「 伊藤の歸朝を待つ可らず 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 伊藤の歸朝を待つ可らず 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 伊藤の歸朝を待つ可らず 

伊藤の歸朝は他より促したるものか又は自から思ひ立たるものか局外より知るを得ざれども兎に角に親の大病に等しき此塲合に歸朝とあれば内の當局者の考に於ては名醫の來るを待つ一般の當なきを得ず或は自から治療法は他の醫法に關したるものにすぎざるを躊躇するの意味もあらんかなれども歸朝者に如何なる醫案あるやは姑く擱き今の當局者は取りも直さず主任醫にして眼前に病人を引受けつゝあるものなれば治療の决斷片時も猶豫す可きに非ず他の歸朝如何に拘はらず速に着手す可きものなり現政府の當局者は在野の時より自家の抱負をほのめかしたるのみならず自から當局の後には施政の宣言を公にしたる中にも行政整理の一事の如き實際に着手しながら今日に至るまで毫も見る可きものなきは何ぞや或は其抱負云々は時の政府を倒さんとする爲めの方便にして人氣取りの大言壯語に過ぎず實際地位を得るの外、他に望なきは後の擧動を見て知る可しなど非難するものなきに非ざれども凡そ日本人一般の性質として國家に忠實なるは平素の事實に明白にして斯る輕薄の擧動は尋常普通の塲合にも容易に見る可らず松方の如き殊に忠實一偏の人物にして誠意誠心國事に當りて他念なきは我輩の保證する所なれども正直者の缺點、俗に云ふ奇の弱きが爲めに實際に臨んで躊躇するものと認めざるを得ず喩へば醫者が治療を施すに當り一々患者の訴ふる所を聞て之を氣にする時は决斷容易ならず腫物の切斷は患者の身に痛みを感ずるは無論、石炭酸を以て切開の局所を洗ふが如き其刺衝堪ふ可らざるものある可し治療上に止むを得ざるの處置なれども此塲合に臨んで醫者たるものが患者もしくは親戚輩の俗言を聞て决斷に躊躇することもあらんには到底施術の機會を得ず次第に膿化して不治の症に陥る可きのみ人體の病ならんには單に當人の一身に不具癈疾の不幸を見るに止まれども國家の病氣を擔任する主任醫が區々たる苦情の爲めに危急の重體を傍觀して施術を躊躇するが如き斷じて許す可らざる所なり今の政府部内には省局の廢置、吏員の任免、事の整理す可きもの甚だ多く殊に地方官の如き差當り新陳更代の=を見る可し喩へば八𠀋嶋の如き人智の程度甚だ低く文字を解するもの極めて拂底なるより止むを得ず僧侶をして巡査を兼任せしむるが如き奇談もあるよし嶋地に於ては自から一種の便法ならんなれども文明の教育普及して濟々たる多士に不足なき今の内地社會に於て地方官中には隨分不思議なる人物を擔ぎ出して恰も八𠀋嶋の奇を學ぶの例なきに非ず是種の奇態は中央と地方とに論なく須らく一掃して新人物を登用す可きのみ部内の整理に就ては固より種々の反對もあらんなれども唯是れ患者の苦情と一般苟も醫者たるものゝ耳を傾く可き=に非ず况んや行政整理は當局者の目的のみなり、天下一般の輿論にこそあれば區々たる苦情の如き斷然一蹴して當初の目的を晴す可きものなり次に增税の决斷は如何、彼の金貨法の始末は我輩の失策と認めて==論じたる所なれども今日に至りて如何に論ずるも取返しは付く可らず恰も天災同樣、諦らむる外なしとして最早や容易に言はざる可し敢て當局者の安心を乞ふ所なれども扨今後財政の始末に付き實際に無き金を使はんとするは如何なる財政家をして局に當らしむるも到底工風ある可きに非ざれば增税の外に策なきは明白なる可し或は其决斷に就ては議會の向背如何の掛念もあらんか增税は固より人民の喜ぶ所に非ず銘々の私情より云へば寧ろ租税の全廢こそ望むことなれば或は議會の中にも反對の説あらんなれども其反對は單に增税のみに限らず若しも一々反對を掛念して全く無反對を期するときは國家の事業は何事も行はる可らず苟も自家の責任を重んずるものならんには他の向背如何に掛念せず抱負の實行に勉むるこそ政治家の本分なれば或はいよいよ議會の否决する所とならんには之を解散して飽くまでも實行を期するか又は自から退て面目を全うするか其進退は當局者の覺悟次第なれども我輩の所見を以てすれば目下增税の必要は國民一般に認むる所にして公然異論を唱ふるものなきは畢竟國事の急なるが爲めに自から私情を抑ふるものにして即ち日本人本來の性質を見る可きなれば其决斷は案外容易に行はるゝやも知る可らず要するに行政整理、租税增徴の二事は國事の最も急にして實は昨年政府の組織匆々に斷ず可き筈のものなるに今日までの躊躇は既に大に遲れたることなれば最早や片時も猶豫す可らず部内の改革は明日より直に着手するは勿論租税の增徴は速に其方法を决して次期の議會を待て劈頭第一に提出す可し其决斷は伊藤の歸るも歸らぬも自から責任を負ふて斷ず可き所なるに若しも他の醫案を聞ての上などとて躊躇することもあらんには自から主任醫の本分を盡さゞるものと認めざるを得ず果して然らば當局者の誠意誠心は我輩の敢て疑はざる所なれども國事の急には間に合はざる鈍物として望を絶つの外なきのみ