「文部省の紛紜」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「文部省の紛紜」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

文部省の紛紜

文部省の紛紜

此頃文部省の部内にては次官局長の更迭に付き紛紜を生じて大學の校長敎員などまでも頻

りに奔走運動に忙はしと云ふ其次第を聞けば本來敎育は專門の事にして無經驗の他人を容

る可らず殊に官邊一種の政客をして事に當らしむるは斷じて許さゞる所なり云々と云ふに

在るが如し是れは單に表面の口實にして内部には自から云ふ可らざる事情のあることなら

んなれども其口實とても實際に甚だ不通の申分なるが如し從來幾多の次官局長輩は果して

孰れも專門經驗の人物のみなりしや否や又果して一種の縁故を以て其地位を得たるものは

なきや否や多年來更迭頻繁の其中には無經驗のものもあれば種々の縁故より入り來りしも

のもある可し實際の事實にして別に異論も聞かざりしに今回に限りて事珍らしく云々する

とは何事ぞや取るに足らぬ苦情にこそあれ現に局長は既に任命を見たれども聞く所に據れ

ば次官の後任者は内閣の議决を經て内命を傳へ當人も承諾して任命の手續に際し部内の反

抗運動に遭ふて姑く發表を思ひ止まり當局者は兎やせん角やせんとて目下正に當惑中なり

と云ふ其事實は世間に暴露して掩ふ可らず醜態極まれりと云ふ可し後任の人物如何は我輩

の知らざる所なれども當局者が適當と認めて之を推薦し同列の同意を得たる以上は自から

責任を執て斷行するに何の遠慮ある可きや或は斷行すれば部内の反抗容易ならずと云はん

か屬僚輩の進退は長官の職權に存することなれば斷行に不平を唱ふるものあらば直に處分

して免黜せしむ可きのみ或は當局者の力、足らずして部下の統御に堪へずとならば其本人

よりして更迭の必要もあらんなれども兎に角に一旦議决を經たるものが屬僚輩の反抗運動

の爲めに躊躇するが如き當局者の腑甲斐なきは勿論、畢竟政府全體に威信の足らざる徴候

として認めざるを得ず抑も現政府組織の際には自から官紀振肅云々を宣言して非常の意氣

込を示したり世間に於ても聊か望を屬したることならんに其後新聞紙などの評判を聞けば

政府の大臣中には所謂伴食宰相とて同じく内閣の員に列しながら甚だ無力にして恰も門外

漢の待遇を受るものなきに非ずと云ふ實際に果して然るや否やは知らざれども或は文部の

如きは其所謂伴食宰相の所轄にして政府に於ても甚だ重きを置かざるより今回の不始末の

如きも當局者一人の當惑に一任して傍觀に付するが如き事情はあらざるか左りとては無益

の殺生と云はざるを得ず或は關係なき他人のことなれば無益の殺生も差支なけれども既に

同列に列せしめなが恰も生殺の擧動は尋常の交際法に非ざるのみか政府の一部分に斯る醜

態を公にせしむるは即ち部内秩序の紊亂を示すものにして官紀振肅の實果して何くに在る

や政府の威信に關する次第にこそあれば當局の本人に力の足らざることもあらば後の始末

は兎も角もとして目前の事に就ては全體の威信を重んじて斷然處分せざる可らず我輩の餘

所ながら注意する所のものなり

然りと雖も竊に其内情を察すれば文部の部内に斯る紛紜を見るは自から原因なきに非ず聞

く所に據れば今回の運動は重に大學の輩にして其輩よりすれば本來同窓の同學否な寧ろ門

下生とも見る可き後進の若輩を次官などとして恰も其指揮を受るは何分にも堪へ難しとの

意味なきに非ずと云ふ素より聞くに足らざるの私情なれども抑も斯る成行に立至りたるは

畢竟政府が一種の偏見より恰も學問敎育の事を私して高等敎育の學校を其所轄に屬せしめ

敎師輩を待遇するにも官吏同樣にして自家の下風に立たしめたるより其敎師輩も自から學

者の本分を忘れ全く官化し去りて等級の高下、俸給の多少などに心を關して遂に斯る擧動

を演じたるに外ならず實に淺ましき次第にして學問の獨立の爲めに悲しまざるを得ず我輩

は是に於てかいよいよ根本的改革の必要を認むるものなり

東歐問題の成行如何

希土問題の成行如何は何人も知らんと欲する所なれども又何人も説明に苦む所なり列國の

意向を豫想するの難きは日清戰爭の實驗に徴するも明白にして三國の干渉が條約締結の後

に來る可しとは外交の當局者も前知すること能はざりき交戰中英國は暗に清國に好意を表

したりとて不快の感を抱くものさへあり干渉若し來ることあらば必ず此方面より發するな

らんと思はれしに英は露國の動議に反對して應ぜず却て我に同情を表せりとて國民の感謝

せんと欲したる佛國は干渉の一員として我に遼東の還附を迫りしが如き一として意外なら

ざるはなし現に今回の事に就ても希臘が列國の提議を拒絶して斷然戰を開かんとは寧ろ案

外の沙汰にして外交の事情を知るものも多くは先づ破裂せざる可しと信じたるが如し左れ

ば列國が今後如何なる運動を試む可きかは固より豫言の限に非ず列國自身も恐らくは前知

すること能はざる可しと雖も漫に想像を廻せば又説なきに非ず今日までの報道に據れば我

輩は先づ土耳其の後に強力なる蔭武者なきかを疑ふものなり一國の困窮に乘じて巧に裡面

より運動して遂に其國を掌中に弄せんとするは露國に於て往々見る所の政略にして支那が

日本の爲めに苦めらるゝや或は償金の借入を周旋し又或は遼東を取返へして頻りに其歡心

を求め以て老帝國の權力を掌握するに至れるは人の知る所なり且つ其對韓政略を見るに王

妃事件の混雜に乘じて種々陰微の運動を試み國王を其公使館に導き又兵卒訓練の權を取り

刃に血ぬらずして半嶋の爲めに大戰爭を戰ひしものと同樣の權力を揮ふに至りしも亦目前

の事實なり今土耳其は垂死の病人にしてアルメニヤの虐殺、クリートの叛亂、希臘の挑戦

等難症續發して始末に窮するものなり恩を施して歡心を買ふの好機會なれば露國が極東に

試みて成功したる其筆法を東歐に應用せんと欲するは自然の情なる可し世上の風説信ずる

に足らざれども米國の新聞紙は露國は土廷に向て軍費を貸與するの密約を結びたりと〓〓

るのみならず土耳其の擧動を見るに初めは處女の如く希臘に挑まれて逡巡せしに中頃に至

ては戰を好むものは希臘にして土に非ず一朝戰亂を見ることあらば其責は希臘に在りと布

告し遂には自から進で戰を宣し攻勢を取て大に敵を破ると同時に露國が列國に向て放任傍

觀の議を提出したるが如き如何にも怪む可き形跡にして兩帝國の間には何か默契冥約の存

せざるかを疑はざるを得ず而して之に對する英國の意向は如何と云ふに英は元來土耳其の

存立を希望するものにして其曾て露と戰ひ又露土戰爭の結果ベルリン會議を開て露の頭を

抑へしが如き皆此目的より出でざるはなし左れば今回の事に於ても土國に好意を表す可き

筈なれども何分にも其國民は希臘に熱心なる同情を表して其運動を妨ぐるを好まず或は義

金を投じて希臘の軍費に供し又は義勇兵として出でゝ戰はんことを望み議會に於ては政府

の政略其當を得ずとて總理大臣に罰俸を科せんとの議を提出するなど中々の意氣込なれば

當局者も自由に運動すること能はず其國會に於て答辯する模樣を見るに政府は决して獨り

希臘を抑へんとするものに非ず土耳其に對しても同樣の筆法を用ふるものなりとて甚だ遠

慮するものゝ如し且つコンスタンチノーブルよりの報に據れば英國の政略は漸く變更の徴

候を呈してクリート附近に在る英國の軍艦は列國の提議せる希臘諸港封鎖に加はる可らず

との訓令を發したるのみならず又いよいよ希臘の港を鎖すとならば土耳其も同樣ならざる

可らずとの意を示したりと云ふ特に今回希臘が大敗したりとの報に接せば英國全面の物論

ますます沸騰していよいよ政府に迫る可きは明白なり當局者若し強て與論に背馳せんとす

れば其地位の危きを感ずるに至る可し况んや英政府は露國が土耳其を其掌中に弄するを傍

觀すること能はざる可きに於てをや左れば英露は先づ反對の地位に立つものにして露國の

提議せる放任論の如きも果して列國の同意を得べきや否や甚だ疑はざるを得ず事態いよい

よ難局に入らんとするものにして或は意外の珍事を生ずるやも知る可らず我輩は刮目して

其成行を見んと欲するものなり