「國力増進の一大原因」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「國力増進の一大原因」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國力増進の一大原因

近年來國力増進の實は自から數字の上に徴す可きもの少なからざれども我輩の所見を以てすれば今の世人の餘り注目せざる處に更らに増進の一大原因として認む可きものなきに非ず抑も廢藩置縣の一事は非常の大變動にして單に政治上の改革と見る可らず或は時の政府の當局者には深き考もなく政權統一の一點よりして决斷したることならんなれども實際は日本社會に於ける富の分配法を一變したるものにして影響する所自から大ならざるを得ず只その結果の眼前に現はれざりしのみ廢藩後の有樣を如何と云ふに士族の輩は世祿を止められたる其代りに公債證書を得て種種の小商賣など始めたるもの多けれども所謂士族の商法にして孰れも失敗せざるはなし損するものあれば自から利するものあり商賣の常にして其失敗は國の資本の消滅したるに非ず事の全面より大觀すれば敢て驚くに足らずと雖も兎に角に目前の樣子を見れば何百年來社會の上流に位して勢力を占めたる士族の家は零落流離して見る影もなきに至りしと同時に其士族を得意にしたる舊藩城下の小商賣人輩も之が爲めに影響を蒙りて不景氣を喞つ其一方に農民の輩は兎角新政を喜ばず地租改正の如きよくよく其次第を詳にすれば自家に利益の處置なるにも拘はらず單に御年貢の改正と聞て負擔を増さるるものと思ひ込み竹槍席旗の騷動さへ演じたる程の始末にして滿目の風光甚だ面白からず國内の人心索然として恰も有るものを失くしたるの思を爲さしめたり正しく廢藩後の有樣にして一見或は國力衰弱の徴候を現はしたるが如くなりしかども本來廢藩の决斷は疑もなく日本社會に滋養健康の藥劑を投じたるものなり從來飽暖安逸に身を持ちて五體肥滿の一種の病人に大食を禁じて細々の滋養分を給すると同時に身體の運動を促したることにして健康の法として申分はなけれども久しく飽暖に安んじたるものが養生の法を命ぜられて遽に生活の方法を一變すれば一時身體の衰弱は免かる可らず即ち廢藩後の容體にして前記の如き徴候を呈したる次第なれども滋養健康の効能は早晩實際に現はれざるを得ず自然の數にして我輩の所見を以てすれば廢藩置縣の結果は近年に至り漸く事實に認められて其效能果して空しからざるものあり現に九州地方の或る舊藩地の如き廢藩後一時の成行は他の一般の例に漏れず憐れむ可き有樣にして士族と云へば殆んど顧みるものなき程の次第なしりに今日は然らず商賣工業を營み頭角嶄然地方に傑出するものは孰れも舊士族にして町人百姓は依然たるの素町人土百姓の輩多き中に士族のみ獨りますます進歩の色ありと云ふ思ふに各藩地共に同樣の例を見ること多かる可し本來士族の輩が遽に廢藩置縣の變に遭ひ不慣れなる士族の商法などに從事して失敗したる其趣は恰も劍客が充分の腕前はありながら遽に〓〓〓〓のに接して敗を取りしに異ならず腕の鈍きに〓〓勝手の違ひたるが爲めのみ日本の士族は三百年來〓〓〓〓に精神を〓へ〓したるものにして其精神の〓〓〓自から他の〓〓〓〓〓〓〓〓時代には全力を政治の一方に注ぎて餘〓なかりし〓なれども一日時勢の變化に〓して次第に心構を轉じ加ふるに文明新智識の力を以てして他に向ふときは商賣實業孰れの方面に於ても勢力を逞うせざるを得ず年來素養の然らしむる所、决して偶然に非ざるなり故岩崎彌太郎氏は始めて學者士流の輩を商賣上に用ひたる人にして其實話に曰く丁稚上りの奉公人は十露盤なども巧にして一寸客に接するにも愛嬌あり使ふに便利なれども動もすれば帳面を誤魔化し持逃げなどするもの多くして何分にも信用するを得ず之に反して士流の輩は無骨にして腰を屈するに懶く却て客を怒らしむるなどの缺點あれども第一に金錢を取扱はしむるに大丈夫にして一點の不安心なく又掛合向きの事に當らしむるときは此方の思ふ通りに事を决して無益の世話を要せず無學なる素町人の到底及ぶ所に非ず士族の無骨は之を改めて商賣風に化せしむること易しと雖も奉公人根性は如何にしても治療の法ある可らず商賣上に双方の得失は余が斷じて疑はざる所なりとて二十何年前よりして早く士流の輩を用ふるの端を開きたるは畢竟氏の先見にして三菱會社の成效自から偶然ならざるを見る可し近來諸方の銀行會社などにても往往學者士流の輩を用ふるもの少なからず其成績を聞くに孰れも可ならざるなしと云ふ當然の談にして〓の士流は年來鍛ひに鍛ひたる素養に加ふるに新智識の力を以てして既に心構を一變して恰も新社會の新事物に適應するの腕前を成したることなれば其働きは大に商賣實業の上に現はれざるを得ず我輩は近來の有樣に徴していよいよ事の眞實なるを認むるものなり抑も封建の時代を顧みれば四十萬戸の士族は孰れも常祿を食み他の人民の勞力に生活したるものにして當時の社會は恰も士族と名くる一種の遊民を養ふたるのみならず實際に其遊民輩は士族の特權を有して寧ろ商賣實業の妨を爲したること多かりしに反して今は其四十萬の士族及び其何百萬の子弟は自辨自活の道を得たる其上に學問智識の力をば一向に商賣實業の方面に轉じて恰も國中最上等の智力を擧げて國富の發達進歩を謀るに餘念なしと云ふ國力増進せざらんと欲するも得べからざるなり是れぞ即ち廢藩置縣の結果にして當時の滋養健康劑、近來に至りて始めて其効能を現はしたるものと云ふ可し我輩が國力増進の一大原因と認めて尚ほ今後に望を屬する所のものなり