「近東及び遠東」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「近東及び遠東」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

近東及び遠東

所謂東方問題は歐洲治亂の動機と認められて彼の政治家の年來解釋に苦しみたる所なり東

方問題とは即ち土耳其及び其近隣諸國との關係にして種々の變遷を經たれども其成行が治

亂の動機と爲りて動もすれば全體の平和を劫すは多年一日の如くにして歐洲列國いづれも

影響を免かれざる中にも英露の二國が互に利害を反對にして其問題に直接の關係あるは世

人の熟知する所なる可し抑も露國は歐洲に於て廣大の版圖を占めながら其地位、北部に偏

在して天候、地理ともに殖産商賣に可ならず南方に境界線を擴張して交通の便を開くは自

國の生存上に缺く可らざるの必要なれども何れも諸強國の境に接して道を開くに便ならず

餘す所は只黒海の方面よりして地中海の公道に出づるの一路のみ而して其方面の衝に當る

ものは即ち土耳其にして多年來老朽の古帝國、力を以て路を開くは敢て難きに非ざれども

露國にして此方面に出づるときは列國の利害上、容易ならざるのみならず殊に英國の如き

は自家掌裡の物と認めたる地中海の線路を切斷せらるゝの姿にして一旦有事の日には其一

大富源たる印度を孤立せしめ東洋諸國の交通も全く斷絶せざるを得ず如何にしても許す可

らざる所にして露國が多年來辛苦して種々の運動を試みたるにも拘はらず常に英の反對に

遭ふて志を達すること能はざるのみか彼のクリミヤ戰爭の結果として巴里條約に於ては黒

海に浮ぶる軍艦の數をも限られポスパラス海峽を出入することを禁ぜられたるが如き又そ

の後露土の戰爭に於ても英の干渉に遭ふて土地占領の目的を達せざりしが如き英が全力を

盡して露の南進を防ぐの實を見る可し左れば露國は歐洲に於ては南進の容易ならざるを見

て早くも着眼する所あり更らに亞細亞の方面に向て版圖の擴張を謀りサイべリヤ並に滿洲

の地方に出でゝ漸く浦鹽斯德に海港を卜し得たれども邊陬極寒の地にして固より滿足す可

きに非ず此方面に於ても終始南進の運動を怠らずして先年亞富汗事件に際し印度の背面を

劫して英國をして巨文嶋占領の擧動に出でしめ又パミールの高原地方に力を試みたるが如

き常に英との衝突を免かれざれども本來の目的は單に侵略の爲めに非ず自國生存の必要よ

り商賣交通の路を開かんとするものにして苟も國の存立する限り又その目的を達する限り

其南進運動は到底止まざることならん彼の數年前より計畫して敷設に着手したるサイベリ

ヤ鐵道は其終點は浦鹽斯德と定めたれども該地は前記の如くにして决して永久の塲所に非

ず更らに便利なる地位を選んで鐵道の終點を爲すならんとは何人も想像したる所なりしに

偶然にも日清戰爭の結果は乘ず可きの機會を與へて露をして殆んど支那の死命を制するの

地位に立たしめ遼東半嶋の如きは實際に恰も其手中に歸したるの有樣なれば目下の形勢に

して大變動なき上は半嶋の海岸もしくは其附近にサイベリヤ鐵道の終點を見るに至るの日

も甚だ遠きに非ざるが如し是れぞ露國が多年來の目的を達する好機會、彼の干渉事件に隣

國の怨を買ふて顧みざるも自から理由なきに非ず盖し露人の考を以てすれば南進の路は西

洋人の所謂近東に於てするか遠東に於てするか二つに一つにして其目的を達するには双方

共に他國との衝突を免かれざれども近年來遠東に於ける英國の勢力は兎角從前の如くなら

ずして支那の如き固より眼中に置くに足らずとすれば寧ろ其易きを取らざるを得ず即ち彼

が大に遠東に力を用ふる所以なる可し然るに今回近東に於ては彼のクリート事件よりして

希臘土耳其の間に開戰を見るに至れり今日までの成行に就て露國は如何なる方針を取りた

るや裡面の擧動は知る可らずと雖も兎に角に其戰爭は露の爲めには此上もなき好機會にこ

そあれば此機會を利して自から利するの考なきを得ず必ず其邊の運動に拔目はなからんな

れども何分にも近東問題は直接に英國の利害に關するが故にいよいよ切迫の塲合に至れば

極力の反對を見ること必然のみならず他の列國とても固より傍觀す可きに非ざれば露國の

爲めには此方面の困難は今尚ほ舊の如くにして假令ひ運動、圖に當るも其所得は格別のも

のに非ずして單に一歩を進むるに過ぎざることならん若しも希土の戰爭が縺れに縺れて終

に歐洲全般の戰亂を釀し其結果、露の大利益に終らんには其政略も自から方針を轉ずるこ

ともあらんなれども歐洲目下の形勢に於て斯る大變化は固より覺束なく其間に多少の紛紜

衝突あるも詰り甚だしき破裂に至らずして結局を告ぐるものとすれば遠東問題は依然とし

て次第に歩を進めますます多事を見ることならん近東遠東その距離は遠しと雖も事の關係

は甚だ密なり我國人の等閑に付す可らざる所のものなり