「對韓の方針」
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時事新報に掲載された「對韓の方針」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
昭和版『続全集』(1933、34 年刊)に収録されています。
この社説に関して、平山氏から、「この社説は石河が執筆したと推定できます が、 この社説の内容に反対する「朝鮮独立の根本を養う可し」(18980504・全集未収 録)が約1週間後に掲載されています。こちらは福沢執筆と推測できるので、この社説の掲載により 福沢が、次男捨次郎と石河による編集方針に不満を抱いていたことがわかります」 というメールが寄せられています。
本文
對韓の方針
外交論の大に謹しむ可きは今更ら云うまでもなき次第にして、我輩が大言壯語を好まずして沈着を旨とする所以なれども、今こゝに沈着と果斷を相對して其傾向を見れば、沈着の極は文弱に流れ易く、果斷の弊は粗暴に趨る恐れあり。左れば或は沈着を目して文弱など認むるものもあらんかなれども、我輩の本意は他の粗暴輕率を抑えんとするに在るのみ。文弱必ずしも沈着に伴わざるのみか、沈着即ち沈勇にして、中心深き處に充分の勇氣を存し、冷靜自若、以て目下の事に處せんと欲するものなり。昨今東洋の形勢云々と云う其形勢とは、明々地に云へば支那朝鮮の現状にして、之に對する問題に外ならざる可し。其問題は實に目下外交上の緊急事にして、我國の方針を如何にす可きやと云うに、我輩自から見る所なきに非ず。先づ朝鮮の問題よりせんに、我國從來の對韓略を見るに、一進一退、その結果甚だ妙ならず、遂に今日の有樣も及びたる始末は、世人の現に目撃したる所、別に記すまでもなけれども、我輩の所見を以てすれば、其失策は二個の原因に歸せざるを得ず。即ち我國人が他に對して義侠心に熱したると、此二つの熱心こそ慥も失策の原因なれ。本來義侠とは弱を助け強を挫く意味にして、一個人の友誼上には或は死生を賭して他の急を救うなどの談もなきに非ず。即ち義侠の熱心に出づるものにして、所謂刎頸莫逆の交際には自から其實を認むることもあれども、一村一郷の交際に至れば既に義侠の行わるゝを見ず。況んや國と國との交際に於てをや。今後幾千年の後はいざ知らず、古來、今に至るまで、刎頸莫逆の國交際を維持したる談は我輩の未だ曾て聞かざる所なり。然るに我國人の朝鮮に對するや、其獨立を扶植す可しと云い、其富強を助成す可しと云い、義侠一偏、自から力を致して他の事を助けんとしたるものに外ならず。或は日淸戰爭の如きも政府の當局者に於ては自から考もありしならんなれども、一般の國民中には外より眺めて全く義侠の爲めに戰うものと認め、實際の利害損得をば算外に置き、單に小を助け大を挫く一事を壯快なりとして非常に熱したるものも少なからざりしことならん。斯る次第にして、義侠の結果を如何と云うに、或は少女が獨行の途中、亂暴者に出遭いて將に苦しめられんとしたる處に、偶然侠客の爲めに救われて危難を免がれたるが爲め、其親方の義侠を感じて終身恩を忘れざるなどの談は、昔の小説本等に毎度見る所にして、義侠心の効能は此邊に存することなれども、國と國との關係に斯る効能は見る可からず。此方にては大に義侠に熱するも、先方に於て毫も感ぜざるのみか、却てうるさしとて之を厭うときは如何す可きや。無益の婆心を止めにすれば差支なけれども、其處が人間の感情にして、所謂可愛さ餘りて憎さ百倍の喩に漏れず、一圖に他の背恩を憤りて反對の擧動に出でざるを得ず。明治十五年大院君の騷動と云い、十七年の變亂、又二十七年の事件後の始末と云い、孰れも朝鮮人が我義侠に對する報酬にして、人間の情として快く思うものはある可からず。憤慨の激する所、遂に二十八年十月の如き始末をも見るに至りし次第にして、實際無益の勞のみか、國交際には寧ろ義侠心の有害なるを見るに足る可し。左れば今後朝鮮に對するには義侠の考えなど一切斷念すること肝要なりとして、扨第二の失策は日本人が他を導かんとして文明主義に熱したることなり。朝鮮人は本來文思の素に乏しからず決して不文不明の民に非ず。彼の南洋諸島の土人などと全く異にして、之を支えて文明に導くこと容易なるに似たり。左れば日本人の考にては彼の國情を以て恰も我維新前の有樣に等しきものと認め、政治上の改革を斷行して其人心を一變するときは、直に我國の今日に至らしむこと難からずとて、自國の經驗を其儘に只管他を導て同じ道を行かしめんと勉めたることなりしに、豈に圖らんや、彼等の頑冥不靈は南洋の土人にも讓らずして、其道を行く能わざるのみか、折角の親切を仇にして却て教導者を嫌うに至りしこそ是非なけれ。日淸戰爭の當時より我國人が所謂弊政の改革を彼の政府に勸告して、内閣の組織を改め、法律及び裁判の法を定め、租税の徴収法を改正する等、形の如く日本同樣の改革を行わしめんとしたるは、即ち文明主義に熱したる失策にして、其結果は彼等をしてますます日本を厭う考を起さしめたるに過ぎざるのみ。抑も朝鮮には自から朝鮮固有の習慣あり。其習慣は一朝にして容易に改む可きに非ず。喩へば病人が腹部の邊に何か凝を生じたりとて苦惱を訴えながら、古來習慣の醫法に從い煎藥を服し巻木綿ぐらゐにて濟し居たる處に、是れは卵巢水腫と名くる病症なり、早く切開せざれば生命にも拘わる可しとて、腹部の切開術を行いたる其治療法は、醫學の主義に於て間違いある可からず。醫者の誠に從て後の注意に怠らざるときは全快疑なき筈なれども、患者生來の習慣として一々醫誡を守るを得ず。是に於てか醫者は其經過の意の如くならざるを見て、何か誡を犯したる可しとて患者を責むれば、患者は却て醫者の惨酷を云々して之を怨むが如き始末にては、到底善良の結果を見る可からず。斯る患者に對しては煎藥にても何藥にても病に害なき限りは許して之を服せしめながら、徐々に實驗の効能を示して感化する外なきのみ。朝鮮人の如き人民に對する筆法は、西洋醫の心を以て漢方醫の事を行うこと肝要にして、文明主義の直輸入は斷じて禁物なりと知る可し。左れば我輩の所見を以てすれば、今日の對韓方針は、内政を改革し獨立を扶植するなど政治上の熱心をば從來の失策に鑑みて一切斷念し、只彼等の眼前に實物を示して次第に自から悟らしむるに在るのみ。即ち其實物とは、顧問官にも非ず、練兵教師にも非ず、成る可く多數の日本人を彼の内地に移して朝鮮人と雜居せしむる一事なり。我輩の對韓略は先づ此一事より着手せんと欲するものなり。