「老物優遇」
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時事新報に掲載された「老物優遇」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
老物優遇
今の世の中を見れば藩閥元老云々は單に政府のみに非ずして商賣實業の社會にも尚ほ故老舊物の跋扈を見る可し近來實業界の中には次第に新進の人物を容るゝの風を成して大に面目を改めたるものもあれど滔々たる一般の社會は尚ほ未だ然るを得ず或は局部方面の仕事には文明流の新人物を用ひて往々見る可きの效を收めながら全體を支配する所謂重役の地位は依然創立以來の舊物もしくは其事に關係したる老輩にて占むるもの多きが如し社長頭取などの役目は單に事の大綱を總攬するのみにして細務の實際に當るものに非ず苟も老巧の宿望を具ふるものならんには必ずしも學問智識を要せざるが如くなれども會社と云ひ銀行と云ひ孰れも文明の事業にして其事業の大綱を攫るものが文明の智識に蒙昧とありては以下の各部面に如何なる新人物を用ふるも其輩をして充分の働きを逞うせしむることは到底望む可らず抑も大綱と云ふ其綱は單に一本のみに非ず各局部に通ずる幾條の綱の元を總攬するものは社長頭取の手にして其綱の操釣加減は緩急疾徐おのおの手心を一手總攬して操縱の度を誤らざるは即ち重役の技倆にして文明の新智識に乏しき老物輩をして其地位に當らしむるは恰も和船の船頭をして西洋形なる船舶の指揮を司らしむるに異ならず海上の航海ならんには危險は目前なれども社會の風波は案外穩なるが故に幸にして顛覆の患を免るゝのみ今の大綱の總攬甚だ容易ならずと云ふ可し例へば鐵道事業の如き純然たる文明事業にして苟も文明の智識あるものに非ざれば事に當るの資格はある可らず或は各局部の方面には相應の新人物あるも大綱を操縱する綱元の輩が文明派の手心を解せず緩にす可き處に急にし急にす可き處に却て緩にすることもあらんには全體の管理上に統一の實を缺て種々の不都合を免れざる可し今回日本鐵道會社の同盟罷工事件の如き事の理非曲直は容易に斷言するを得ざれども多數の雇人の中にて特に一部分の輩にのみ限り待遇を云々して事を企るに至りしとあれば自から管理の統一を缺きたるの實を見る可し若しも此點に着目して會社の内部を眺めたらんには種々の事實を發見するに難からざることならん兔に角に同鐵道の如きは國中第一の會社にして他の模範として見る可きものなれば今回の事件の如き關係する所決して小ならず目下の始末は兔も角も善後の策に就ては事の原因に遡りて自から匡正すること肝要なる可し之を要するに會社なり銀行なり苟も文明の事業は文明の人を得て之に託せざる可らず即ち故老舊物に代ふるに新智識の新人物を以てすることにして事業の改良進歩は此外に工風なしと知る可きものなり然らば從來の舊物は事情の如何に拘はらず一切放逐し去る可きやと云ふに我輩は必ずしも放逐を唱ふるものに非ず蓋し我國の私設事業は孰れも明治初年來の發起にして政府の保護に依賴して成立したるもの少なからず左れば當時の有樣に於ては事業の發起經營に突ては所謂交際の廣き老巧家などをして官邊に周旋奔走をせしむるの必要ありしが故に其輩を推して事に當らしめたることなり固より經營の技倆あるに非ざれど兔に角に周旋奔走の事には少なからざる力を致したる縁故より自から現在の地位をも成したる次第にして其功勞は決して沒す可らず今に至りて之を放逐するが如きは殘酷至極、人を遇するの法に非ざれば是種の老物は充分に金を與て優待しながら只實務に當ること避けしむ可し即ち其功勞に酬ゆるものにして當人に於ても遺憾なきことならんなれば斯くて老物を始末して新進の人物に代ふ可きのみ若しも然らず依然其輩をして事に當らしむるに於ては優勝劣敗は物の數にして遂には藩閥政府と同樣の末路を見ざるを得ず大に考ふ可き所のものなり