「支那の政變」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「支那の政變」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

支那の政變

昨日の紙上に報じたる如く北京の朝廷にては西太后再び政を攝して皇帝と共に万機を親裁

することゝ爲り近來勢を得たる改革派を黜けて其中には或は逮捕の命を受けたるものさへ

ありと云ふ詳細の事情は未だ分明ならざれども顧ふに近來同國皇帝が改進々歩の意見を持

し鋭意改革を斷行して之に反對するものは直に免黜するなど殆んど當る可らざるの勢なる

より政府の故老大臣中その改革を喜ばざる守舊の徒が竊に相結んで西太后を奉じ皇帝の政

略を妨げんとて斯る政變を見たるものなる可し或は其間には自から種々の魂膽事情もあら

んなれども之を要するに支那の政界に於ける守舊改進兩主義の衝突にして改革の一頓挫と

認めざるを得ず一國革新の行路中に自から免かれざるの數とは云ひながら支那の爲めには

惜しまざるを得ず顧みて我國の經歴に徴するに若しも德川政府の時代に明將軍を生じて内

外の異議を排斥し一意改革の事を行はんとしたらんには必ず意外の故障に遭ふて目的を達

せざることならん一進一退恰も支那今日の經過を見ざる可らざる筈なりしに然るに日本の

改革の一直線に進行して豪も難澁を感ぜざりしは畢竟王政維新の效能にして當時その局に

當りて事を成したるものは即ち所謂薩長の藩閥人に外ならず今日に至りて細に其擧動を評

するときは自から種々の非難もあらんなれども孰れも誠意誠心滿身進歩主義の人物にして

其德川政府を倒したるは敢て政府を惡んで之を倒したるに非ず取りも直さず專制と文明と

の爭にして其人々は文明進歩の主義を代表して德川政府と名くる專制政府に反對し遂に專

制其物を倒して目的を達したるのみ即ち王政維新は文明主義の勝利にして爾来一瀉千里の

勢を以て駸々進歩遂に立憲政治の今日を見るに至りしも决して偶然ならず左れば日本の進

歩は實に王政維新の賜にして其事を成したるは當時の薩長人に外ならず其功勞は國民の永

久に記憶す可きものなりとして扨支那の現状を見れば恰も我維新前の有樣にして正に進歩

の端を開きつゝあるものなれども其國情は自から我國と殊にして王政維新の改革など决し

て行はる可きに非ざれば急激の變化は斷じて避けざる可らず我輩の所見を以てすれば今の

北京政府は其儘に保存して愛新覺羅氏二百年來の恩威を利用し政府自から改革の主動者と

して〓を以て國民を警醒し次第に進歩の域に入らしむるの外ある可らず其趣は露國の彼得

大帝が自から卒先して歐洲の文明を國中に輸入し以て國民の進歩を謀りたると同樣の政略

に出でゝ恰も專制的自由の政を行ふて全國を風化せしむ可きのみ但し此事たるや彼得帝の

如き豪傑を待て始めて行はる可きものなれども聞く所に據れば支那の今帝は非凡の明主に

して近來の改革は專ら其意中より出でたるものなりと云ふ我輩の竊に望を屬したる所なり

しに今回の政變に西太后再び出でゝ攝政とあれば帝が壯年敢爲の决斷、守舊家の反動を招

きて太后攝政の名の下に帝をして單に虚器を擁するの止むを得ざるに至らしめたることな

らん上海の邊にて皇帝不幸の報を傳へたるが如き自から其消息を知るに足る可きに似たり

而して事の成行は如何と云ふに其政變は明に守舊改進兩主義の衝突にして改革の一頓挫に

歸したるが如くなれども其衝突は决して今回に止まる可きに非ず衝突又衝突一起一伏の其

中にも大勢の赴く所、詰り改進主義の勝利に歸するは疑もなき成行なれば支那の爲めに謀

れば成る可く急激の變化を避け衝突の災を小にして穩に達す可き所に達するの一事のみ幸

にも皇帝は天資總明、加ふるに尚ほ春秋に富み前途の望甚だ多し今回の政略は反對に遭ふ

て意の如くならざるも事の大局より見るときは時運循環、改進の主義、勝を制して早晩改

革の機運到來せんこと决して遠きに非ざれば堅く明哲の德を全うして自愛自重くれぐれも

事を急がずして改革の大成を永遠に期せられんこと支那帝國の爲めに敢て希望に堪へざる

所なり