「陸軍の射的塲/巡査の俸給」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「陸軍の射的塲/巡査の俸給」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

にて實彈射撃の際、往往流丸を飛ばして近傍の人民に危險を感ぜしむるの事實は毎度耳にする所なりしが今度中野町の少女ハルを殺したる出來事は實際に怖るべき兇變にして最早や一日も捨置く可らず聞く所に據れば射的塲は是れまでも彈丸の外に逸する危險を避くるが爲に遠距離の發射を爲さしめざる筈なりと雖も今の軍銃は甚だ鋭利にして村田銃の如きは一千メートルの遠きに達す可しと云ふ而して練習の兵士中には全くの生兵にして始めて實彈を撃つもの多しと云ふ塲所の構造不完全なるに於ては假令ひ短距離に止むるも發射の際彈丸を外に逸せしむるの過誤は實際に免る可らず射手の誤りは固より咎む可らざるのみか生來始めての射撃に其誤りは寧ろ當然にして斯る生兵に斯る利器を授け不完全の塲所に其術を演ぜしむるは恰も小兒に正宗の刀を持たせて勝手に振廻はさしむるに異ならず危險は必然今更ら怪しむに足らざるなり本來を云へば射的塲は僻遠の廣原四邊に人家もなく通行人もなき土地を擇ぶこそ最上なれども遠隔の地は兵士の往復に難くして此注文は射的塲と共に兵營をも他に移すに非ざれば行はる可らず到底出來ざる相談なりとして目下の計は至急に現塲の構造を換へ外圍を嚴重にするは勿論、都ての裝置を完全にして實際に危險の掛念を絶たしむるに在るのみ或は陸軍に於ても兼てより其計畫なきに非ざれども何分にも費用の出處なきが故に止むを得ずして其儘に付し置くものなりと云へども既に今度の如き兇變を演じたる上は斷じて許す可らず若しも他の事業ならんには塲所の完成までは暫く中止を命ず可きなれども兵士の練習は軍國の必要にして一日も廢す可らざると同時に生命の危險は政府の責任として寸刻も等閑に付す可らず當局者は此際斷然の處置に出で臨時費の支出を請求し時日を期して速に工事に着手す可きものなり彼の鑛毒事件の如き决して生命に關する程の危險事に非ざれども財産所得の損害容易ならずとて政府は鑛山主に對し確と日數を限りて害毒防禦の工事を嚴命したるに非ずや况んや人命の安危に係る一大事にして射的塲近傍の人民は銘銘の自宅に居ながら何時生命を絶たるるも知れずとて寢食も安んぜざるのみか眼前に一人を斃したるの事實さへあるに費用云云の爲めに其儘に付するとは何事ぞや我輩の所見を以てすれば斯る工事の爲めとあれば假令ひ巨額の金を要するも致方なきを信ずるものなり全國各地の射的塲に完全の工事を施すとて其費用は格別にも非ざれば速に臨時費を支出し時日を期して完成せしめざる可らざるものなり今試に流丸の爲めに斃されたる少女の兩親の身と爲りて考へたらば〓〓ある可きや實に一〓〓の不運不幸にして如何に多くの金銀を積み重ねても其不運不幸は到底償ふを得べからず而して今日の儘に付するときは今後尚ほ如何なる兇變も〓られず彈着距離内の公道は何人も往來することなれば假りに萬萬一の塲合を想像して若しも皇族方などが御通行の折に流丸飛來して不慮の出來事を見ることもあらんには責任の當局者は如何にせんとする積りなるや一念ここに至らばいよいよ以て事の急なるを知る可し其事は東京のみに限らず國中各兵營の所在地その他の射的塲も同樣にして人の生命は貴賤に由て輕重なし一日も猶豫せずして速に着手せんこと希望に堪へざる所なり

巡査の俸給

社會の進歩に連れて犯罪の増加するは自然の數なれば政府に於てもいよいよ其取締を嚴重にして事を未發に防ぎ以て生命財産の安寧を謀らざる可らず犯罪豫防の方法には種種あれども差當り警察官をして其職を盡さしむること第一なる可し元來巡査の職たる普通の智識と武術の心得とを要するのみならず夜間と雖も勤務に勞するの常にして時に兇賊等に出會へば生命を失ふの危險さへなきに非ず職務の困難は此の如くなるに其俸給は幾何なりやと云へば八圓より十圓までにして(十二年以上勤續して精勤の効顯はれたる者は特に十五圓まで昇るを得るの定めなれども實際其特典を受くるものは甚だ少なしと云ふ)〓服の如きは官給とするも非常の薄給と云ふ可し從來巡査の志願者は多くは地方の士族にして他に適當の職業もなければ薄給に甘んじて募集に應じたるを以て別〓定員に不足を告ぐるの心配もなかりしが近來工業の勃興するに隨ひ職工の賃銀は著しく騰貴し最下等のものと雖も日給三十五錢を得るに難からざる有樣なれば各地方共に巡査の職を去りて他の職業に就くもの日に多く欠員補充の爲め新に募集するも應ずるもの甚だ少なくして孰れも非常に當惑のよし自然の成行にして今後物價騰貴の爲めに生計費いよいよ増加するときは巡査の志願者はますます■(にすい+「咸」)少せざるを得ず斯くては警察の事務に非常の澁滯を來し犯罪の取締も自から行屆かざるに至る可ければ今日に於て斷然巡査の俸給を増し人を集むるの法を講ずるは至當の處置なる可し左れば今回政府が巡査俸給令を改正して多少増俸の事と爲りたるは我輩の賛成する所にして一日も早く其實施を望むものなれども果して其實施を見る可きや否や甚だ疑はしき其次第は巡査の俸給は府縣費を以て支辨するものなれども目下の地方税は種種繁雜のもの多きに拘はらず年來土木費監獄費等増加の爲めに殆んど取り盡して實際巡査の増俸を斷行するの餘裕に乏しければ府縣會に於ては容易に支出を承諾す可らず無理もなき次第にして斯くては俸給令改正も全く空文に歸し將來募集の上に困難を來すのみならず現今奉職のものには恰も増俸の約束しながら履行せざると同樣にして人を〓ふの道に非ざればいよいよ地方税にて支辨し難き以上は〓〓巡査の俸給は國庫の支辨と〓し増俸の實を擧げざる可らず我輩の切に望む所なり