「浪速艦の歸航」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「浪速艦の歸航」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

浪速艦の歸航

近着の電報に據れば浪速艦は去る七日布哇を發して歸航の途に就きたるよし多分來る二十日前後には無事に歸着することならん初め同艦が特別の任務を帶びて横須賀を抜錨したるは四月二十日にして爾來殆ど五箇月の間ホノルヽ灣頭に碇泊して我國威を示し又我在留官民の後楯と爲りて其心を強からしめたる功能は盖しすくなからざることならん特に艦長黒岡氏は軍事に熟するのみならず兼て國際の法に通じたる人のよしなれば在留中他國の艦員に接し布哇の官民に交るに坐作進退みな宜しきを得て自から我帝國を重からしめたることなる可し其勞は我輩の敢て多謝する所なり世間には同艦の派遣に付て異議を唱ふるもの少なからず米布合併問題の俄に頭を擡げたるは日本が浪速を派遣したるが故にして兼て時機を待ち居たる兩國の合併論者は之を以て善き口實と爲し日本は布哇に對して敢て野心を逞しうせんとす其證據は近來の擧動に徴して明なりとて四方に説き廻はりし爲め米政府も最早や黙視する能はず急に合併條約に調印したるなりとは一派の論者が主張して止まざる所なり如何にも合併論者の中には之を口實としたるものもあらんなれども米國の政治家は浪速の進退を以て日本の野心を卜するほど淺墓なる者に非ず米人果して日本を疑ふことあらば其疑は必ず別の事情より來れるものにして一朝俄に發したるものに非ず若しも合併が成るものならば浪速が往かずとも成る可く成らざるものならば往くも成らざる可し其進退は事の大局に影響ある可らず且つ浪速派遣の目的は主として我居留民保護の爲めにして彼の不法なる移民拒絶を見て日本人の激昂一方ならず布哇の人心も恟々たりしことなれば如何なる間違を生ずるやも知る可らず此際一隻の軍艦を派遣して萬一の變に備ふるは至當の處置にして怪むに足らず而して又今回同艦の歸航に付ても世間或は疑を抱く者あらん布哇問題は未だ落着せず仲裁々判に付ては我より條件を提出したるまゝ彼の政府よりは未だ判然たる返答なきものゝ如し浪速の派遣は一面に於ては居留民保護の爲めなれども他の一面に於ては我外交官の後楯と爲り首尾よく談判を落着せしめんが爲めなり然るに今中途にして之を呼び戻すは其意を得ず初めより派遣せぬならば夫れまでなれども既に出發せしめたる以上は何とか極りの付くまで滯在せしめざる可らずと云ふものあらんか自から一説なれども當局者に於ても亦必ず説あることなる可し即ち彼我の人心も時日と共に静穩に歸して此點に就ては最早や何の心配もなきのみならず同艦の滯在は凡そ三箇月の豫定なりしに次第に遷延して殆ど五箇月と爲り此上尚ほ幾月を經て談判落着す可きや豫知す可らず別に爲すこともなく絶海の孤嶋に滯留する士卒の無聊に苦むは勿論或は其艦底に牡蠣など生じて腐蝕するの虞なきに非ず兎も角も一旦呼び戻す可しとて扨は歸航を命じたるものならん強ち無理と云ふ可らず要するに議論は孰れの方面よりも立つ可し要は唯實際の成功如何に在るのみ若しも首尾よく我權利を全うするを得ば浪速の派遣も其歸航も皆至當の處置として世の稱讃を得べしと雖も萬一失敗して談判は我國の不利に歸し且つ合併いよいよ成就せば當局者の進退は總て機宜を失したるものとして批難せらるゝも申譯ある可らず左れば一是一非の世評に噸着せず専ら力を彼の局面に用ひて單に表面より談判するのみならず裡面よりも十分に運動して今日批難の聲を化して他日稱賛の辭たらしめんこと我輩の切に希望する所なり