならば自から之に處するの道もある可しと雖も今その計に乘て我よ

り氣運を促がすは智者の事に非ざるなり且つ布哇は彈丸黒子の小邦にて兵備は殆んど皆無

なれば之に臨むに嚴談を以てするは恰も小兒の腕を〓〔手偏+丑〕るに異ならず若しも世

界の人々に日本は共和國の弱小を侮て斯る擧動に出でたるなりと評せらるゝこともあらば

却て我國民の耻辱なり相手が弱ければ弱気ほどますます優しく應對せざる可らず婦人小兒

を手荒く遇するは文明人の筆法に非ざるなり兵威の下に強硬手段に出づれば功を奏するこ

と速にして俗人の喝采を得べしと雖も我に理あれば優しく談じたればとて結局勝を制する

こと難からず今日は列國の疑心暗鬼を避くるに勉む可きの時なり當局者に於ても必ず彼の

壯論を實行して世俗の好評を求めたきは山々ならんなれども一局部の利害に全局の得失を

忘るゝは外交家の愼む可き所なり