福沢諭吉『学問のすすめ初編』『徳育如何』解説

last updated: 2016-10-11

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平山氏の依頼により福沢諭吉の『学問のすすめ初編』(1872)と『徳育如何』( 1882)の作品解説をアップロードします。

本文

 福沢諭吉にとって生涯の目標は、1862年の欧州旅行で感得した文明政治の六条件を、日本に、そしてアジア諸国に広めることであった。すなわちその条件とは、①個人の自由を尊重して法律は国民を束縛しないようにすること、 ②信教の自由を保証すること、③科学技術の発展を促進すること、④学校教育を充実させること、⑤適正な法律による安定した政治によって産業を育成すること、⑥国民の福祉向上につねに心がけること、の六つである。

 幕末維新期に刊行された『西洋事情』三部作で文明政治の紹介をして後、福沢の1871年秋から冬にかけての仕事はいたって少ない。そのわずかに残された文章で、しかもとくに力を込めて書いたわけでもないものが、彼の代表作として現在もっともよく知られているというのは、ある意味皮肉なことである。それが1871年11月執筆の『学問のすすめ』初編である。

 この『学問のすすめ』初編は、もともとは開学の準備が整った中津市学校の生徒募集のための宣伝広告文として書かれ、郷里で進路について思いあぐねている青年たちに、実学の修得こそが成功への道である、と呼びかけるのを目的としていた。初編のみ弟子の小幡篤次郎との共著の形をとっているのは、中津市学校の筆頭教員となった小幡の赴任に際して、それをはなむけとして持たせたためである。当初は中津だけで回覧されていたが、慶應義塾やその他の英学校への募集広告にも転用可能というわけで、翌1872年2月に刊行されて、またしても爆発的な売れ行きを記録することになった。

 この初編の主題は、「身も独立し、家も独立し、天下国家も独立」するために、誰もが「人間普通日用に近き実学」を学ぶべきであるということにあるが、そればかりでなく、しっかりと学問を身につけた人々によって創られる文明社会が、いかに価値のあるものであるかを強く訴えかける内容となっている。そのため、個人的成功のためには西洋の学問を勉強するのが近道だというような、ありがちな新設学校の広告文には留まらず、当時にあって多くの読者を獲得し、さらに今なお読まれ続けているのである。

 文明政治の六条件を日本で実現させることは福沢にとって終生の課題であったから、この『学問のすすめ』初編でも、教育の必要はもとより、自由の尊重・科学技術の導入・政府による国民の保護といったそれらの条件は重要視されていて、結果としてこの文章は福沢の思想全体の要約になっている。

 よく知られている単行本『学問のすすめ』とは、この初編に、約2年後から毎月発行されるようになる月刊パンフレット「学問のすすめ」を合わせたものである。それは1873年冬の二編から1876年11月の十七編まであるが、そのうち二編から1874年3月刊の七編までは、初編に含まれていた六条件の逐条的な解説の形をとっている。

 その初編の冒頭は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」に始まっているが、この一文が有名になったのは第二次世界大戦後のことである。それというのも、ここで示されている天賦人権思想は、明治初年には福沢以外の多くの思想家によっても紹介されていたため、とくに福沢の言葉とは考えられていなかったからである。

 その出典についてはアメリカ独立宣言(1776)の一節とする説が有力であるが、私はさらに、独立宣言起草委員の一人であったベンジャミン・フランクリンの生涯と思想に、福沢が自らの範型を見いだしたと推測している。なお、フランクリンと福沢の比較研究としては、すでに平川祐弘の『進歩がまだ希望であった頃:フランクリンと福沢諭吉』(講談社刊・1990)があるが、私はもっと直截に、福沢は全生涯にわたってフランクリンをモデルとして活動した、と考えている。

 ベンジャミン・フランクリンは、1706年にマサチューセッツ州ボストンにロウソク製造業者の17人兄弟の末っ子として生まれた。教育は10歳までしか受けておらず、その後印刷工として働いた。1727年、フィラデルフィアにジャントーという名前の社交クラブを創設し、倫理や政治、また自然科学について討論する会合をもつようになった。1729年には『ペンシルベニア・ガセット』紙を買収して新聞社主となりジャーナリストとしても活躍、1732年からは『貧しいリチャードの暦』という格言付カレンダーを刊行して大好評を博した。

 科学分野にも広い関心を示した彼は、1744年にアメリカ学術協会を組織し、さらに1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設した。稲妻が電流であることを証明したのは翌年のことで、1756年にはイギリス学士院会員、さらにオックスフォード大学などの名誉学位を授与されている。また、政治家としては1748年のフィラデルフィア市会議員、1751年ペンシルベニア議会議員となり後には議長となった。1776年には独立宣言起草委員に任命され、独立後の1785年にはペンシルベニア州知事に選出されている。さらに1787年に憲法会議に参加し、1790年にフィラデルフィアで84歳の生涯を終えている。

 つまりフランクリンは科学者であるばかりでなく、新聞社主、社交クラブ・学会・大学の創設者、そして政治家であったわけだ。福沢の政治家としてのキャリアは1879年に1年間東京府会議員を勤めたにとどまるが、その他のことについては、時事新報社主(1882以降)、交詢社主宰(1880以降)、明六社同人(1873)、東京学士会院長(1879年)、慶應義塾主宰(1858以降)と、いずれもフランクリンの経歴とぴったり一致する。しかも、彼を知る前に福沢がすでにしていたのは、これらの活動のうち慶應義塾(前身)の創設だけで、その他はすべて二回目の渡米後、『フランクリン自伝』を読んでからのことである、という事実に注意を向ける必要がある。

 フランクリンの思想が『学問のすすめ』に直接の影響を与えたことは、その初編の、「諺に云く、天は富貴を人に与えずしてこれを其人の働に与るものなりと。されば前にも云へる通り、人は生れながらにして貴賤貧富の差なし。唯学問を勤て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」とある部分が、フランクリンの「富に至る道」(1758版『暦』序文)のさわりであることと、『学問のすすめ』初編では明かされていないこの諺の出典について、『童蒙をしへ草』巻の一では、それが直接フランクリンの言葉、「勉強はあたかも幸福を生む母の如し。天は万物を人に与えずして働きに与えるものなり」として引かれていることから確かめられる。

 このように『学問のすすめ』は主としてアメリカ思想の影響のもとに西洋文明移入のプログラムが書かれているのであるが、その後の日本の近代化は必ずしも福沢の思うとおりには進行しなかった。『学問のすすめ』初編が発表されて10年後の1882年に道徳教育に関する著書『徳育如何』が刊行されたのは、当時再び勢力を盛り返しつつあった儒教式教育に異を唱えるためだった。

 福沢はそこで、明治時代の日本の精神状況が一途に「開進」に向かっているとの状況判断に立ち、第一に自主独立の教えを徳育の中心に置かねばならないと言う。福沢によれば、独立とは「内の独立」と「外の独立」からなる。前者は「一軒の家に居住して他人へ衣食を仰が」ないという経済的独立であるが、後者は「日本国をして自由独立の地位を得せしめ」ること、つまり国の独立に向かって積極的に挺身する精神である(『学問のすすめ』十編の要約)。

 『徳育如何』の中で、福沢は次のように述べている。開国によって日本はようやく自主独立ということを知ったが、それまで士族は周公孔子の徳教に育てられ、忠孝の二文字を支えに生きてきた。しかし、これが維新後大きく変わって人の生き方も変わった。父子有親君臣有義夫婦有別長幼有序というのは聖人の教えだが、そうやって生きてきたはずの士族たちが時代とともに変わったことをみれば、こんな教えが守られていたとは思えない。

 とは言うもののこれは世の中が変化した所為なのであり、今の世の教育論者はそれを17世紀末の元禄年間に戻せと言うのだろうか。古典によって現代の考えを押し潰そうというのか。しかし、19世紀末の明治は元禄ではない。それは教育が異なるのではなく、公議輿論が異なるのだ。だいたい開国と明治維新によって今の公議輿論も出てきたのである。そして人心は良くも悪くも開進の方向に向かっている。そしてそれは今さら昔には戻せないものなのだ。

 古風の忠は今日に適せず、というように、時代は変わったのだ。「今日自主独立の教に於ては、先づ我一身を独立せしめ、我一身を重んじて、自ら其身を金玉視し、以て他の関係を維持して人事の秩序を保つ可し」とまずは自分自身を大切にして他者との関係を求めるべきだという。福沢は今世の教育論者が古来の典経を徳育に使おうとするのを責めるわけではないが、それらの経書の働きを自然に公議輿論に合わせ、有効に機能させようと考えている。「即ち今日の徳教は輿論に従て自主独立の旨に変ず可き時節なれば、周公孔子の教も亦自主独立論の中に包羅して之を利用せんと欲するのみ」、として自主独立を柱に読み替えていくべきだとするのである。学校も含めて自主独立の輿論に従うのが智者の策だ、というのが福沢の主張の骨子である。

 こうした独立心を涵養する徳育法について言えば、福沢は、一身の独立を果たすには、言葉で教える方法は無駄であるとして、むしろ自己自身の自覚が第一であるとしている。しかし個人個人が独立者であるという自覚を持つことは、そう簡単にできることではない。その点について福沢は、「智徳の根本を資る所は、祖先遺伝の能力と、其生育の家風と、其社会の公儀輿論とに在り」とも述べている。すなわち独立心を獲得できるかどうかはその人の生育環境次第であるというのである。

 刊行された『徳育如何』は、いわゆる徳育論争の口火を切る儒教道徳再興反対の著作として有名であるが、福沢がそれを執筆した動機は、1879年の「教学大旨」を巡っての論争での元田永孚の発言が念頭にあったものと思われる。とくにこの時期の出版となったのは、1882年末に宮内省より元田が編纂した儒教主義による修身教科書『幼学綱要』が頒布されることが決まっていて、その先手を打ったと推測できる。福沢としては儒教主義による修身教育には大反対であったから、自主独立の精神こそが真の道徳心の涵養につながるという『徳育如何』を緊急に出版したのであった。

 より広い視点から捉えるなら、1890年の「教育勅語」発布に至るまではいわゆる徳育の混乱時代で、多くの識者が意見を発表していたのであった。明治維新以降の日本は、制度面では西洋を手本にそれなりの成果をあげることができたが、他方、道徳では古いものに代わる新しいものを見出せず、空白状態にあったのである。儒教の復興を説く者もいたが、福沢は社会の「公議輿論」こそが道徳の基本であると強調した。

 福沢の『徳育如何』の後にも、加藤弘之は「徳育方法案」(1887)を出版し、「学者や教育者が道徳哲学論などより抜抄して編輯したゴタマゼ主義の教科書」では道徳教育はできない、と考え、「徳育は宗教主義に拠らねばらなぬもの」とする立場をとり、「道徳の大主旨とするは愛他心」であるとして宗教の必要性を説いた。またキリスト教徒の小崎弘道はこの加藤の意見に賛成して、「道徳は到底宗教に依らざれば実行す可らざること」を『六合雑誌』誌上で再三繰り返した。杉浦重剛は「日本教育原論」(1887)で、「理学」(これは現在の哲学の意味)こそが道徳の向上に寄与する、と説いた。さらに山崎彦八の「日本道徳案」(1889)は「鍛錬主義」を主張し、慣習の力をもって道徳を教えることが肝要だとした。そのほか道徳教育の方法をめぐってさまざまな意見が出されたが、「教育勅語」発布に直接影響を与えた西村茂樹の「日本道徳論」(1887)もその一つである。

 結局この徳育論争は1890年の「教育勅語」発布によって終焉することになるが、近代日本における精神的開化を諮る論争として重要なものとされている。