「紡績業者の覺悟如何」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「紡績業者の覺悟如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

紡績業者の覺悟如何

馬関條約第六條に我國は支那の内地に於ける自由製造權を得たれども本來此特權は諸外國にも均點す可きを以て各國相爭ふて我國の大市場たる支那に製造業を起すに於ては我内地の工業殊に紡績業の發達を妨害するの掛念なきを得ざるより一昨年十月支那政府が内地製造品の課税を熱望するを幸ひ、我に一二の特權を收めて彼に課税の自由を與へたるは世人の記憶する所なるが之が爲めに彼の内地に企てたる上海東華兩紡績會社の計畫は何れも立消の姿となり我紡績業者は矢張り内地に於て製造したる錦絲を支那へ輸出するの方針を執りたり幸に近年銀價の下落したるが爲めに我綿絲は支那市場に於て印度綿絲を排斥して着々販路を擴張し前途いよいよ有望の位置に達したるに昨年十月金貨本位の實施以來は形勢、頓に一變し銀價の下落と共に支那宛の爲換相場は騰貴するを以て我紡績業者は輸出上非常の不便を感ずるに至れり而して啻に爲換相場發動の爲めに困難を被むるのみならず銀價下落の餘惠に乘じて支那の内地に紡績業を起す者あるは必然の勢なれば我紡績業者にして永く今日の販路を維持せんとならば此際支那の同業者が容易に競爭する能はざる細絲の製出に着手す可しとは我輩が先頃當業者に勸告したる所なり然るに近日上海發の電報に據れば支那政府は今度内國製造の綿絲に通過税を免除する事に決定したりと云ふ從來支那に於ける綿絲の課税を見るに内地製造のものには一俵に付き二兩一匁の製造税と其半額に當る通過税とを課し外國より輸入するものにも二兩一匁の輸入税と其半額に當る通過税とを課したるを以て支那の市場に於て内外綿絲の負擔は同額なりしが今後内地製造の綿絲に限り通過税を免除せんには我國より輸入する綿絲は一俵に付き一兩五分丈け餘分の負擔を加へらるゝ次第なり綿絲の輸出には此上もなき妨害にして當業者に取りては非常の困難と云はざる可からず或は當業者閒には政府をして支那に交渉せしめ輸入綿絲の通過税をも免除せしめんとの説を抱く者ありと云ふ果して行はるれば内外綿絲の負擔は同額となりて目下の困難を免かるゝを得べし外交上の手段に依りて斯る落着を見るは我輩の最も希望する所なれども支那政府が内地製造の綿絲に通過税を免除するは紡績業者の要請に由るとは云へ財政困難の今日に於ては非常の決斷にして其目的は近頃内地に紡績業の勃興する傾あるを好機會として外國の輸入綿絲を排斥し以て大に其發達を保護するに在れば一通りの外交談判にて目的を達するや否やは知る可らず又假令ひ支那政府に於て通過税は着金其他の内地税の賦課を免かれんが爲めに便宜上一時に税關に於て輸入税と共に納むるものにして内國製造の物品に之を免除する以上は外國の輸入品にも當然課す可らざる性質のものなる理由を解して免除を承諾したりとするも之が爲めに我紡績業の前途は安全なりやと云ふに決して變らず從來支那の市場に於て我綿絲が印度産のものと競爭して勝を占めたる其原因は銀價下落の外に我國に於ける職工の賃金低廉なると運送上に便利を得たるとの二點にあれども支那内地に紡績業の起りたる場合に之と競爭するには支那人の生計は我國より寧ろ低度に在りて職工の賃金も從て低廉なるのみか我紡績業者は支那までの運賃其他の諸雜費丈け餘計の負擔を被むらざるを得ざれば印度綿絲を排斥したると同樣の勝利は甚だ覺束なき所なり昨今支那の内地に於て製出する綿絲は十四手内外の太絲にして我内國産のものに比すれば精粗の區別なきに非ざれども支那政府にして今度の免税と同樣、今後も着々事業の發達を奬勵する其一方には銀價下落の餘惠を得て次第に其地歩を鞏固にして我輸出綿絲に對して大に競爭を試むるに至ることならん殊に支那の開港場に紡績業を計畫するは單に西洋諸國の資本家なれば其發達に就て見る可きものあるは疑ふ可らず紡績業前途の困難にして斯の如くなりとすれば之に對して當業者は如何に覺悟す可きや外國の資本家の如く事業を支那の内地に移さんには通過税免除の恩澤に浴するを得るは勿論今後の銀價下落に處しても甚だ安全なれども是れは今日の如く小會社分立の姿を成して何れも基礎の固からざる場合には容易に行ふ可らず寧ろ此際當業者が大に奮發して原料を精選し又は職工の養成を謀るなど種々の注意を通して彼の事業の未だ發達せざる其内に綿絲の製出に着手するこそ至當の處置なる可し支那四億有餘の人民が次第に開化するに隨ひ綿絲の需要が際限なく增加するは必然の成行なれば彼の機先を制して細絲の紡績業を我手に入れんには永く輸出の勢を維持すること決して難きに非ず通過税問題の落着如何に拘はらず當業者が前途の形勢に際して速に自立の計を立てんこと我輩の勸告する所なり