「日本の文明未だ誇るに足らず」
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時事新報に掲載された「日本の文明未だ誇るに足らず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本の文明未だ誇るに足らず
世には舊風に戀戀して西洋の新事物を嫌ひ只管自國の美を吹聽して自尊排外の氣風を養はんとするものあり新文明の先鋒たる可き教育社會すら之に感染して國粹熱の流行する際、日清の戰爭あり首尾よく日本の勝利に歸したるよりいよいよ自惚根性を起して日本は實にエライ國なりとて竊に得意を催すものなきに非ざれども我輩は爾來ますます歐化の急を感ずるものなり日本舊來の事物に於て大に誇る可きものなきは勿論、僅に學び得たる西洋の文明も尚ほ甚だ幼穉にして一として滿足す可きものなし近來事業は大に發達したりと云ふと雖も西洋に比すれば殆んど兒戲のみ例へば文明の骨子たる鐵工の如きは船艦にても汽關車にても將た紡績印刷の諸機械にても概ね外國より輸入せざるを得ず養蠶は盛ならざるに非ざれども專ら生絲を製するのみにして織て以て世間の市塲に出すものは甚だ少なし紡績業は次第に擴張せらるれども只粗大なる絲を製して僅に支那の需用の一小部分を充すのみ未だ綿布を織て外品と競ふの域に達せず貿易は年年進歩の兆ありと雖も我は只座して顧客を待つのみ、出るも入るも皆外商の手を經ざるを得ず鐵道は日に延長せざるに非ざれども其車輛と云ひ取扱方法と云ひ殆んど創始の際と同樣にして何等の進歩改良を見ず近頃日本より米國の或る會社に注文したる汽車の如き彼の國にては既に廢物に屬したる舊式のものにして會社に於ては特別に製造せざるを得ず大に迷惑したりとの奇談もあるのみならず現に京濱間鐵道の如きは他の模範たる可きものなるに其運送法の不始末は横濱商業會議所の陳情書を見るも明白にして或は端舟に依り若しくは馬背、荷車に託して運送する方寧ろ安全にして迅速なること多しと云ふ只驚く可きのみ航海業の如きも近年聊か發達の兆なきに非ざれども内外航路に對して厚き保護あるにも拘はらず殆んど出入償はずして前途困難の色あるのみならず港を見れば何れも設備全からずして數千里の波濤を數週間に航しながら其荷物を陸揚げするに數十日を費すが如きは如何にも堪へ難き次第と云ふ可し有形文明の有樣は斯の如くにして更らに無形の事物を見るに亦ただ幼穉と評す可きのみ政治は多少面目を改めたるに相違なしと雖も臺灣を得て其始末に窮し朝鮮を〓て他國の手に歸せしめたるが如き如何にも不手際至極にして慚愧の外ある可らず之を露國が一兵を動さずして半嶋王國に羽翼を張り滿清政府を掌中に弄する手腕に比すれば同日の談に非ず又西洋諸國は世界の隅隅まで宣教師を出して教化に盡力すると共に印度に飢饉あれば金穀を投じて之を救恤し露國人民の飢寒も他國の事として聞流しにせざるに反して日本は古來義侠の國と稱しながら慈善は未だ國内不幸の民を救ふに足らず宗教は同胞すら濟度するの力なし外人を教化せんなどとは思ひも寄らず我は漸く文明の門に片足を入れたるのみ或は僅に文明の雛形を學び得たるに過ぎずと云ふも可なり戰爭以來西洋人の中にも新強國など稱して我を譽むるものなきに非ざれども是れは單に一時のお世辭か然らざれば只是れまで支那朝鮮と同樣の國と思ひしに案外然らずとて聊か不思議に思ふまでにして眞實我を畏敬するに非ざる其證據は今回獨逸が我面前に於て傍若無人に運動して我に一言の挨拶なきを見ても明白なる可し左れば今日は汲汲として西洋の文明を學び一心不亂に進む可きの時にして漫に國自慢などして戯る可き秋に非ず曾て遼東の環〓を迫まられしときは國民みな臥薪嘗膽を叫びたれども爾來形勢はますます切迫して獨り遼東の事のみに止まらず或は更らに大なる困難に遭遇することなしと云ふ可らず學者も政治家も武人も實業家も各各必死に勉強して富強の實を養ふこと肝要なる可し自國の美を稱賛して自から諂ふは或は人の情に快きことならんなれども國粹賛美の結果は自尊排外にして自尊排外は文明の進歩を障碍すること支那の現状に徴して明なり深く戒めざる可らず日本人民は本來愚鈍に非ず今日の文明は殆んど文明の雛形に過ぎざれども曾て支那の文明を學で其右に出でたるが如く西洋の文明を學で遂に又西洋を陵駕することある可し今日の要は只目的地に向て急進直行するに在るのみ