「紡績業の前途」
このページについて
時事新報に掲載された「紡績業の前途」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
紡績業の前途
日本の紡績業は近年著しく發達して現在運轉の錘數殆んど八十萬に達し一年の綿絲産出高は五十餘萬俵に及べるのみならず目下擴張若しくは新設中のものも追追出來して來年四五月の頃に至れば凡そ百十餘萬錘の運轉を見る可しとのことなれば絲の産額も隨て増加して七十何萬俵に達す可しと云ふ而して其需用如何を問ふに内地にて消費する高は通例三十五六萬俵のよしなれば其餘は海外に向て販路を求めざるを得ず即ち今日のままにても十數萬俵、來年に至れば四十餘萬俵を清國に輸出せざるを得ず前途果して困難なきか目下日本の經濟社會は漸く秋色を呈し金融漸く必迫して物價の騰貴は依然たり隨て紡績絲の如きは賣行果敢果敢しからざるに付ては既に不如意を〓する會社もある可し或は原料たる綿の相塲も絲價と共に下落したるが故に今日の綿にて絲を製して今日の相塲に賣れば敢て引合はざるに非ざれども既に高き價にて買入れたる原料は少なからざるよしなれば絲價大に騰貴するに非ざれば一時の難儀は到底免る可らず且つ支那の商况を聞くに今や同國は戰敗後の不景氣にて百般の商賣みな不振の淵に沈み居ると云ふ左もある可し如何に大國なればとて幾十萬の兵を動かし幾億の金を費して其影響を感ぜざるの理由ある可らず特に日本が金貨本位を實行すると共に銀の價は著しく下落して銀貨國に對する商賣は自から困難と爲りしのみならず元來支那は銅貨本位の國にして開港塲に於てこそ銀を以て取引すれども内地の人民は綿絲を買ふにも金巾を求むるにも皆銅貨を以てすることなるに然るに近年銅價非常に騰貴したると戰爭の騷ぎなどにて支那政府は數年間銅貨を鑄造せざるが上に之を鑄潰し地金として賣買するものさへありて銅貨の欠乏は一方ならずと云ふ旁旁以て紡績絲の如きも自から下落せざるを得ず然れども又一方より考ふれば商賣の浮沈は珍しからぬ事にして日本の經濟界も常態に歸るの時ある可く支那の不景氣も回復することある可きのみならず綿絲綿布の如きは日常の必要品にして何時までも買はずに濟む可きものに非ざれば遠からずして其需用は舊に復することならん現に停滯せる綿絲の意外にも此程大に賣行きたりと云ふ紡績業の前途必ずしも憂ふるに足らざれども然れども綿絲を製するは獨り日本のみに非ず目前に印度と云へる強敵あり之に打勝つの腕前あるに非ざれば到底困難を免るること能はず昨年中清國へ輸入したる綿絲の總額は五十萬九千餘俵にして内日本より輸入したる高は僅に三萬八千俵に過ぎず其餘の四十七萬俵は孟買より輸入したるものなり然るに前にも記す如く來年に至れば我産額は大に増加す可きが故に三四十萬俵も輸出するに非ざれば需用供給の平衡を保つこと能はず而して三四十萬俵を輸出するには清國の市塲より殆んど一切の孟買絲を驅逐せざるを得ず我紡績業者に果して斯の如き力あるか本年は我國よりの輸出甚だ盛にして十月迄に既に九萬四千餘俵を賣りたるよしなれども是れは印度に黒死病流行して孟買の輸出大に■(にすい+「咸」)じたると當時日本は尚ほ銀貨國にして對清貿易に付て特別の便利ありしとに因るものにして今や日本も印度と同じく金貨本位の國と爲り黒死病流行の如き不時の出來事は勿論、恃とするに足らずとすれば今後競爭の勝敗如何は一に工業の優劣に依て决するの外ある可らず今、日本は印度よりも清國に近くして我紡績業は近年發達したるものなるが故に其機械の如き或は彼に勝る所ある可しと雖も去る代りに彼は手元に原料を有するのみならず其資本は我よりも遙に安きが故に决して侮る可らず其他事業の監督、技術の巧拙、職工の働き方、賃銀の高低等みな此事業の要素にして一一精細に調査するに非ざれば容易に其優劣を知る可らず當業者の宜しく研究す可き所にして其研究の結果もしも我に全勝の見込あれば至極結構なれども萬一然らざる塲合には如何にす可きや事業を縮小するか或は其方針を變ずるが兎も角も之に處するの道を講ぜざるを得ず今日我紡績會社が主として製造する所のものは二十手以下の太絲にして細絲は今尚ほ外國より輸入することなり其然る所以は太絲の方、利益多きが故にして今日までは其れにて宜しかりしかども果して前途に困難あらば一歩を進めて細絲の製造に着手せざる可らず細絲の輸入は年に一千萬圓もある可し此輸入を防ぐは一廉の仕業にして實際家の説に據れば假令ひ是れまで太絲製造に於て得たるが如き利益は期し難しとするも成功は疑ふ可らずと云ふ斯くて細絲を紡出すると共に又綿布の製造に着手せざる可らず紡績絲は半製品にして其まま實用に供す可らず織て綿布と爲して始めて製造品と爲るものなれば製造國を以て立たんとするものは固より絲を紡ぐのみを以て滿足す可らず時に紡績絲の輸出先きは殆んど支那一國に限るが如くにして其以上の國に向ても又其以下の國に向ても販路を開くこと能はずと雖も一旦製して綿布とすれば單に支那のみに限らず天下至る所その需用者と見ざるはなし今日まで紡績業は甚だ好况なりしが故に此點に着眼するもの少なかりしかども果して前途に困難あらば自から織布の計畫なきを得ず事の初めに於ては十分の利益を見ること難かる可しと雖も創業の際に困難するは獨り織布に限らず總ての事業みな同樣にして追追熟練を得るに隨て相應の利益ある可きは疑ふ可らず既に紡績業に於て成功し毛織業の如きも大に發達の徴候を示したる今日の日本に於て獨り綿布の製造に限り他と競ふ可らざるの理由ある可らず紡績業は假令ひ當分多望なりとするも同時に織布業に着眼せざる可らず况んや其前途に於て必ずしも困難なきに非ざるに於てをや紡績業今日の厄運をして斯業進歩の機會たらしめんこと我輩の希望する所なり