「移住殖民」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「移住殖民」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

移住殖民

移住殖民

國民の發達に移住殖民の必要なるは云ふまでもなきことにして同人種の四方に蔓延するは

猶ほ樹木の根を張るが如し八方より養液を吸集するものは生長して大木と爲れども盆栽は

然らず園丁朝夕の注意に依て僅に生命を維持するのみ英國が今日の富強に誇るは其人種に

特別の才能があるが故に非ず其國土に無類の天惠あるにも非ず只諸方に其民を移し其人種

を植ゑて至る所に小英國を作りしに因るのみ同人種が蔓延すれば商買貿易も自から發達し

航海も奬勵を待たずして進歩すると共に兵備も隨て張らざるを得ずして此に富強の國を現

出するなり今日本の人口は年々增殖して底止する所を知らず明治十七年には三千七百四十

五萬餘に過ぎざりしものが同二十七年には四千百十二萬餘と爲り僅か十年間に三百六十七

萬餘人を增加したり臺灣の人口は凡そ二百六十萬人とのことなれば十年毎に臺灣ぐらゐの

面積を外に得るに非ざれば忽ちにして人口内に溢れて其始末に困却することならん國勢の

伸縮を別として單に内の事情より見るも外に向て大に出口を開くの必要を察す可し况んや

移民と共に風俗習慣を移して我物品の需用を增加す可きは明白なるに於てをや試に布哇に

對する輸出貿易を見るに明治十九年には僅に二萬五千餘圓に過ざりしに同廿八年には三十

九萬三千餘圓に達したり九年間に殆ど十六倍の增加とは他に比類なき進歩にして其原因は

主として移民に在ること爭ふ可らず其輸入貿易は一進一退十年一日の如くなるに獨り輸出

のみ移民と共に斯の如く增加したるは兩者の關係密なるを示すものなればなり然るに元來

日本人には蟄居の習慣ありて外に出づるを好まず又忍耐力に乏しくして迚も異境の辛苦に

堪へざる可しとの説もあれども論より證據、今日までの實跡に徴すれば甚だ大膽にして

颯々と外出し世界中大抵の地には日本人を見ざることなし布哇は申すに及ばず桑港、ヴア

ンクーヴアー、加奈陀、クヰンスランド、ニウカレドニヤ、フヒリツピン群嶋、新嘉披、

浦鹽斯德等、日本人の移住するもの少なからずして南米に向ても今正に移住の計畫中なり

又布哇は近來我移民を排斥せんとして昨今悶着中なるにも拘はらず尚ほ續々渡航せんおす

るものあるのみならず朝鮮は年來殆んど無政府の有樣にして身體財産も安全ならず暴徒の

爲めに苦められたるものも少なからざれども屈する色なく其内地に侵入して行商など營む

者甚だ多し特に一種の日本婦人が其筋の取締嚴重なるにも拘はらず世界至る所に出歿する

は人の知る所にして夫れ是れの事實を湊合すれば日本人は决して生地なき人民に非ざるを

察するに足る可し今日に於ては布哇の外大に觀る可き成績を示すもの少なしと雖も同國に

於ては我移住者にして既に相應の財産を作り又土地を所有して一方の耕主と爲れるもの少

なからずと云ふ移民事業の前途决して望なきに非ず左れば政府に於ては施政の要務として

今後大に移民を誘道し又保護して遺憾なからしむること肝要にして今回の布哇事件に付て

も所謂強硬談判など赤子の腕を〓〔手偏+丑〕るが如き見苦しき擧動なからんことを望む

は勿論なれども苟も移民渡航の路を妨害するものは一切除かざる可らず軍艦派遣の如きも

單に事變の塲合のみに限らず平生無事の日にても時々巡邏せしめて在外同胞の安否を問ふ

こと肝要なり國力伸張の爲めにも將た增殖する人口の始末の爲めにも移住殖民は日本の一

大急務と知る可し

銀價下落と支那貿易

金貨法案は突然提出せられて利害の説も未だ盡くさゞるに匇々議會を通過していよいよ實

施と定まりたれども實施の結果果して如何、明白に斷言し得るものはある可らず金銀の比

價は今後果して大變動なきや否や若しも之れありとすれば其原因は金に在るか銀に在るか

或は銀の相塲は時々の變動を免かれずと云ふも其變動は銀に非ずして寧ろ金の動くが爲め

なりとの説さへありて學者の論も未だ定まらざる次第なるに兎に角に今の世界の文明國を

見れば何れも金國にして商賣貿易を行ふ其中に日本のみが獨り銀國とは甚だ面白からず近

年來は金銀の此價も凡そ一定して大變動なきのみならず殊に清國との戰爭に少なからざる

償金を収め得て準備の金にも差支なく旁々以て好機會なればとて遽に金論の發生を見たる

ことなり日本が果して金貨國と爲り得て他の金國に對しての商賣には假りに損得の影響な

しとしたる處にて東洋の貿易即ち支那に對する輸出の如きは如何なる有樣を見る可きや或

は金銀の比價が法案制定當時の割合にして永く動かざるに於ては差支なけれども一旦銀價

下落の實を呈して其割合を變ずることあれば從來我國が西洋の金貨國に對して銀の下落の

爲めに貿易上に利したる其反對に支那に對する我國の商賣は不利の結果なきを得ず即ち紡

績絲を初として海産物の如き燐寸蝙蝠傘の類の如き支那を目的の製造品は次第に輸出の困

難を感じて貿易の不利を見ることならん今日に其結果を云々するは早きに失するが如くな

れども既に制定の當時に比すれば銀貨は寧ろ下落して爲替相塲を見れば五十何弗のものが

昨今は四十弗臺の聲を聞くに至れり是れは單に一時の現象に過ぎずして更らに騰貴す可き

や又は今後次第に下落す可きや其邊の事は容易に斷言す可らずと雖も世界の大勢を眺むる

に彼の複本位論にして果して實行を見るの曉は兎も角も之を外にしては別に銀價騰貴の原

因も認む可らざるが如し若しも其下落が眞實にして更らに騰貴の模樣もなきに於ては日本

は幣制改革の爲めに從來西洋諸國に對して貿易上に利したる利益を失ふ尚其上に支那向の

輸出はいよいよ困難を感じて今日迄の好都合に反對の結果を見ざるを得ず一擧兩損のみな

らず此際我國人の大に注目す可きは近頃支那政府に於ては彼の内地に於ける製造の課税を

止めんとするの議ありと云ふ一事なり本來馬關條約に由て我國に収めたる自由製造の權利

を彼に讓りて他の權利と交換したるは彼の内地に製造の事業を起すよりは寧ろ我國の製造

品を彼の地に輸出するの利益を認めたるが故に彼れに課税の自由を許したる次第なりしに

今回は彼の政府が自から課税の説を止めて内外人一樣に製造の便利を與ふ可しと云ふ果し

て事實にして我國人は既に支那内地の起業を不利益と認めて計畫を思ひ止まりたる其處に

他の外國人が續々事實を起して彼の内地の製造盛なるにも至らば我製造品の輸出はますま

す以て困難を感ぜざるを得ず是れは偶然の出來事にして金銀の關係とは全く別なれども我

國人の大に考ふ可き所なり抑も金貨法の眞意は西洋諸國と貨幣制度を同一にして外資の輸

入を謀り財政の不如意を救ふと同時に經濟社會の融通を圓滿にせんとの目的に外ならざれ

ども外資の輸入は果して目的通りに行はる可きや否や實際に覺束なき談にして當分の處、

先づ以て賴む可らざるのみならず外國貿易は依然輸入超過の一方にして甚だ思はしからざ

る尚ほ其上に支那の輸出はいよいよ困難を感じて是れ迄と反對の有樣を見ることもあらん

には戰爭の結果、幾多の人命を犠牲にして収め得たる償金をば恰も支那に返却するの實を

演じ戰爭の利益は商賣の損失の爲めに全く抹殺せられて差引き本の木阿彌に歸するが如き

始末も圖る可らず是れが差當り幣制改革の恩澤とありては實に豫想外の次第と云はざるを

得ず我輩が其當時兎に角に利害の説を盡したる上の事にす可しと論じたるは即ち是等の關

係あるが爲めに外ならず其成行は今後大に注目す可き所なり