「罪惡の責任者」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「罪惡の責任者」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

人を殺傷するは人間の極惡なれども年年此罪を犯すもの千六七百名を下らず特に昨今は殺氣紛紛たるが如くにして妻を殺すものあり夫を殺すものあり又父を殺すものありて日日の新聞紙面も甚だ血腥きは我輩の歎息する所なり葢し其中には利恣の爲めにするものも少なからず或は物を奪はんが爲めに人を殺す者もあらん又或は賭博の輸贏に紛議を生じて遂に血を流すに至ることもある可しと雖も人倫道徳の頽敗より發するものは特に甚だ多きが如し現にお茶の水事件の如きも婦人婦徳を守らずして今日は甲を迎へ明日は乙と契るなど人間にあるまじき行を行ふて耻づるを知らず男子も亦同樣にして屡屡男女の關係を破りしものなれば要するに不品行の結果と見る可きものなり又彼の小岩村の慘事の如きも平生より父父たらず夫夫たらず隨て妻も妻たらず子も亦子たるの道を盡さずして風波絶えざりしとのことなれば詰り家道の修まらざるより發したるものなる可し或は此類の變事は敢て今日に限らず毎度珍らしからぬ沙汰にして何人も直接に其責に任ず可きに非ず政府の罪にも非ざれば學者の落度にも非ざれども然れども又地震の如く雷の如く天災には非ず人事なり自から反省す可きものなかる可らず一口に評すれば社會全體の罪と云ふの外なけれども第一に我輩は上流の紳士に向て注意を促さんと欲するものなり人の上に立つものは有形の勢力を揮ふと共に又無形の感化力を有するものにして社會の風儀は知らず知らず士人の言行に支配せらるること多し若しも政治上又は社交上に於て高地位を占むる人人が品行端正にして醜聲を漏すこともなからんには世の風紀は自から嚴肅と爲り下流の者も何時となく薫陶せられて次第に惡事醜行を耻るの風を生じ自然の結果として殺傷などの騷ぎも■(にすい+「咸」)ずるに至る可し昔し封建の時代に於ては士族と農工商とは全く別種の人間なりしかども士流の間に尚ばれし武士道なるものは自然に百姓町人の間にも感染して一般に忠勇義烈の氣風を養ひ最近の戰爭に於て明に之を事實の上に示したり即ち支那人の閉口したる所以にして上流に立つ者は一言一行の微も深く愼む可き筈なるに然るに今日我上流社會を見れば其品行高尚なりと云ふ可らず黄白の爲めに説を賣り利害の爲めに人を誣ゆるが如きは別問題として姑く措き單に其内行を見るに花を弄し妓に戲れ内を外なる振舞は流行紳士の常態にして其交際も酒食の間を離るる能はず〓務の相談、朋友の閑話も不潔なる魔窟に於てして末は泥醉醜行に流るること多し家に妻あれども外に妾を蓄へ子供は同胞と云ふと雖も實際その所生を異にし父〓〓に在れども日日如何に起居するやを知らず親子夫婦唯その名を存して其實を見ず家庭の團欒骨肉の恩愛も自から圓滿なる能はずして風波の間に不幸なる日月を送るこそ氣の毒なる次第なれ〓の如く〓して社會風紀の嚴肅を望むも得べからざる〓〓〓〓の〓が特に之が爲めに惡に誘はると云ふには非ざれども元來微妙なる其惡心は他の徳風の〓きに連れてますます沈衰し知らず知らず道を踏み外して次第に罪に〓〓は免る可らざるの數なり士人の責任は輕からずと云ふ可し然れども人の品行道徳に關しては尚ほ一層直接に責任を負ふものあり即ち宗教家にして世道人心の修養を以て其專務と爲すものなれば若しも世に罪惡の行はるるを見れば恰も身を切らるるが如き思を爲して退ては自から省み進んでは布教に盡力せざる可らず政治の是非は政治家の責にして民間徳風の盛衰は宗教家の任する所なり然るに其宗教家たる僧侶の擧動を察すれば恰も無神經にして目前に罪惡の横行を見るも之を彼岸の火事と認めて曾て心を勞する者なきは何ぞや思ふに彼等は人間の罪惡を法律範圍内の事として自から安んずることならんなれども何ぞ料らん政法は既成の罪を治するの具にして宗教は其罪を未發に止むるものなり此明白なる主義を忘れて單に眠食を貪る無神經と評するの外なし其無神經は尚ほ恕す可しとするも彼等の内行に至りては言語道斷、紙に記すも穢らはしく出世間の醜態却て世間を驚かすもの多し元來清僧に對して肉食妻帶の事を解きしは單に政府の干渉を止めたるまでにして其之を實行するとせざるとは僧侶銘銘の心得に一任するの趣意なるに彼等は解禁の一令に接して自家本來の戒律を解かれたるが如くに心得、法城俄に春色を催ほして葷酒山門に入り紅粉靈塲を汚し曾て衆生濟度の説教に從事する者が今は却て在家の信徒より説諭せらるるの始末と爲りて隨て寺の威嚴も收入も次第に■(にすい+「咸」)じて只頽敗の一方あるのみ眞宗の如きは肉食妻帶の宗規なれども祖師の之を許すは不行状を許すに非ず然るに今日の坊主等が宗規の自由に乘じて法外に逸し敢て醜態を恣にする其趣は僅に許されたる藥用の酒精滋養品を牛飮馬食するに異ならず其事實は過日來東本願寺の騒動に徴するも明白にして破裂したるは唯本願寺のみなれども大小の末寺も概して然らざるはなし宗教の振はざるは固より其所にして教化の効なきも偶然に非ざるなり特に今後注意す可きは耶蘇教に對する心得如何に在り兩三年の後には外國人も追追内地に雜居す可く同時に其宗教も亦雜居す可し佛教徒は如何に之に處せんとするか耶蘇教排斥の説は往往聞く所にして我輩の素より關係せざる事なれども俗に云ふ商賣敵の佛者には尤もなる説として其説のままに之を許すも人を排斥するには先づ其身の地位を顧ざる可らず自から悖徳汚行に陷りながら他を云云するは天を仰で唾すると同樣にして適適以て我身を汚すに足るのみ自身清淨潔白にして品行端正ならんには世の信仰は自から之に歸して必ずしも他教と爭ふを要せず虎は百獸に冠たるの力あり爪牙を〓して咆哮せざるも他の動物は其影を見て走る可し痩犬の吠ゆるは其無力を證するものなり左れば耶蘇教排斥など夢にも思ふ可らず寧ろ之を歡迎すると共に徳を修め品行を愼み他をして乘ず可き隙かならしむるこそ肝要なれ即ち事實に於て他を排斥する所以にして教化の爲めにも外教に對して自から存立を計るにも勉む可きは修徳の一事に在りと知る可し