「漫に不景氣を唱ふる勿れ」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「漫に不景氣を唱ふる勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

漫に不景氣を唱ふる勿れ

昨年の外國貿易を見るに輸入超過は五千六百餘萬圓に及び之を一昨年に比すれば二百三十三萬圓の増加を致したるにも拘らず償金公債賣却代金の取寄ありしが爲め金銀貨も輸入超過して其高二千七百五十四萬圓に達せしが償金公債賣却代金の回收漸く止んで今や漸く金貨流出の勢を催ほし金融漸く逼迫して經濟社會の前途甚だ掛念なるが如くなれ共〓に少しく愁眉を開き心を廣うせしむるものありと思はるるは米國の近况にして昨年歐州諸國擧つての不作に反し米國の小麥は非常の豊作なりしに依り外國の需要甚だ多く代價は暴騰して八月下旬には一ブツシエル(一ブツシエルは凡そ我二斗に當る)一弗と云ふ珍しき高直を現はすに至れり但し輸出の總額は幾許なるや未だ之を知るを得ざれども歐洲の■(にすい+「咸」)作は各國を通じて五千八十萬ミートリツタ ハンドレツド ウエート(我十三億四千六百廿萬貫)の巨額に上りたる趣なれば其過半は無論米國より供給したることならん第一の物産斯の如く好况なれば其影響自から國内全般の商賣工業に及びて久しく不景氣の苦境に沈みたる經濟界は追追活氣を催ほし今や將に一陽來復の有樣を呈せんとして例へば毛織物、柔皮、硝子製造等の諸工業は何れも需要増加して隨て製すれば隨て散ずるの姿なるが故に製品の代價は次第に騰貴の傾向さへありと云ふ左れば是等の工業中には工塲に傭役する職工の賃銀を既に引上たるものもあり又引上の約束を爲したるものもあるよしにて其他の製造業も夫れ夫れ多少衰勢を挽回するに至りし中にも鐵道營業は頗る好况にして重なる鐵道會社の昨年一月より三月までの收入を平均するに總收入は一昨年に比し二分を■(にすい+「咸」)じたれども純益は却て二分を増し又前半期の收入は總收入に於て一昨年の同時期を超ゆること僅少なしりかども純益は五分を増し尚ほ九月までの平均は總收入に於て四分、純益に於て一割一分を増したり斯く鐵道の收入増加したるは取も直さず小麥の輸出盛なるに由るものにして昨年九月中旬一週間の輸出高は六百三十萬ブツシエルに上り千八百九十一年九月の六百九十萬ブツシエルを除きては米國の歴史上未曽有の高にして其後も引續き盛况なりと云ふ尤も此繁盛は未だ一般の商工業を潤すに至らずして中には尚ほ不景氣に苦しむものあれども商賣の盛衰を徴するに足る可き鐵道の營業前述の如くなる以上は以て將來を卜するを得べし既に倫敦エコノミストの紐育通信にも本年一月中旬頃に至らば米國の商賣工業は一樣に繁盛を致すならんと見えたり我國輸出品第一の顧客たる同國の商工業にして活氣を生ずるに至れば其購買力自から増加して我國産の需要にも影響を現はすの時節到來せざるを得ず左れば目下我國の經濟界は甚だ不安心なる状態なれども飜て米國の形况を觀察する時は其間亦自から心を慰めて前途の好望を樂しみ得るものなきに非ず假令ひ遽に輸入の超過を償ふは望む可からずとするも多少今日の逆勢を挽回するの効あるは疑ふ可らず漫に恐怖心にのみ驅られて却て恐慌の自發を催ほすが如き斷じて取らざる所なれば我國の商賣人たるものは此際海外の事情を通覽して自から心を強うし漫に失望せざるこそ肝要なれ敢て一言するものなり