「自から自國の地位を認む可し」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「自から自國の地位を認む可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

外交の事を論ずるには先づ第一に自國の地位事情を考へざる可らず國權の伸縮は國力如何の實問題にして決して空論に非ず我國の歴史に徴しても自から明白なる可し嘉永開國以來德川政府の外交始末は今更ら言を俟たず王政維新の後に至りても外國との交通は頻繁なれども對外の勢力甚だ微弱にして政治上の一方より見れば全く外交なしと云ふも可なり條約改正の一事の如き我商人多年來の〓望にして熱心盡力一方ならざりしにも拘はらず曾て功を奏せず殆んど〓望の姿にして當時の事情を顧みるときは或は竊に立國の前途を掛念したるものさへなきに非ず實に哀れなる有樣なりしに事の成行は案外にして爾來條約改正も着々成を告げ殊に日清戰爭の一擧、大に國光を發揚して新強國として世界に認めらるゝに至りしこそ愉快なれ其原因は自から種々にして人智の開發、商賣工業の進歩、軍備の整頓等一々計ふるに遑あらざれども之を要するに國力發達の結果に外ならず外交の決して空論に非ざるを見る可し左れば外交の進歩は國の爲めに大に賀す可しとして國力の自から恃むに足るものあるは實際の事實なれども扨その國力の程度は今の世界の列國と相對して凡そ如何なる邊に位するや外交上に大に考へざる可らざる所のものなり或は戰勝の爲めに國光を發揚したりとて遽に世界強國の伍に列したるが如く思ふものもあらんなれども虚心平氣廣き世界を見渡したらば果して如何、假に今の世界を我國の封建時代と見做すときは西洋の諸強國は加賀薩摩仙臺等の大藩にして日本は尚ほ十萬石か二十萬石の小大名なるを免かれず小藩小なりと雖も亦自から一國にして他に屈す可きに非ず大小相對し權利の同等は無論にして大藩の大、漫に怖る可らずと雖も實際の數字上に其力を比較するときは大小強弱到底及ぶ可らず然かも封建の時代には厳然たる統一の政府ありて各藩互に相侵すを得ざりしか〓も今の世界は恰も群雄割據の有樣にして其擧動を制裁するものなしと云ふ或は萬國公法又は國交際の禮儀など云へども只是れ表面の〓〓を粧ふ虚〓虚法に過ぎず實際は弱肉強食唯〓〓あるのみにして眼前の事實〓々徴す可きものあるとすれば〓も世界に國を立てし外に對するの手段は決して容易ならず日本人たる〓〓〓〓〓は如何にして可なるやと云ふに〓〓〓〓ち自國の〓〓を考ふること肝要にして〓〓〓〓〓〓〓〓〓れど〓〓〓〓今の〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓兵が〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓し〓〓〓の〓〓〓に對したる〓〓〓〓〓〓〓を〓むるものなり當時家康公は年尚ほ若しと雖も希世の名將にして之を助くる譜代恩顧の輩には傑出の人物少なからず三河武士の意氣自から他を壓するの概ありしと雖も四隣を顧みれば東に今川あり西に織田あり武田と云ひ北條と云ひ孰れも嚴然たる強大國にして互に睥睨對峙する其間に處して小國の體面を保ちたる苦心經營は果して如何なりしや決して武勇一偏の能く了する所に非ざるなり最初は今川に結んで織田に抗し今川の斃ふるに及んでは更らに織田と同盟して他に對し又武田北條に對しても決して絶對の敵意を示さず或は時として大に戰ひたることなきに非ざれども其戰ふや必ず強國間の權衡を利用して機宜を誤らず大に力を伸ばしたることもなき代りにまた大に屈したることもなく終始國内の〓〓に心掛けて次第に領土を廣め次第に強國の實を成したるは決して戰爭の力のみに非ず多くは外交の手段に依りたるものにして今川織田武田北條等諸強國の間に處したる其當時の手段こそ德川氏の最も苦心したりし所ならん我國目下の事情にして果して當年の德川氏と趣を同うするものありとすれば外交の手段は最も苦心を要するの時なる可し或は日清戰爭の一事を非常の手柄と認めて大に得意を催ほすものなきに非ず日本人の身として考ふれば非常の手柄に相違なけれども世界の眼を以て見るときは彼の一事の如き恰も家康公が大高城に糧を納れたるぐらゐのことにして日本人が外交の初陣に技倆を現はしたるものとして認むるに過ぎず小牧の一戰、〓〓〓をして德川の侮る可らざるを知らしめたるが如き自から他日に期せざるを得ず思ふに日本小なりと雖も國民の精神〓力〓〓〓も〓さず當年の三河武士にして外交の艱難に處〓〓〓て屈するものに非ず今の外國強大なるに〓〓れども實際には或は今川の如きものもあらんなれば一方には外交を勉めて巧に目下の困難を經過し一方には大に國力を養ふて重きを持するときは他年一發他をして畏敬するに〓〓しむるも決して難きに非ず吾々日本人たるものは自から自國の地位を認めて事を遠大に期せざる可らざるなり