「人命重し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「人命重し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

人命重し

名譽生命財産は人生の最も大切なるものにして孰れも輕重す可らず或は特に名譽を重んじ

て財産生命にも換え難しとて名の爲め失ふのみならず名の爲めに死するの塲合もなきに非

ずと雖も斯る塲合は實際に稀れにして社會普通の情態に於て第一に貴重するものは生命の

安全に外ならず盖し社會の文野を區別するには自から種々の標準なきに非ざれども事實の

最も著しきものは生命の安否にして野蠻の国々に於ては奴隷僕婢の如き雇主の生殺に一任

するは無論、人文の漸く開けたる社會にても我封建の時代には士族に切捨の特權を有した

るが如き人間の生命甚だ不安全なりしに今日文明の政法は最も此點に注意して生命安全の

保護に就ては毫末の掛念あることなし即ち文明進歩の賜にして今世の人々が前代先人に對

して大に誇る可き所のものなれども爰に我輩の遺憾に堪へざるは法律上には生命の安全な

ること右の如くなるにも拘はらず世間一般の風習に於ては尚ほ未だ然らずして生命を見る

こと甚だ重からざるの一事なり例へば鐵道もしくは馬車人力車にて人を死傷せしめ又は何

かの間違にて不慮の出來事を演ずるは珍らしからぬ事にして日々の新聞紙にも殆んど記事

を絶たず今後人事の繁忙交通の煩雜に隨てますます多きを加ふることなる可し是種の出來

事は眞實の過誤失策より生ずるものにして加害者に惡意なきは勿論なれば被害者に於ても

恰も天災同樣と諦らむるの外ある可らず如何ともす可らざるに似たれども西洋諸國などに

ては斯る塲合に被害者は單に不傷に止まるも終身の生活に差支なきだけの補償金を加害者

より得るの例なるに我國の實際には負傷は勿論、假令ひ死に至らしむるも僅かの内濟金ぐ

らゐにて事濟みとなり被害者は恰も死損に過ぎずとは驚入たる次第ならずや人間の生命は

固より錢を以て買ふ可らず不慮の變に遭ふて最愛の妻子又は只管頼る可き父母を失ふが如

きは實に生涯の大不幸にして如何に金銀を積むも其不幸は到底回復す可らざるものなれど

も實際他に手段もなきことなれば錢を得て損害を償ひ又負傷の爲めに廢疾と爲りたるも

のゝ如き終身の生活費を拂はしむるは今の社會に適當の法と云はざるを得ず或は加害者が

眞實資力なきものならんには致方なけれども會社もしくは政府の如きは充分補償の力ある

にも拘はらず假令ひ過誤失策とは云へ貴重の人間を死傷せしめながら自から損害の責に任

ずること重からずして世間に於ても尋常普通の事として怪しむものなしとは畢竟古來遺傳

の習慣に外ならざる可し容易に改む可らざるが如くなれども我輩の所見を以てすれば斯る

習慣は進歩の社會に不似合にして斷然改めざる可らざるのみか目下差當り事の急を告ぐる

の必要ありと云ふは外ならず改正條約實施の曉に外人雜居の關係是れなり外國人がいよい

よ内地に入込むときは彼我の間に種々の交渉を住ずるは勿論なる中にも時として不慮の間

違ひよりして互に死傷せしむるが如き塲合なきを得ず然るに若しも日本人が人力車などに

て外國人を傷けたる塲合には彼の習慣に隨て非常の金額を償は〓〓られながら其反對に外

國人の馬車にて日本人が轢死したるときなどは其處分を如何す可きや日本固有の習慣に於

ては内濟にて泣寢入と爲る可き處なれども對手が外國人とあれば普通の例外として大に要

求せんか日本人同志にては不問に付しながら單に外人に對して恰も法外の要求とは社交上

に彼我を區別したる談にして彼等をして惡感情を起さしめざるを得ず或は一視同仁、外國

人に對するにも同國人同樣にして生命に關する大事件をも輕々に付し去らんか一應は美德

に似たれども結局彼等の心に日本人の生命甚だ重からずとの念を生ぜしめて輕蔑を招くに

過ぎざるのみ何れにしても事の妙を得たるものに非ず我輩の斷じて取らざる所なれば今後

かゝる出來事の塲合には被害者は容赦なく損害の補償を要求し加害者に於ても其要求を至

當と認むるときは快よく承諾することゝ爲し以て速に人命を重んずるの風を成さんこと敢

て希望に堪へざるなり