「日本の進歩見るに足らず」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「日本の進歩見るに足らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本の國勢は近年來非常に進歩したりと云ふ事實に相違なしと雖も其進歩とは單に國内の有樣を前後相比較して自大自から喜ぶのみ若しも世界の大勢を眼中に認め日本も亦世界の一國として其大勢の前に顏を並べんとするときは我進歩の如き計ふるに足らずして只赤面の外なきを發見す可し第一に海陸の兵力を如何と云ふに日清戰爭の結果は日本に於てこそ古來未曾有の大捷に相違なけれども其對手を見れば老朽腐敗の支那にして既に自から倒れんとしつつありし處を推して倒したるまでに過ぎず三十何年前英佛の同盟軍が僅僅の兵數を以て北京まで侵入し城下の盟を成さしめたるが如き當時支那の軍備は極めて幼稚にして今日と同一視す可きに非ずと雖も支那の武國に非ざるは此事實に徴するも甚だ明白なり又前年クルベー提督が少數の艦隊を以て彼を苦しめたるが如き何れも支那の無力を證するものにして我國の戰勝固より美事ならざるに非ずと雖も若しも戰爭の對手は何時も支那兵同樣に思ふものもあらんには非常の間違なれ兎に角に彼の一戰は未だ以て我實力を試みるに足らずとして戰後の軍備擴張に軍艦何十隻陸兵何十萬人を増すの計畫を聞けば大に驚て其過大を云云するものこそ多けれども世界の列國が軍備に汲汲として東洋の極端迄も常に何萬噸の軍艦を派遣し置くものに比すれば果して如何、我國の全力を擧るも彼の列國の東洋に於ける海軍力に劣ること尚ほ遠きの事實を知らば實際の實力は別に比較するまでもなく自から懸隔の甚だしきを悟ることならん東洋の霸權云云などとは殆んど雲を攫むの談と知る可きのみ次に輸出入の増加は貿易の發達に外ならず數年前までは六七千萬圓臺のものが昨明治二十九年には二億圓に上れり非常の進歩に相違なけれども之を西洋諸國の昨年度輸出入總計即ち英國の七億三千八百萬磅、佛國の七十二億四千萬フランク、獨逸の七十六億四千萬マーク(一昨年度)、露國の十二億二千八百萬ルーブル(一昨昨年)、米國の十六億四千二百萬弗に比すれば如何、計ふるにも足らぬ數にして假令ひ兩三年來の如き勢を以て進むも彼等の次に列するは容易に非ざるのみか我にして進むときは彼も亦その割合に進む可きが故に好しや追付かざるまでも甚だしく晩れざらんとするには非常の奮發を以て永久進まざる可らず前途甚だ遠しと云ふ可し况んや學問教育の如き三十年來の進歩と云ふも實際に何の見る所ありや官私學校の設立多くして新教育を受けたるものも少なからざるに拘はらず世間を見渡せばおみ鬮、灸點、まじなひの類又は彼の淫祠を崇拜して御神水を頂戴するなど尚ほ一般に流行して洋服を服し洋食を食して新日本の新紳士と稱する輩さへも是種の迷信を脱するもの甚だ少れなりと云ふ學問進歩の實は何れの邊に認む可きや今の日本人多數の心を支配するものは矢張り陰陽五行の謬説にして其表面の皮を剥ぐときは百鬼夜行も啻ならず文明開化の光甚だ暗〓〓〓〓見る可し右の如き次第にして自から長足の進歩と〓〓る其進歩は前後を比較して單に一歩を進めたるに過ぎざるのみ世界大勢の面前に對すれば依然たる呉下の阿蒙にして今後その大勢の渦中に投じて果して能く立國の運命を全うし得べきや否や前途甚だ掛念の至りにして苟も油斷す可らず殊に彼の戰爭以來は外國人の日本を視ること以前の如くならず漸く不安の念を催ほして動もすれば我進路を妨げんとするの事實は實際に徴して疑ふ可らず容易ならざる次第にして所謂臥薪嘗膽大に警しむ可き時節なるに近來の樣子を見れば一般の人心戰勝の虚榮に醉ふて宴安自から安んじ世界大勢の所向を察せずして自大自から喜ぶとは何事ぞや殊に洋學者の輩などが何時しか自家の本分を忘れて恰も俗流に降參し洋書の如き高閣に束ね去りて曾て開きたることもなく書畫骨董を弄び謠曲茶の湯などに凝りて若隱居を氣取るが如き沙汰の限りにして一見嘔吐を催ほすの外なし社會の流風かくの如くにして自から悛むるを知らざるときは我立國の運命を如何す可きや苟も學者先達の士人は警世の木鐸を以て自から任じ大に奮發せざるべからざるものなり