「又も償金の繰入れか」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「又も償金の繰入れか」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

又も償金の繰入れか

又も償金の繰入れか

從來經濟社會に種々の變態を生じたる原因は政府が財政上の必要より年々多額の償金を回

収して兌換制度に自然の作用を妨げたるこそ其重なるものにして之を常態に復せしめんと

ならば先づ增税を斷行し其增税に依て普通歳出を支辨するの計畫を立てざる可らず即ち世

に增税論の行はるゝ所以にして本年度の歳計の如く追加豫算の収入にまで千五百萬餘圓の

償金を繰入れて僅に歳出入の平均を維持するなどの姑息策を續けんには啻に財政の基礎を

薄弱ならしむるのみならず經濟社會自然の秩序を紊乱していよいよ事の整理を困難ならし

むるの結果を見る可し財政の當局者も既に此邊の事情を認め昨今頻りに增税の方法に就て

調査中の由なれども果して其增収に依て財政整理の目的を達するを得るや否や今の税源の

内にて增収の餘裕最も豐なるは酒税にして若しも政府が自家用酒の釀造を禁止すると同時

に混成酒の密造、酒精の密輸入等に對して嚴重の取締を施すときは一方に大に清酒の需要

を增して其造〓高は必ず五百萬石以上に達す可きを以て一方に今の税率を一倍せんには直

に三千五百萬圓内外の収入を得るに難からず政府が大に酒税の增税に依賴するこそ至當の

處置にして我輩は熱心に其斷行を勸告するものなれども或は當局の部内には酒税のみを增

徴するときは實施の曉に意外の變を見るやも計り難ければ此外に別に二三の税を增す可し

との説あり新に砂糖税を起して其製造並に輸入に課税せんなど云ふは畢竟此邊の考に出で

たるものなる可けれども果して滿足の結果を望むを得るやと云ふに砂糖の輸入税は日獨條

約の協定税則に據れば從價税一割以内に限るの定めにして此以上に增課するには勢、獨逸

と交渉して其承諾を得ざる可らざるのみならず假令ひ交渉纏りて輸入の砂糖に三割の税を

課し内地製造の分にも同樣の課税を爲したりとするも収入一千萬圓に達するは甚だ覺束な

き其上に到底三十二年度の財源として依賴する能はざる可し酒税以外の增税に困難の事情

あること右の如くなりとして若しも當局者が酒税の增税に就て方法を誤まり前内閣の如く

僅かに三圓の增率に止めて殊更らに他の税源に依賴するなどの姑息策に出でんには增税の

事都て不如意にして三十二年度の豫算は再び償金又は公債賣却の代金を流用して普通歳出

を維持するに至るやも知る可らず公債の賣出しも其方法宜しきを得れば格別の困難を見ず

して目的を達す可く又今後確に增税を實施するの見込あらんには一時公債の代金を流用す

るも財政上に格別の不都合なかる可けれども之が爲めに更らに經濟上に變態を重ねて殆ん

ど恢復の時を見る能はざる可し從來の實驗に徴して疑を容れざる所にして例へば昨今の輸

出貿易の如き政府が財政上の失策より通貨を膨脹して物價を騰貴せしめたるが爲めに大に

生産費を增して海外の市塲に於て販路を失ひたもの少なからずと云ふ當局者にして眞に財

政を整理して經濟社會に及ぼす不良の影響を避けんとならば成功の覺束なき課税は斷じて

思ひ止まり增収の餘裕ある種税に專ら依賴して其収入を以て歳入の不足を補ふの計畫を定

む可し妄に課税の種類を多くして意外の失敗を招くは决して税略の宜しきを得たるものに

非ず第九議會に於て制定したる增税法が實施の晩に種々の不始末を呈したるは全く右の欠

點に出づるものなれば當局者たるものは篤と既往の失敗を顧みて今後の方針を定めざる可

らず我輩が注意を與ふる所以なり

裁判所の暑中休暇廢す可し

從來諸官廳にては暑中休暇と唱へ七月初旬より九月何日に至るまで凡そ六十日間、官吏に

休暇を與ふるの例にして其間全く官廳を鎖すに非ざれども出勤の吏員少なき割合に事務は

自から澁滯せざるを得ず一日萬機の人事に當りて之を處理するの官廳が暑中休暇とは會社

銀行又は一個人の仕事など民間の實際には到底見る能はざる所にして官邊一種の我儘に外

ならず或は暑中に至り何々の爲めに地方の出張を命ずなどの辭令を見ること殊に多きが如

きは官吏の輩が必要もなきに名儀を設けて休暇中に官費旅行を試みるものなりと邪推せざ

るを得ず其氣樂さ加減只驚くのみなれども一般の事は兎も角もとして我輩の所見に於て不

都合千萬斷じて許す可らざる者は裁判所の暑中休暇是れなり裁判所構成法に據れば休暇中

に民事と刑事とを區別して民事は急を要する事件の外、受付けざるに拘はらず刑事訴訟は

停止せざるの規定なれども實際は如何と云ふに刑事と雖も少しく込入りたる事件は休暇中

に判决を與へず次第に延期又延期するの常にして其事件を擔當す可き下級の裁判所に於て

既に然るときは上級なる控訴院大審院の如き自から閉鎖の姿にして重大なる刑事訴訟の進

行は六十日間殆んど進行を止めるに異ならずと云ふ奇怪至極の事實に非ずや形事上の告訴

を受けて拘留せらるゝ輩は何れ犯罪の嫌疑ある者に外ならざれども其事件たる即ち嫌疑に

して判决の上は愈よ無罪と爲るやも知る可らず假令ひ拘留中とは云へ之を遇するに普通の

人民を以てして成る可く其判决を急ぐこそ人權保護の道なるに然るに其嫌疑者をば極暑の

最中、未决檻に閉籠めて徒に之を苦しむるは無益の殺生のみか恰も一種の拷問を行ふもの

と云ふ可し或は其拘留も實際裁判の進行に必要とあれば幾十日間に渉るも致方なけれども

只裁判官が自家の閑を貪るが爲めに嫌疑者に對し其休暇中恰も日々の拷問とは怪しからぬ

沙汰にして然かも政府に於て公然その事實を許すが如きますます以て不都合至極と云はざ

るを得ず封建專制の時代には些細の嫌疑にて人を捕へ之を獄中に投じて終身判决を與へざ

るの例さへなきに非ず從來の習慣として暑中の延期の如き深く怪しまざることならんなれ

ども今の時世は然らず人民身體の自由は憲法上にも保證せられて苟も侵すことを得ざる〓

〓なるに假令ひ犯罪の嫌疑者とは云ひながら裁判官の休暇の爲めに暑中何十日間恰も拷問

の爲めに苦しむるが如き斷じて許す可らざる所のものなり思ふに新政府の大臣輩中には〓

〓〓に繋がれて其中の辛酸を甞めたるものなきに非ず三伏の暑中獄内蒸すが如く加ふるに

流行傳染病等の危險ある尚ほ其上に食物は甚だ粗にして時としては腐敗の惡物さへ混入す

るなど恰も地獄の苦しみを回想したらんには今尚ほ悚然として夏猶ほ寒きの感あることな

らん自から自身の經歴に徴して果して獄中の慘状を察し得たらんには行政改革など大言壮

語して空論の間に時日を徒費する其間に先づ取り敢へず裁判所の休暇を止めて未决の拘留

者を拷問の中より救ふこそ目下の急要事なれ若しも此一事さへ急决すること能はざる如き

次第にては如何なる改革を行はんとするも我輩に於ては一切重きを置かざる可し敢て注意

する所なり