「應急の用意」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「應急の用意」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

應急の用意

日本は只管平和を愛するものにして其曾て支那と戰ひしが如きは度度の侮辱に何としても默止すること能はざるが爲めのみ其後遼東の領有は東洋の平和に害ありと云へば則ち直に是を還附し朝鮮の如きは戰勝當然の結果として日本の掌中に歸す可き筈なれども敢て之を私するを好まず日露恊商條約を締結して專ら無事を祈るの意を示したり左れば今回の支那問題に付ても平和の終局を望むは勿論なれども然れども日本國民の身體中には血もあれば骨もあり何處まで權利利益を侵害されても尚ほ堪忍するものに非ず否な苟も犯さるることあるに於ては奮然として起たざるを得ず膠州灣の占領は未だ以て直接に日本の利益を犯すものとは云ふ可らず旅順の借用も亦未だ我權利を害するものに非ずとするも今日の勢より察すれば火の手はますます熾にして何れの邊まで延燒す可きや殆んど測る可らず東歐問題は希土戰爭の終局と共に一と先づ落付て差當り混雜の生ず可き模樣なく英國は其寶庫たる印度に反亂ありて或は思ひ切たる運動に〓ならざることもある可し彼の〓〓の三國が今日こそは敢て野心を逞うす可き時なりとして今回の運動を始めたるものとすれば極東の波瀾は今後いよいよ大ならざるを得ず外國電報の傳ふる所に據れば諸強國の運動は次第に歩を進めて次第に活溌なるものの如し現に露國は旅順を占領して砲臺を修築すると共に清廷に向て英國の技師を解傭す可しと請求したるのみならず今度清國政府に一億兩を貸渡す條件として長城以外の鐵道敷設と鑛山開掘の特權を與ふること西伯利鐵道の終極を不凍港に延長すること總税務司ロバート ハート氏を解雇して其後任に露人を採用すること等を恊議中なりと云ふ獨逸は海陸軍の増遣中にして佛國は瓊州に其國旗を飜したりとの報あり(尤も其後の電報に據れば佛國は左樣のことなしと打消したるよしなれども同國が袖手今日の形勢を坐視せざるは明なり)而して英國も亦傍觀せず其東洋艦隊は或は舟山列嶋或は巨文嶋の邊に出沒して爲す所あらんとするものの如し危機一髮の間に迫るは目前の事實にして何時破裂するやも測る可らず此間に立て日本は如何に進退す可きか成る可く平和を祈る可きは勿論なれども左ればとて風波いよいよ烈しくして將に我家を危うせんとするに至れば袖手傍觀するを得ず露が旅順を占領し佛が瓊州に據るも或は對岸の火災視するを得べし然れども一歩を進めて露國が遼東を奪ひ獨逸が山東を略して威海衛の我守兵を追ふも尚ほ默視するを得るか山東遼東は或は忍ぶ可し更らに朝鮮を併呑し澎湖嶋を借用せんと云ふことあらば如何斯くても尚ほ辛抱することを得るか而して今日の事變或は延て此に至ることなしと云ふ可らず隣家火を失して將に我家をも延燒せんとするの虞あるに於ては假令ひ火元に馳せ付けて消防に盡力せざるまでも先づ喞筒を掃除し消防方を警戒して危急に備へざる可らず一令の下、直に總ての力を活用し得るの用意肝要なる可しとして我輩の敢て當局者に注意する所なり