「一時の熱に狂す可らず」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「一時の熱に狂す可らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

一時の熱に狂す可らず

今回政府と進歩黨との分離に付き或は政府の手續は云云黨員の擧動は云云など双方共に自から是非の説はあらんなれども既に物分れと爲りたる今日、事の是非を云ふも實際に益ある可らず只我輩の望む所は双方共に心を靜にして擧動するの一事のみ離合向背の變は政界に尋常普通の事にして怪しむに足らず或は一局部に就て見れば種種の魂膽掛引も行はれて時としては陰險に類する擧動もなきに非ざれども恰も一時の戲にして跡より考ふれば只一笑に付す可きのみ年來の事實に徴するも明白にして平時に於ては銘銘の心に自から其然るを承知しながら一時の熱に狂するは人情の常にして端なく其塲合に會する時は激昂の餘り全く平生の心を失ひ勢に乘じて極端に趨り飽く迄も他を排斥せんとするの弊なきに非ず人情の弱點、致方なきが如くなれども事に老する者は務めて心を靜にして極端の弊を警しむ可きものなり或は今度の始末に就ても政黨の一方に於ては政府が最初より提携を約して宣言の實行を期しながら政友の忠告に對して單に手續上の行違ひの爲めに今更ら云云とは不埒至極なり飽くまでも反對して食言違約の罪を責めざる可らずとて非難攻撃到らざる所なき其一方に政府の輩は彼の政黨員等が政府を助くると稱して方向を共にしながら竊に陰謀を運らし恰も人の足元を見て強迫がましき擧動は何事ぞや陰險極まる不屆者、斷じて排斥せざる可らずとて互に極端に趨りて政論以外に一種の惡感情を以て相對するに至ることもあらんには其成行如何なる可きや双方共に一時の熱に狂したるものにして自から醒むるの時はあらんなれども當人同士は互に相醒むるも一時の騷動の爲めに激成せられたる情海の波瀾は容易に收まらずして永く禍の種を遺す可きのみ例へば明治十四年の政變に政府の人は頻りに大隈專横云云と唱へて單に黨人を黜けたるのみならず飛んだ處にまでも嫌疑を及ぼして漫に他を敵視したるは畢竟一時の熱に狂したるものにて深き考はなかりしことならんなれども其結果は徒に政敵を多くして政局の困難を釀したるに過ぎず國會開設以來の難局は畢竟當時の失策に原因したるのみ又廿五年の選擧騷動の如きも政府が激昂の勢に乘じて大に爲す所あらんとの大奮發に出でたるものなれども其結果は果して如何なりしやと云ふに騷動は一時の大風雨に等しく忽ち跡を收めたれども之が爲めに地方の人氣を荒くして郷黨隣里の間に容易に解く可らざるの〓を結ばしめて現に地方の施設上に不如意を感ずること多きに非ずや當局者と雖も今と爲りて自から考へたらば自から笑ふに堪へたることも多きことならん今日は時勢大に變化して人人の知見も大に進みたることなれば前年の如き狂態を演ずるものはなかるべし深く掛念するに足らざるが如くなれども一時の熱に乘じて激昂するときは智者と雖も案外の愚を演ずることなきに非ず大に警しむ可き所なり况んや日本の國情以前の如くにして國内の小康に安んずるの時ならんには政界に狂熱を逞しうして〓〓するも差したる妨なけれども目下の時勢は决して然らず内政の施設は所謂戰後の經營にして甚だ大切なる其上に外交の關係はますます切迫して内外共に多事多難の此塲合に一時の熱に狂し双方共に大に激昂して極端に趨り眼中只敵味方を見るのみにして全く他を忘れますます政局の困難を致して苟めにも國家機關の運轉を澁滯せしむるが如きは我輩の斷じて取らざる所なり