「物價の前途」
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時事新報に掲載された「物價の前途」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
物價の前途
昨年十一月以來正貨の輸出入は從前と趣を異にし本年三月中旬までに金銀の輸出超過は既に二千五百七十七萬餘圓に上り昨年の春頃は一億一千萬圓臺を上下したる日本銀行の正貨準備も最近の報告に據れば七千七百萬圓内外に減少するに至れり斯く正貨準備の減少するに連れて日本銀行は續々金利を引上げ兌換券を回收して通貨の收縮を謀りたるを以て普通の道理より云へば物價は次第に下落して貿易上に輸出超過の實を呈す可き筈なるに昨年來の實際を見れば容易に下落の望なきのみか却て昨今は騰貴の傾ありと云ふ世間一般の豫想に反したる現象にして今日物價の前途に就て種々の疑念を懐く者あるは已むを得ざる所なれども本來通貨の多寡が物價に變動を及ぼすに當て多少の時日を經過せざる可らざるは當然の事にして若しも昨今の如く兌換制度の作用を自然の成行に一任せんには正貨の流出は永く其勢を收めずして今後大に通貨の收縮を招くを以て結局物價を下落せしむるの効こそあれ今日は未だ其時に非ず殊に近年經濟社會の發達と共に商賣上に信用の行はるゝに至りたるは明白の事實にして其作用は通貨を增加したると同樣の効力ある者なれば斯る塲合に多少の正貨が海外に流出したるのみにて直に内國に流通する貨幣の價格を騰貴せしめ物價の下落を促すが如きは到底望み難き所なる可し現に近頃の兌換券週報を見るに日本銀行が保證準備の發行高を增加しつゝあるは數字の證明する所にして一時二千三百萬圓内外に減少したる制限外發行高が再び增加して四千萬圓臺に上らんとするも畢竟斯る事情に出づるものに外ならず今後いよいよ正貨準備の減少せんとする他の一方には製茶製絲の季節に入りて資金の需要、增加するときは日本銀行は如何にして之に應ぜんとするや大に注目す可き所なるが兎に角今日は保證準備なる一種の信用に依賴して兌換券の增發を維持しつゝある次第にして日本銀行が永く斯る方針に出でんには正貨準備の減少する割合に兌換券を收縮する能はず從て内國の貨幣が今日の如く海外の相塲と平均を得ずして常に物價の騰貴を維持するは必然の勢なり即ち信用の發達が物價を騰貴せしむる明白の例證にして斯の如きは常に兌換券增發の塲合のみに限らず今日經濟社會の實際を見れば商賣取引の多くは信用に依て行はるゝの常にして手形の流通高は年々次第に增加し通貨收縮して金融の逼迫せんとする塲合には却て其流通を促し一時物價下落の勢を抑制すること少なからずと云ふ今日〓〓制度の作用が自然に復しながら尚ほ物價の下落を見る能はざる其原因は要するに信用の盛に行はるゝが爲めに外ならざれば今後正貨準備の減少いよいよ甚だしきを加へ日本銀行が更らに信用に依賴して兌換券を增發するときは却て正貨の取付けを促して兌換制度の基礎を破壊するが如き難局に陥り自衛の爲めに斷然保證準備の增加を制すると同時に世間一般に不景氣を氣構へて信用取引を手控へ信用機關の作用を澁滞せしめて眞に通貨の收宿を來したる塲合に至らざる以上は物價下落の実を見る能はざることならん經濟社會の裏面には自から斯る事情あるをも顧みず世人が動もすれば正貨の流出と共に物價は直に下落す可しと考ふる他の一方には物價の變動は通貨の增減と直接關係なしとするが如き共に誤れるの甚だしきものと云はざる可らず我輩が事の眞相を明にして注意を與ふる所以なり