「自から時勢を制す可し」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「自から時勢を制す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

自から時勢を制す可し

目下の財政策は增税か借金か二つに一つの外なしとして當局者は孰れを取らんとするか後

の始末を顧みずして一時を姑息せんとならば兎も角も苟も國家永遠の爲めを思はゞ增税の

至當なるは識者の認むる所のみならず當局者と雖も銘々の私に就て意見を叩けば何れも其

至當を認めざるはなし同僚中に殆んど反對者を見ざるが如くなれども扨その輩が相集て一

團體と爲るときは却て其説を唱ふること能はずと云ふ自から意見はありながら之を唱ふる

能はざるは畢竟時勢の然らしむる所にして其時勢なるものには自から當局者をして憚から

しむるに足るの力あることならん今日の實際に政府の輩が重きを置く所のものは國會議員

の向背に外ならず今の議員决して愚ならず目下の財政上に增税の止む可らざるは萬々承知

する所なれども凡そ租税を負擔する人民の身として自から其負擔の增加を喜ぶものはある

可らず否な其私情に一任して勝手を云はしめたらば寧ろ租税の全廢こそ望むことならんな

れば增税の説は本來の性質として多數の人氣に投ず可き問題に非ず然るに議員の輩は其多

數の人民を代表して戰爭前までは只管人氣を得んとして無理と知りつゝ租税の輕減を唱へ

て政府を苦しめたるものなれば今更ら前説を取消すのみか反對に增税論を唱ふることもあ

らんには忽ち人氣を失はざるを得ず殊に總選擧の期限も明年に迫りて既に選擧競爭の用意

に忙はしからんとする折にこそあれば苟も選擧人の機嫌を損す可き異論の如き間違ふても

口にするものはある可らず若しも增税案にても出づることあらんには奇貨措く可しと爲し

反對の大氣焔を吐て以て自家再選の地を成さんとするは何れも同樣にして議塲の形勢は明

白なる其一方に顧みて政府の有樣を見れば内部の結合力に乏しくして基礎の鞏固を缺くが

故に議會に對しても大に逞うするを得ず或は地位を與へ或は利を啗はしめなどにして僅に

多數を制するのみ否な實際には寧ろ他に制せられて恰も其鼻息を仰ぐものゝ如しと云ふ左

れば議會の向背は即ち政府存亡の分目にして只管その操縦に忙はしくして餘念なき其事情

こそ即ち目下の時勢にして當局者の私には自から所見なきに非ざれども此時勢に對しては

心ならずも默々經過せざるを得ずと云ふ其趣は議員の輩が自から其愚を知りながら多數の

私情に盲從すると一般、双々相對して奇觀なりと云ふ可し抑も當局者が時勢に制られて意

の如くなるを得ざるは時勢の力、政府よりも強きが爲めにして其時勢とは單に議會操縦の

魂膽にして然かも多數の私情に投ぜんとするものに外ならずと云ふ何ぞ其無力なるや世界

古今、多數の私情を慰めながら政治の實效を擧げたるの例を見ず况んや苟めにも增税の實

を行ふて人民の負擔を重くせんとするに於てをや自から時勢を制するの力あるに非ざれば

不可なり何ぞ大に奮〓して自から其力を造らざる盖し目下の財政困難なりと云ふと雖も現

に償金の存在するありて其使徒は自から〓〓りながら一時の流用は容易なるが故に後の始

末に頓着せずに單に目前の安を偸まんとするときは自から遣繰の道なきに非ず本來を云へ

ば增税の决斷は昨年に於て既に實行す可き筈のものなるに尚ほ時日ありとて延引したるは

畢竟遣繰の餘裕ありしが爲めに外ならず本年に至りては更らに其上塗りせんとて幣制改革

さへも行ふたることなれば實際の結果は兎も角も竊に空頼みしてますます决斷を延引する

ことならん兩三年の處は夫れにて甚だしき差支も見ざることならんなれども數理は遂に欺

く可らずいよいよ算談の付かざるに至るときは其始末を如何す可きや政府が財政上に破産

するも日本國は之が爲めに滅びず自から回復の手段はある可しと雖も現に困難を救ふの方

法あるのみならず當局者自身にも其方法の至當なるを認めながら之を斷ずる能はず看す看

す危險に陥りつゝあるとは傍より見るも氣の毒に堪へず政府破産の後を善くするは自から

其人ある可しとしても斯る不始末を後に遺すは當局者の不面目否な無能力を自白するもの

にこそあれ斷じて取らざる所なれば此際大に奮發して政府の基礎を固め自から時勢を制す

るの力を造りて其所信を斷行す可きのみ我輩の敢て望む所なり