「市區改正の速成を望む」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「市區改正の速成を望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

市區改正の速成を望む

東京市は我國の首府にして全國の繁盛を集むる中心の塲所なれば其規模體裁自から相當の

壯觀を具へざる可らず左れば道路橋梁を改良して人車馬の通行を安全ならしめ河川溝渠を

疏通して貨物の運輸を便にし水道下水の類は勿論家屋の制をも新にして市街の整頓を謀り

市民の衛生を進むるの必要は明白なれども遷都匇々新計畫に着手の暇なく家屋を造るにも

道路を開くにも從來不規則の仕來りに一任したるが故に市街の體裁甚だ不整頓にして不都

合極まる有樣を呈したり東京市にして往事の如き都會ならんには差支なけれども首府のま

すます繁盛に赴くに從て其不都合ますます明白となりしかば或る一部の人々は明治十五六

年の頃より市區改正の必要を唱へたり是より先き政府にても從來の道路家屋が日新の事物

に釣り合はざるを認め明治五年の春銀座街の燒失するや燒跡の街路を取擴げ木造家屋を改

めて煉化石造となし其後或は市街家屋の〓〔のき〕端を斷截せしめ或は燒失後新築の家屋

は塗屋となす可き制を定め又或は新に河川を開鑿したる等當局者の盡力も少なからざりし

かども皆一時一局部の必要に出でたるものにて全般の普及を期したるに非ず眞實市區改正

の實効を擧げ首府永遠の利益を圖らんとならば都下全體に行はる可き計畫を立て其大成を

期せざる可らずとて明治十七年中時の東京府知事より此趣を内務卿に上申し政府に於ても

之を認めて審査委員を設け改正の設計を定めしめたり是れぞ市區改正の起原にして今その

設計に據れば道路を一等より五等までに分ち其路幅を六間乃至二十間とし隅田川の川幅を

一定して其流心を整ふる外舊來の河川に改良を施すと共に二三の河川を新に開鑿し鐵道は

新橋上野兩停車塲の線路を接續せしめて橫濱より東北地方に輸送す可き貨物の運搬を便に

するは勿論市内に於ける運搬をも鐵道に依らしめ他日東京灣の築港成るに及んでは該港よ

り陸揚又は積込む貨物の運送を容易にし又橋梁は四等に區別し其幅員を三間乃至十間に擴

張する等にして改正の方針は成る可く舊價に依て漸次改良の方法を施すに在り元來市區の

改正は道路橋梁河川の改良に止まるものに非ず家屋の制水道下水の敷設等必要の事業少な

からず審査委員が其設計を家屋の制以下に及ぼさゞりしは要するに改正の根本たる道路等

の設計にして成るときは他は自から容易に定まる可きを期したるものならん以上は市區改

正に關する大體の計畫にして政府は之に基て明治二十一年八月市區改正條例を發布しいよ

いよ一定の設計の下に改正を全市に普及する事とせり素より道路の改良家屋の改造河川の

浚渫公園の擴張橋梁の架設等は市の繁盛を謀り市民の衛生を進むるに必要の事業たるに相

違なけれ共同じく改正事業の内にて最も必要にして一日も忽にす可らざるは水道の改良な

り改正の目的を達せんとならば先づ之を完成せざる可らず左れば當局者に於ても最初より

此事に着目して速成を望みたれ共其費用を計算すれば上水下水合して千萬圓以上にして容

易の業に非ず而して市區改正の費用には自から定額ありて其中より水道の費用を辨ずるの

餘裕なければ政府は明治廿三年水道條例を發布し水道工事の設計並に同工事に供す可き財

源を定め爾來その事に着手して今正に工事中なり右は今日迄の事實にして其設計を着々實

施するときは市區改正は自から完成す可き筈なれども目下の實際に其事業の進行如何を見

るに中央肝腎の市區さへも未だ改正の利に浴する能はず道路の改良の如き唯道幅の取擴の

みを主眼として修繕維持の法を講ぜざるが故に少しく降雨の續くときは滿路泥濘に變じ又

晴天の日には恰も砂地の觀を呈して人車馬の通行に非常の困難を與ふるは毫も改正前に異

ならず其眼目とも云ふ可き道路の不完全なる斯の如しとありては他の事業の進まざるも怪

むに足らず斯る始末にては今後幾年を經て改正の完成を見る可きや甚だ覺束なきことにし

て其間には府下の商賣次第に繁昌を催ほすと共に地價はますます騰貴して人家の立退取拂

又は土地の買上等に非常の費用手數を要するは勿論種々の苦情反對も起りてますます進行

の困難を感ずるに至る可し改正の設計定まりてより殆んど十年なるに今日如く失火を待て

其燒跡に改良を施すが如き遲緩の方法にては今後百年を經過するも事業の完成は見る可ら

ず堪へ難き次第なれば斷然决斷して當初の設計に從ひ擴張す可き道路は之を擴張し架設す

可き橋梁は之を架設し上水下水の制も速成を謀りて東京の市區をして社會の進歩に副はし

めざる可らず此の如きは實に市の繁榮を增すの基にして又實に全國の利益を進むる道なれ

ばなり

市區の改正を急にするに就て第一の問題は其費用の出所なり最初政府にては市區改正條例

の發布前審査會の設計に基き燒失跡の處分に着手し其費用は將來市區改正の目的を以て徴

収す可き収入を見込みて一時國庫より繰替へ置たるに實際に市街燒失の頻繁なるよりして

國庫繰替の高は早くも十數萬圓に上りたるを以て東京市官有河岸地収入額より毎年五萬圓

を支出する事と爲したれども斯る區々たる財源は永く賴むに足らず其後明治二十一年八月

の市區改正條例に於て更らに改正に供す可き財源を東京府區部内に課する特別税(地租割

營業税雜種税家屋税等)清酒の入市税並に其釀造販賣に課する税(一石に付五十錢)官有

河岸地の収入等と定めたり而して二十三年八月水道工事の設計成るや右の収入より其費用

を辨ずる能はざるを以て東京市會は政府に請願して毎年十五萬圓宛十五ケ年間合計二百廿

五萬圓の國庫補助を仰ぐと共に千萬圓の市公債を募集し其六百五十萬圓を以て水道の改良

に充て殘金三百五十萬圓を以て水道の改良に伴ふ道路河渠等急施を要する事業に充る事と

せり抑も市區改正審査會は最初土地賣上、諸建物移轉、道路改修等に必要なる費用を二千

三百四十八萬六千四百六十八圓と計算し改正條例に定めたる財源も此經費を標準として定

めたるものゝよしなれども今日は諸物價賃銀の騰貴非常にして現に水道の工事の如き鐵管

其他諸材料の代價は設計の當時に比して著しき相違を呈したるよしなれば從來の財源にて

從來の計畫を實にする能はざるは明白なり况んや事を急にして速成を期せんとするに於て

をや更らに財源を求めて大に着手せざる可らず目下府下の商業は繁昌を極むるに拘はらず

市民の負擔は割合に輕く其實力には充分の餘裕あれば更らに特別税を課するは容易の事に

して清酒の入市税を增すが如き最も妙なる可し又東京市の上より見れば其事業は子孫後世

に餘澤を遺して之が爲めに便利を享るものは今の市民のみに非ず其費用は必ずしも即座に

辨償するに及ばず永く後人に負擔せしめて然る可きものなれば特別税のみにて尚ほ不足と

あれば更らに市公債を募りても實際に財源を得るは敢て難からず市民の决心次第にて如何

樣にも出處の工風あることなれば此際大に奮發して大に金を投じ一日も早く完全の實を擧

げんこと希望に堪へざる所なり