「保證準備擴張の不必要」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「保證準備擴張の不必要」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

兌換券の制限外發行高は昨今容易に回收の模樣なきのみならず次第に揄チして年末に至れば四千萬圓に達す可しと云ふ日本銀行の方針にして常道を守らんには疾くに金利の引上をげを斷行して制限外發行の回收を謀るこそ至當にして今日の如く通貨を膨張せしめ世人をして兌換制度の前途に掛念を懷かしむるは處置の宜しきを得たるものに非ざるに然るに世間には此際兌換券の保證準備發行高を擴張して現在の制限外發行を制限内に收め此上更らに兌換券撈ノを維持するの餘地を與へんと唱ふる者少なからず我輩は之を以て今日の經濟社會に不必要にして却て兌換制度の基礎を薄弱ならしむるものと認め先頃既に反對の意見を公けにしたれば政府も決して斯る拙策を取らざる可しと信じ居りたるに當局者は近頃實業家に興へたる意見書に於て兌換銀行券條例の改正を云々し保證準備擴張の意を漏したり當局者が經濟社會に處するの道、宜しきを得ざるは敢て今日に始まれるに非ざれども如何に實業家の要求急なればとて保證準備を擴張せんとは何事ぞや明治十七年條例制定の際に七千萬圓と定めたる保證準備制限を明治二十三年金融上一時の急に應ぜんが爲めに實業家の請求に應じて八千五百萬圓に擴張したる次第なれば今日再び擴張の説を聞くは敢て怪しむに足らずと雖も斯る處置に出でんには經濟社會はいよいよ難局に陷りて復舊の期なきのみならず之が爲めに兌換制度の安全を維持する能はざるに至る可し抑も兌換制度の下に於て正貨準備減少し保證準備の制限も亦狹くして其發行高少なく結局兌換券の收縮を來さんには經濟社會に不便なるが如くなれども決して然らず其收縮は物價の下落を招きて貿易上に輸出超過の實を呈し正貨の流入を促がすを以て日本銀行の正貨準備は自から揄チし兌換券の發行高をして通貨の適當額に達するまで膨張せしむ可し兌換制度に於ける自然の作用にして保證準備の區域に拘はらず毫も金融を沮碍せずして常に圓滑に運轉するを得るは全く此作用あるが爲めなり且つ一國の通貨には一定の限度ありて兌換券の伸縮を自然に一任せんには正貨準備の發行高を保證準備の發行高とは反比例を以て搆クし從て兌換券の發行高をして常に適度に在らしむる次第なれば今、一時の變態に乘じて妄りに保證準備の區域を擴張せんには正貨の流入止まりたる際に却て正貨の取付を揩オて其流出を促かし兌換制度の基礎を薄弱ならしむるは必然の成行なり一朝戰爭飢饉等の爲めに正貨準備に意外の減少を見んには當局者は如何にして兌換券の信用を維持せんとするや今後外資を移入し事業の發達を見んとは當局者の希望する所なるに却て一國の經濟社會に大關係ある兌換制度の基礎を破壞せんとは自家撞着の甚だしきものなるのみならず其希望通り外貨にして移入せんには是迄と異なり外國の經濟社會との關係は日に密となり何時正貨準備に意外の取付を見るやも知る可らざれば此點より見るも成る可く正貨準備の尤實を謀る可き筈なるに却て反對の處置に出でんとす我輩は其眞意の在る所を知るに苦しむものなり且つ當局者も今日通貨が膨張に失せるの事實を認めながら猶ほ資金の缺乏を口實として兌換券昵「の手段に出るは淺慮の甚だしきものにしていよいよ物價を騰貴せしめて金融の逼促を招き之を救治せずして却て激成するの結果を見るに過ぎざる可し往年不換紙幣濫發の際にも一方には通貨膨張の爲めに物價の騰貴と輸出入の不平均とを招き收縮の必要は甚だ明なるに一方に實業家は物價騰貴の爲めに資本の缺乏に苦しみ常に通貨の不足を唱へたるに非ずや然かも當局者は弊害の在る所を看破し着々不換紙幣銷却の方針に出でたるを以て一時市場に不景氣の聲を聞きたるも結局物價の下落を促がして貿易の逆勢を回復し資本に餘裕を生じて事業の發達を見たるは世人の今日に至るまで記憶する所にして若しも此際右の方針に出でざりしならばいよいよ經濟社會の衰微を招きたるや甚だ明なり斯る先例のあるにも拘はらず當局者が今日、確乎たる成算なく區々たる小策を施して更に困難を深からしめんとするが如き我輩の大に遺憾とする所なり