「警視廳を廢す可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「警視廳を廢す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

警視廳を廢す可し

曾て民黨の主張したる議論にして今や既に一時の夢と化したるもの少なからざれども警視

廳廢止論の如きは正に實行の期に達したるものと云ふ可し元來東京に限りて府廳の外に別

に警視廳を設けたるは其警察事務の繁多なるにも因ることならんなれども第一の趣意は中

央政府の機關として所謂警察政治を行はんが爲めなり明治政府が次第に人望を失ふて民間

有志の反對運動盛なるに當り其運動を制して強ひて自から政權を維持せんには自から警察

に依賴せざるを得ず新聞條例を作て言論を束縛し集會條例を制定して政黨の團結を妨げ若

しくは保安條例を發布して論客を追ひ拂ふなど抑壓手段を施すに最も必要なるものは高等

警察なり内務大臣の直轄の下に警視廳を設けたるは偶然に非ず然るに今や國情一變、新聞

條例集會條例は共に改正せられて言論集會は自由と爲り保安條例も廢止せられて最早や論

客を放逐するの必要なきのみならず藩閥其物も既に倒れて世は輿論政治の世と爲れり即ち

特に警視廳を置くの必要なきを見る可し固より其職務は單に一種特別の國事探偵のみに非

ず別に行政警察及び衛生の事あり又監獄消防の任務あるのみならず高等警察とても全く無

用に歸したるには非ず尚ほ相應に忙はしきことなれども是等は各府縣普通の事務にして特

に東京に限れるものに非ざれば他地方動樣、府廳をして之を處理せしめて可なり現に衛生

事務の如きは別に警視廳を煩はすの要なしとて市内の分は既に市に引渡したるほどの次第

にして消防監獄及び警察事務とても世間並にして差支ある可らず他府縣に於ては警部長を

置て警察事務を管理せしめ典獄をして監獄の事を司らしむ獨り東京府に限りて然ること能

はざるの理由なし或は東京は全國の首府にして惡人の出入も自から多く監獄警察等の事務

も特に繁忙なれば他地方と同樣に論ず可らずとの説もあらんかなれども其繁忙なる所即ち

首府の首府たる所以にして首府には自から首府相應の力あり金力も多ければ人材も亦多し

他より心配するに及ばざる其證據は例へば市政の如き東京大阪京都の三市は自から事情を

異にすればとて特別市制を施したれども三市の人民は之を喜ばず却て不便なりとして強ひ

て世間普通の自治制に改めしめたり其結果は未だ見るに及ばざれども恐らくは是迄よりも

好成績を示すことならん又東京の衛生事務は其繁多なること他地方の比に非ざれども前に

も記したる如く今回警視廳より東京市に引渡したり市民は自から市の政を行ふの技倆ある

を證するものにして獨り府民が其警察監獄等を始末するの腕前なしと云ふ可らず警視廳を

存するの必要なきを見る可し單に必要なきのみならず之を廢せざれば却て害ありと云ふ次

第は兩廳の事務互に重複して無益の手數を費すことあればなり例へば府下の戸口民籍交通

衛生等に關する事項の如き東京府廳にても管理すれば警視廳にても取扱ふ規則にして全く

二重の手数と云はざるを得ず且つ同一の事抦を兩方にて支配すれば互に交渉を要すること

多きは勿論にして爲めに時間金錢を徒費する其上に時としては管轄の區域、明瞭ならずし

て取締に不便を感ずることもある可し例へば道路を改良するに付ては牛馬車又は荷車にて

運搬する荷物の重量及び車輪の幅等をも制限するの必要あれども是等は東京府の領分に屬

するか若しくは警視廳の權限内に存するか東京府に道路規則のあるを見れば勿論府廳の支

配に屬する樣なれども車規則の警視廳にあるより察すれば或は警視廳の管轄なりと云ふも

可なり要するに双方の權限は明白ならずと云ふ東京の政治は恰も兩頭の蛇の如し府廳と警

視廳と左右に對立して二樣の命令を下し二重の政治を行ふ其間に立つ人民こそ迷惑なれ同

じ事抦に付て警視廳にも府廳にも交渉せざるを得ざる其面倒は少なからざるが上に時とし

ては一方が認可して他の一方は拒むが如き奇觀なきを期す可らず畢竟するに警視廳は繁文

の大なるものなり之を存すれば弊害こそあれ利益は少しもなきことなれば斷然廢止せんこ

と我輩の敢て當局者に望む所なり