「儒教主義の害は其腐敗に在り/朝野政客の往來」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「儒教主義の害は其腐敗に在り/朝野政客の往來」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

排外思想と儒教主義とは實際に離る可らざるものにして今の排外の氣風を養成したるは其教育の結果に外ならず事實に徹して疑ふ可らざる所なれども抑も我輩が只管儒教主義を排斥せんとする所以のものは決して其主義の有害なるを認めたるが爲めに非ず周公孔子の教は忠孝仁義の道を説きたるものにして一點の非難もなきのみか寧ろ社會人道の〓〓として自から〓〓す可きものなれ此點より見れば單に儒教のみならず神道と云ひ儒教と云ひ道德の教を説くの一段に至りては孰れも同樣にして社會人道に裨益する所のもの甚だ少なからず或は彼の何々〓〓は何々教會など稱する類の如き一〓に淫祀邪道として擯斥するものなきに非ざれども假令ひ是〓〓〓にても人を殺し利を盗むの惡行を〓むるものはある可らず其説く所に淺深高卑の差はあれども善を勸め惡を戒しむるの一點に於ては孰れも其〓を一にして〓〓共に人道に益するものにこそあれば決して擯斥す可きに非ず凡そ人間の智識は非常に程度を殊にして上々限りあると同時に下々亦限りある可らず左れば宗教の信仰に就ても唯一の〓〓、無形の経典を信ずるものを先づ上〓〓類として以下に至りて〓天を拝し木を拝しては下等の動物を拝するも〓〓なきに非ず智識の程度如何に由るものにして喩へば人間半生の常食に物の種類を〓にするが如し片田舎の地方などには〓の〓稗粟の類を〓〓して〓腹を充すものあり米と肉とに飽く〓人士〓には斯る物が如何にして口に入るや殆ど解せざることならんなれども彼等は之に滿足して毫も空腹を訴へずと云ふ米肉に非ざれば人間の常食とするに足らざるの理由はある可らず故に經世家の所見に於ては如何なる宗教にても人民の信仰心さへ滿足せしむるに於ては一切不問に付し去り其正邪異〓の議論は之を宗教家相互の爭に一任す可きのみ况して儒教の如き古來上等社會の間に行はれて自から道德を維持したるの效能も少なからざることなれば其主義に就ては決して非難の點を見ず純粹無垢の德教として大に敬重す可きものなれども我輩の所見に於て殊に之を嫌ふて排斥せんとする所以のものは其主義の純粹無垢に拘はらず腐敗し易き性質を具へて今は全く本來の本性を一變して腐敗の極に達したる其害毒を認むるが爲めに外ならず喩へば飯は米より炊きて吾々の常食とする所のものなれども時を經て腐敗を催ほすときは如何にしても食ふに堪へず又酒の如きも之を貯ふるに其法を得ざるときは腐敗を醸して酢に變ずることあり其元は〓とぐ米より出づるものなれども酒と酢との相違は非常にして酢に變じたる酒は一滴も口に入る可らず儒教主義は周公孔子の唱へたる教にして本來は純粹無垢のものなりしかども今は既に腐敗したり否な腐敗は既に幾百年前よりのことにして本來の眞は全く見る可らず即ち流毒の甚だしき所以にして〓〓は主義の〓に非ず腐敗の結果と認む可きのみ試に我國の事實に徴するに眞實その主教を丸出しに行ふて效能を收めたるものありやと云ふに絶えて見出すを得ず或は〓流の輩にして時として世に用ひられて多少の經綸見る可きものなきに非ざれども儒教主義の本旨はと云へば孰れも物議を免かれざる人物なるが如し例へば〓〓魯〓、物徂徠の如き時の學問社會よりは〓〓の徒と認められたるものにして彼の赤穂四十七士の處分に付き徂徠が忠は一人の忠にして法は天下の法なり一人の忠の爲めに天下の法を枉ぐ可らずとの説を主張して大石以下を死に處せしめたるが如き理義明白にして其見〓は四十七人齊〓刃、皇天議〓〓島忠貞など悲情〓〓その死を悲しみたる林〓一報〓〓〓金〓及ばざる所、經綸の〓は所謂〓〓〓〓〓在りし〓見る可し又政局の實際を見れば德川〓〓公〓〓〓儒教を重んずると〓して儒者を近づけながら〓〓の中には別に天〓〓言を〓して機密に〓せしめたるが如き〓の〓〓〓深く佛學を修めて佛典に通じたること東西〓一〓の談にして儒教の腐敗既に久しく實際に用を爲さゞるの證拠なれ〓らに轉じて其本家本元なる支那を眺めたらば果して如何又その分家なる朝鮮は如何、其國民は口に忠孝仁義を唱へながら行は全く反對にして不忠不孝婦不仁不義あらゆる人間の惡德を恣にして到らざる所なく腐敗も腐敗、既に其極に達して臭気紛々只厭ふ可きを見るのみ其〓ぶ可きは尚ほ〓なれども自から之を知らざるのみか尚ほ且つ華夷内外の別など云々して漫に尊大に構へ他を排斥せんとして自ら躓き自から亡國の末路にさまよ〓の〓あるこそ支那朝鮮の現状にして畢竟腐敗〓〓の結果に外ならずと云ふ可し左れば儒教本來の主義は純粹無垢にして毫も非難す可きの點を見ずと雖も其腐敗の餘毒、國を害するに至りては斷じて〓〓可らず我輩の極力排斥して寸毫も〓〓せざる所以なり

朝野政客の往來

新聞紙の所〓に據れば先頃伊藤の官宅に板垣を招て小宴を催ほし又此程は大隈の家に伊藤井上等の來客を見たるなど朝野政客の間に交際往來の〓を〓きたるが如し派〓の佳事と云ふ可し本來是等の老〓は維新の前後より事を共にしたる政友の〓〓〓〓〓なれば時勢の變化に隨て自から〓〓〓〓〓〓〓に〓〓〓ば止むを得ざる〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓に就ては〓も〓る可らざる筈なるに從來の跡を見れば一朝の政變に手を分ち朝野の地位を異にするときは互に相見ず〓に自から徃來せざるのみか書信の往復さへも絶無の有樣なりと云ふ其〓は恰も碁將棋の勝負に〓を〓はして年來の交際を絶つものゝ如し傍より見るも氣の毒に堪へざる次第なり然るに今や自から往來の地を開きたるは尋常一樣人間交際の事を行ふものにして敢て珍らしからざるに似たれども一方より見れば亦自から政界進歩の徴候として認めざるを得ず盖し明治十四年の政變に政府が大隈を始めとして苟も異主義のものと認めたる〓は屬官〓の類に至るまでも一人も餘さず罷免せしめたる如き又その後大隈と板垣と一寸會合したりとて樞密顧問たる大隈の職を免じたるが如き凡そ其當時前後の有樣を見れば苟も政府に反對の説を爲すものは恰も亂臣賊子と認めて之を〓へて〓に〓き又は放逐するなど窮迫到らざる所なく所謂大義親を減ずるの意氣組にして況して朋友の舊〓など思ふに遑あらざりしことならん窮屈至極の次第なりしに時勢の進歩は驚く可きものにして今日は政府の當局者も當年の亂臣賊子と手を携へ事を共にするに至りしと云ふ其跡に就て見れば全く狂人の沙汰にして只驚く可きのみなれども是れぞ政界進歩の順序にして前年來の經驗を〓して始めて今日の進歩を見たるものなり即ち近來朝野政客の間に往來の〓を開きたる如きもますます其進歩の著しきを證するものにして其人々も漸く大人の本色を現はしたるものと云ふ可し我輩の一言政界の爲めに祝する所以なり