「駐米公使の歸國」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「駐米公使の歸國」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

駐米公使の歸國

我駐米公使星亨氏は今度賜暇を得て歸國するよし何故に歸國するか病氣の爲めにも非ざれ

ば又何か報告の爲めにも非ず本國の政况俄然一變して世は民黨の世と爲りしのみならず政

黨員の間には過般來外務大臣の專任問題ありて竊に星氏を其候補者に推す者もなきに非ず

夫れ是れの爲め歸心矢の如く強ひて賜暇を求めて歸國するなりと云ふ果して然らんには不

都合の擧動と云はざるを得ず平生無事の日ならば兎も角も今や米國の方面は頗る多事にし

て一日も公使の椅子を空うす可き時に非ず米布の合併新に成て日布の關係は一變したり米

國政府は布哇に於ける日本の既得權を害することなかる可しと云ひたるよしなれども今後

その布哇に對する政策如何に依ては自から我出稼人の利害を動かすことある可きのみなら

ず彼の移民拒絶事件の如きも或は米政府との交渉と爲ることならん特に米西戰爭の終局と

共にフヰリッピンの處分は漸く喧しき問題と爲らんとするの色あり若しも米國が永久これ

を占領せんとすれば列國の中に異議を唱ふるものある可きは明白にして放棄すれば獨逸の

如きは代て其要地に割據することならん獨逸なり露佛なり此地に割割〔ルビきょ・據〕す

れば各國の均勢を破る可きは勿論にして他の諸強國は自から默視するを得ず特に日本の如

きは最も密接の關係あるものにして容喙せざらんと欲するも得べからず要するに米國は其

占領者として日本は一衣帶水の隣國として共にフヰリッピン問題の主動者たる可き地位に

立つ者なれば互に協議を要することある可し此時に當て駐米公使が何の理由もなく只自家

一身の都合の爲めに大切なる國事を餘所にして歸國するとは不都合にして外務省が其我儘

なる請求を容れたるも亦不思議と云はざる可らず公使歸國の上は或は何か運動を試みるこ

とならん一部の政黨員は外務大臣の候補者として推薦することもある可し其運動推薦は

人々の勝手なれども當局者にして萬一にも之が爲めに動かさるゝこともあらんには政府の

威信は到底立つ可らず各國に公使を置くは畢竟斯る塲合に本國政府の耳目と爲り手足と爲

りて活發に運動せしめんが爲めのみ然るに一身の私事の爲めに國事を顧みず強ひて歸國し

たる其不埒の褒美として大臣の椅子を與ふるが如きことあるに於ては政府は恰も一公使の

爲めに弄ばるゝものにして自から内外の輕蔑を免る可らず星氏或は外務大臣として適任な

る可し然れども此際は斷じて任用す可らざるのみか其歸國の不可なるを悟りて折返へし赴

任すれば兎も角も然らずんば直に其職を免じて時を移さず後任者を派遣す可し或は斯の如

くすれば一派の憲政黨員は不平を抱て遂に政府に叛くの恐もあらんかなれども二三黨員の

不平を犯すも寧ろ政府の威信を保つに若かず平民政治の憂は黨員の跋扈動もすれば不取締

に流るゝに在り寛にす可き所は大に寛にすると共に嚴にす可きは大に嚴にして以て輕蔑を

防がざる可らず要するに米國方面の外交は今正に多事なり平生公使を置くは斯る時にこそ

役立たしめんが爲めなれば現任公使にして果して國事に不親切とならば已むを得ず處分し

て速に後任を派遣するこそ肝要なれ政府の威信の爲めに我輩の敢て勸告する所なり