「臺灣統治の責任を明にす可し」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「臺灣統治の責任を明にす可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

臺灣統治の責任を明にす可し

臺灣統治上の缺點一にして足らざれども最も大なるは責任の歸する所、明ならざるの一事に在り我輩が總督の權限を大にして一切委任するの必要を説くは先づ其責任を明ならしめんが爲めのみ今日の實際に嶋治の局に當るものは總督なれども其總督は拓殖務大臣の監督を受くるものにして充分の權力あるに非ず而して充分の權力ある大臣は遙に事を監督するのみなりと云ふ若しも其施設にして一點の非難なく着々進行の塲合には夫れにても差支はなからんなれども實際に事の擧らずして不始末を呈するときは其責任は何人に歸す可きや總督の失策は當人の過にして自から責を引く可きが如くなれども其處置は拓殖務大臣の監督する所にして全く自由を得ずとあれば必ずしも一人のみを責む可らず然らば嶋治の事は監督者の責任なりやと云へば大臣は實際事の局に當るものに非ず一切の責を負はしむるは酷なりと云ふ可し左れば何かの失策あるに當り總督は大臣の指揮を受て行ひたるものにして他を知らずと云ひ大臣は此方より命令したるに相違なけれども實際の處置よろしきを得ざりしは當局者の失策に外ならずと云ひ互に推委して責任の歸する所なきが如き始末もあらば如何、或は當局者にして大臣の命令に從はざるか又は其實行を誤るが如きは取りも直さず不適任の證據なれば大臣たるものは其職權を以て直に當人を免黜して差支なきが如くなれども今の大臣と總督との關係に於ては容易に行はる可らず今日の實際を見るに總督の地位は一方には大臣の監督に屬するが如くにして又一方には自から獨立の姿なきに非ず斯る次第にして其責任を曖昧にしながら以て事の實を擧げんとす到底望む可らざる事を望むものと云ふ可し右は職制の上に就て述べたる所なれども目下臺灣の施政甚だ振はず單に事の澁滯のみならず續々不始末を演ずるは實際の事實にして最早や蔽ふ可らず世間一般に認むる所なれども其責任は果して何人に歸す可きものなるや政府の處置を見れば甚だ曖昧にして我輩の如き殆んど了解に苦しまざるを得ず此任總督府の改革と稱して民政局長を始め各部長を免黜したるは何れ不始末の責を彼等に歸せしめたるものならんと雖も抑も民政局長の如きは總督府の屬僚に外ならざれば職務上の行爲は長官の命令を受て執行したるものと認めざるを得ず或は其行爲に殊更らに命令に背きたるの事實もあらんには其廉を以て免黜するは當然なれども彼の不始末は一二屬僚輩の處爲に出でたるものとは思はれざるに然るに總督は依然その職に留まりながら單に屬僚を黜けて改革の實を得たりとするが如き自から責任を知らざるものと云ふ可し或は民政局長等の免黜は失策の爲めに非ず本来不適任の人物なるが故に改革の第一着手として黜けたるものなりと云はんか果して然らば總督の赴任以來殆んど一〓〓〓しく屬僚に接して其人物の如何を觀るに充分の〓日もありしことなれば苟も不適任と認めたらんには匆々〓〓して然る可し今日まで躊躇するの理由はなき筈なり或は更らに内情に立入りて總督府の創設以來總督の更迭瀕々なりしに拘はらず屬僚は依然舊の儘にして自から主人たるの姿を成し事情不案内の新當局者は容易に手を下す能はざるが故に斯くは躊躇したるのみ何人をして局に當らしむるも止むを得ざる處にして單に現任者を責む可らずと云はんか眼前に事の急なる臺灣の局に當りながら屬僚の始末に一年間も考へざれば決斷する能はずとは驚入たる次第なれども其事は姑く擱き更らに一歩を進めて論ずれば總督の更迭は實際頻繁にして現在者の如き或は手を下すの暇なかりしとするも其總督を監督する拓殖務大臣は就任以來曾て更迭の沙汰を聞かざるに嶋治の始末に就ては果して監督の責任を盡しつゝありたるや如何、其不始末は實際の事實にして民政局長を始めとして各部長を一時に一掃したる程の次第なるに監督の大臣が今日に至るまで恰も傍觀し去りたるは果して其責任を盡したるものと云ふ可きや否や或は中央の監督者に於ては毫も不始末の事實を認めず今回の改革は全く總督一個の考に出でたるものなりとの辨解もあらんか是れを即ち我輩の前に述べたる責任の明ならざるが爲めに互に責を讓るものにして臺灣統治上の一大缺點にこそあれ我輩は敢て其當局の人物に就て云々するものに非ず目下の儘にては責任の歸する所明白ならずして如何なる人物をして局に當らしむるも到底事の實を擧るの望みなきが故に總督の權限を大にして一切の全權を委任すると同時に拓殖務省を廢して統治の責任を一ならしめんことを主張するのみ