「技師の責任に就て」
このページについて
時事新報に掲載された「技師の責任に就て」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
技師の責任に就て
近來技師の德義責任に就て云々するもの多きは全く技師社會に不良の輩ありて己れの職責
の重大なるを顧みず往々不德義の擧あるが爲めに外ならず目下殖産事業の勃興に連れて技
師の需用は日に增加するにも拘はらず其供給は誠に不足にして常に人物の拂底を告ぐる次
第なれば其社會に不良未熟の輩が橫行して或は擔任したる工事の設計を誤り或は賄賂詐欺
等の行はるゝ風聞あるは自然の情勢なりとは云ひながら技師社會の深く自から耻づ可き所
にして苟も文明の學者を以て自から任する者が破廉耻の醜行とは何事ぞ我輩は單に之を法
律に問はず文明進歩の大罪人として筆誅するものなり然りと雖も又顧て世間一般の有樣を
見れば概して技師の選擇に無頓着にして其伎倆人物の如何を問はず大切の工事を擔任せし
むる者多く有名なる大船渠工事に於て其監督工事を造家技師に一任したるなどの奇談さへ
もありて其亂暴無頓着なる唯驚くの外なしと云ふ技師の不良未熟なるは技師の罪なりと雖
も抑も斯る技師輩をして世間に橫行せしむるは社會一般學問の思想に乏しく人を擇ぶの明
なきが故にして罪の根本は社會の無學に在りと云はざる可からず例へば家に病人あるとき
胃病肺患それそれ專門の醫師を選ぶは勿論その專門醫の中にも伎倆の巧拙を吟味して謝る
ことなく始めて良醫を得て相應の治療を施す可し世間普通のことなるに然るに今病に醫を
選ぶの必要を知り一寸したる風邪にも醫藥の事を心配しながら幾百萬の財産に關する大工
事を擔任せしむる技師の選擇には全く不注意にして單に錢のみを愛しみ其結果遂に不良未
熟の徒の跋扈を許すとは不都合千萬なりと云ふ可し畢竟世人が今日文明流の工業を興さん
として其身に文明流の敎育なく思想なく眼中唯錢の多少を見るのみにして人を見るの明な
く遂に却て敗德技師の爲めに眼を掠めらるゝことなれば今の流弊を矯めんとならば世間一
般學理の大切なるを悟り假令ひ自から專門家ならざるも一通りの理論丈けは了解して隨て
技師を選ぶにも大凡その方針を定むると同時に技師も亦自から其身の重きを知り少小の時
より辛苦學び得たる其道の爲に盡すの義務あるを忘れずして企業者も技師も双方共に少し
く氣品を高くして錢以上に見る所なかる可らず工業本來財利の爲めなりと云ふ我輩素より
之を知らざるに非ずと雖も今の實際は双方共に錢に熱して却て大に他日の錢を失ふものに
して唯氣の毒なりと云ふ可きのみ