「日本支配下朝鮮人の参政権について」(電子書籍版)

last updated: 2015-05-10

このテキストについて

平山氏の依頼により、2014年6月20日のアマゾンキンドルによる出版「日本支配 下朝鮮人の参政権について」(常葉叢書16)を掲載します。 なお本著作は5月17日の韓国日本近代学会での発表を論文形式に 改めたものです。

本文

日本支配下朝鮮人の参政権について

平山 洋

はじめに

 本論文は1910年から1945年まで日本の支配下にあった朝鮮の人々に付与された参政権について概説する。

 1868年の明治維新から1945年のポツダム宣言受諾まで、日本の国境線は3度にわたり変更されている。すなわち1895年の台湾領有、1905年の南樺太領有、1910年の韓国併合によってである。台湾領有までの日本の領域を「内地」と呼び、そこに居住していた日本国籍を有する国民は「内地人」と称された。1895年以降は、それまでの清国民のうち、清国の国籍を選ばなかった人々を日本国民たる「台湾人」と、また1910年以降はそれまで大韓帝国国民だった人々を日本国民たる「朝鮮人」と称することになった。この区別は内地と外地(朝鮮・台湾)では言語だけではなく法令や習慣が異なっていたためである。

 外地には台湾総督府・樺太庁・朝鮮総督府が設置されて総督等が直接統治したため、大日本帝国憲法や内地の法律は直ちには施行されなかった。とはいえこのことは、日本支配下の朝鮮人に参政権がまったく付与されなかったことを意味するのではない。というのは、正規の手続きによって内地に渡航した朝鮮人には居住地で選挙権も被選挙権も与えられたのである。また、朝鮮地域に住む大多数の朝鮮人は日本の国政に参加することはできなかったものの、1920年には朝鮮の地方自治を目的とした地方議会(協議会)が道(注1)・府(注2)・面(注3)に設置されている。

 このようなことを踏まえて、以下本論文では日本支配下朝鮮人に与えられた参政権の実際について内地と朝鮮とに分けて記述する。

1.内地居住朝鮮人の日本国政参加権について

 日本支配下の朝鮮には衆議院議員選挙の選挙区は設定されなかった。衆議院議員選挙が実施されなかったのはそのためであるが、そのことは違憲とはされていなかった。というのも、韓国併合条約(1910)において、大韓帝国皇帝は大日本帝国天皇に韓国の統治権を譲与する(第1条)とされたため、もともと内地と外地たる朝鮮地域は別々に統治されていたのである。大日本帝国憲法(1889)には、衆議院議員は選挙法によって公選される(第35条)との規定があった。朝鮮地域に衆議院議員選挙の選挙区を設置するためには選挙法の改正が必須だったが、そうした法案は議会を通過しなかった。そのため日本支配が継続していた時期に大日本帝国憲法発布後に新領土となった台湾・南樺太・朝鮮選出の代議士はいなかったのである。

 朝鮮地域に居住する朝鮮人が帝国議会に議員を送り出していなかったとはいえ、日本支配下の朝鮮人が日本の政治に参加できなかったかといえば、そうではない。併合時に日本政府が定めた朝鮮王族・朝鮮貴族は内地の皇族・華族に準じる扱いを受けていて、朝鮮統治について意見することは可能だった。また、大韓帝国時代にすでに設置されていた政治諮問機関である中枢院の議官は朝鮮総督を通して朝鮮への統治方針を提言できた。

 とはいえ朝鮮王族・朝鮮貴族・中枢院議官による提案には限界があった。というのは、朝鮮王族・朝鮮貴族は帝国議会貴族院への被選出権を有さなかったため、議場での正式な発案や質問はできなかったのである。また中枢院議官は総督府の諮問に応えるのが本務とされたため、議官からの提案は受理されるとは限らなかった。そのため朝鮮側の提案が日本の政策に反映されることはほとんどなかったのである。

 こうした日本政府の対応は1919年の三一運動後に変更される。(注4)すなわち第一次世界大戦後の民族自決主義の盛り上がりの中に朝鮮独立運動が激化したことにより、朝鮮人への対応が融和的となったのである。まず1925年から内地居住朝鮮人への選挙権・被選挙権が付与されることになった。さらに1930年以降はハングルによる投票も有効とされた。

 この方針の転換により内地において朝鮮人の政治参加への道が開かれることになった。1925年の内地における普通選挙法の施行により、25歳以上の内地居住朝鮮人男子にも選挙権が与えられ、1932年2月投票の第18回衆議院議員総選挙において東京第4区から無所属で出馬した朴春琴は、当選して1932年から1937年まで2期帝国議会衆議院議員を務めている。また貴族院については、1932年に朴泳孝(朝鮮中枢院副議長)、朴没後の1939年に後任として尹徳栄(同左)が議員に勅撰された。

 こうした状況は、戦争の進行にともなってさらに参政権拡大の確約へとつながる。すなわち1945年はじめの帝国議会において、戦争協力の見返りとしての政治参加権付与が審議され、同年4月には宋鍾憲・李埼鎔・尹致昊・金明濬・韓相龍・朴相駿・李軫鎬・朴重陽が貴族院の朝鮮勅撰議員に選ばれている。また同時に朝鮮地域への衆議院議員選挙の選挙区設定の確約もなされたが、これらの改革案は終戦により有名無実となったのであった。

 以上が朝鮮人の国政参政権についての概略であるが、以下では朝鮮内での地域参政権について述べたい。

2.朝鮮内での地域参政権の拡大について

 1919年の三一運動が日本政府に与えた衝撃は大きかった。事態収束後ほどなく着任した斎藤実総督のもとで朝鮮総督府は統治方針を転換した。すなわち朝鮮の自治権拡大が図られたのである。これはいわゆる文化統治の一環としてなされたもので、まず1920年には地方団体である道・府・面が法人化されて、道と府には評議会が、また面には協議会が設置された。会員の一部は新たに導入された選挙制度によって任命されたものの、これらは地方団体の長の付託によって諸問題について議論するだけの諮問機関とされていた。

 その翌1921年には朝鮮総督府中枢院議官閔元植暗殺事件が起こった。朝鮮王朝末期の有力氏族を出自にもつ閔は大韓帝国時代に伊藤博文に協力、併合後は中枢院参議(議官の職階の一つ)として日本政府に参政権と自治権の拡大を要求していた。三一運動の最中にも新聞紙上で暴力に反対する論陣を張る一方で日本の貴族院・衆議院に朝鮮人の権利拡大の請願していたところ、東京で活動中の1921年2月に朝鮮独立運動の青年活動家によって暗殺されてしまった。この事件以後日本政府は朝鮮人の独立派と自治権拡大派のうち、後者の意見をより尊重することで、前者の活動の抑制を図ることになる。

 先にも触れたように1920年設置の地方議会は当初は諮問機関にすぎなかったが、1930年からは権限が拡大されて道会・府会・邑会(注5)という議決機関と、面協議会という従来同様の諮問機関に区分されるようになる。選挙は1920年代には1920年・23年・26年・29年の4回、議決機関へと改正されて後は1931年・33年・35年・37年・39年・41年・43年の7回実施された。議員は無給の名誉職で、その定数は、1930年の改正により、道で20人から50人、府で24人から42人、邑面で8人から14人とされていた。

 次に地方自治の実際について説明したい。まず1920年代の協議会等には発案権も議決権もなかった。話し合って意見をまとめるだけの機関だったのである。1930年代以降の道会・府会・邑会は、予算・決算・条例・規則等の議決機関ではあるが、内地の地方団体には付与されていた発案権はなかった。また内地日本で普通選挙制度が採用されて以後も最後まで制限選挙だった。選挙権・被選挙権は、当該地域に1年以上居住し、府税または面の賦課金を5円以上納税して自活している25歳以上の日本国民男子(内地人・朝鮮人)に与えられた。

 条件さえ満たせば内地人朝鮮人間に差別はなかったが、主に納税額による制限選挙制であったため、結果として内地人が有利となった。1931年の選挙についていうと、まず府会の有権者は内地人36828人に対して朝鮮人21673人、邑会の有権者は内地人7614人に対して朝鮮人9216人、面協議会の有権者は内地人2162人に対して朝鮮人281300人であった。そのため当選者の内訳も、府会については内地人257人に対して朝鮮人157人、邑会については内地人247人に対して朝鮮人259人、面協議会については内地人1653人に対して朝鮮人23561人だった。(注6)朝鮮地域に居住していた内地人の比率は約3%ということを考え合わせれば、内地人の当選比率が有意に高いのは明らかである。

 以上が1931年・35年・39年・43年にあった府会・邑会・面協議会の選挙についてだが、次に1933年・37年・41年に実施された道会議員選挙について扱いたい。

3.道会議員選挙について

 朝鮮地方自治の中心は、有権者総数が最終的に40万人程度にまで増加した府会・邑会・面協議会であった。一方朝鮮地域全体を管轄する議会は設置されなかったため、一般の朝鮮人が関与できる最大の行政単位は道であった。以下で府会・邑会・面協議会と道会の関係を述べる。

 道会議員選挙は府会・邑会・面協議会選挙の中間年に実施され、道会議員の3分の2は府会議員・邑会議員・面協議会員が選挙し、残り3分の1は道知事が任命するとされた。そのため1933年の道会議員選挙の有権者は、京畿道2278人・忠清北道1028人・忠清南道1642人・全羅北道1744人・全羅南道2515人・慶尚北道2698人・慶尚南道2380人・黄海道1999人・平安南道1410人・平安北道1863人・江原道1677人・咸鏡南道1441人・咸鏡北道792人であった。(注7)合計23467人というのは、府・邑・面の議員等選挙の有権者の6%弱にすぎない。

 道会議員選挙の被選挙権は1年以上在住で独立生計を営む25歳以上の男子に与えられた。つまり事実上誰でも立候補はできたのである。1933年の選挙結果は、道会議員当選者総数は283人で、うち朝鮮人241人、内地人42人であるが、道知事任命議員139人中朝鮮人56人、内地人83人で、道会全体としては朝鮮人297人、内地人125人となった。(注8)

 このように道会議員の被選挙権は広く開かれていたが、選挙権保持者が府会・邑会・面協議会の議員等であるため、事実上有力者しか選ばれなかった。しかも道知事任命議員は内地人のほうが多いうえ、朝鮮人で議員となった者は、もともと日本の支配に協力的な人々であったと想像できる。

 そこで道会の権能であるが、まず議決事項として、地方税・予算決算・道の公益に関する案件等があった。これは日本内地における県会等が有していた権能とほぼ同等であったが、違いとしては、内地の県会等にはあった発案権が朝鮮の道会にはなく、議決は道知事の付託により行われたということがある。また、道知事は道会の停会を命じることができたので、議会が紛糾して収拾がつかなくなった場合でも、行政に影響が及ばないようになっていた。

 道会だけではなく府会・邑会・面協議会においても、議員等が評議する案件の範囲は内地の地方団体が扱う案件と大差はなかった。とはいえ、道会を始め朝鮮の地方団体には発案権がなかったため、発案権を有する地方団体の長は行政に不都合な案件をあらかじめ審議させないようにすることが可能だった。こうして地方団体の議会は行政の追認機関の役割を果たしていったのである。

4.山根吉三著『朝鮮地方選挙取締規則釈義』(1939)について

 日本支配下朝鮮における地方選挙の実際をうかがうことができる珍しい資料として1939年4月に朝鮮図書出版株式会社より刊行された『判決例及実際例参照/朝鮮地方選挙取締規則釈義/附関係法令』(以下『釈義』)(注9)を紹介したい。

 海州地方法院長山根吉三が著したこの本は3冊の現存しか確認されていない。そのうち韓国内では檀国大学校のみが収蔵している。これは1939年5月に予定されていた府会・邑会・面協議会選挙の立候補者や選挙運動員また選挙管理者に向けての要覧と推測できるもので、内容は取締規則の各条に参照・解説・判例・実例が付され、さらに附録として関係法令が収録されている。以下でその「序」の全文を引用する。

 朝鮮地方選挙取締規則ハ、同規則所定ノ自由公正ヲ害シ若ハ害スル虞アル行為ヲ取締ルコトヲ目的トシテ制定セラレタル法規ナルコトハ言ヲ俟タザルトコロデアルガ、其ノ規定ノ正シキ理解ヲ欠ク為ニ不知不識ノ裡ニ之ヲ犯シ、選挙ノ神聖ヲ涜スト共ニ自ラハ思ハザル刑罰ニ処セラレ、悔ヲ千載ニ残スニ至ル者ノアルコトハ、既往数度ノ選挙ガ証明スルトコロデアル。

 本規則ハ発布ノ日ヨリ既ニ十年、数度ノ改正ヲ経テ今ヤ全鮮千九百余箇面ノ協議会員選挙ニモ其ノ適用ヲ見ルコトヽナリ、一層之ガ周知徹底ヲ図ルノ必要ヲ生ズルニ至ツタノデアル。

 本書ハ曩ニ予ガ高等法院在職中本規則違反事件ヲ担当シタル実務上ノ経験ト予テ参考ノ為蒐集シ置キタル諸種ノ学説判例ノ類ヲ基礎トシテ、平易簡明ナル逐条的解説ヲ試ミタルモノデアル。固ヨリ杜撰ノ譏ヲ免レヌガ敢テ此ノ小著ヲ世ニ送ル所以ノモノハ聊ナリトモ、之ニ依リ選挙違反ノ防止、述テハ地方自治ノ進展ニ寄与センコトヲ念願スルニ外ナラヌコトデアル。

  昭和十四年三月

                              著者識

 本書が立候補者や選挙運動員また選挙管理者に向けての要覧と推測する理由は、1935年の選挙での違反の実例と判決が多く掲載されていることによる。それらについては第6節で扱うことにして、次節では現在では参照することが困難となっている「朝鮮地方選挙取締規則」自体の内容を紹介したい。

5.「朝鮮地方選挙取締規則」の内容について

 1929年9月に朝鮮総督府令83号として定められた「朝鮮地方選挙取締規則」は1939年3月までに5回の改正があった。以下に掲げるのはその最後のもので、全部で18条ある。

 第1条全文。「本令ハ道会議員、府会議員、邑会議員、面協議会員、学校評議会員及学校組合会議員ノ選挙(以下単ニ選挙ト称ス)ニ付之ヲ適用ス」。

 第2条全文。「選挙ヲ管理スル府尹、郡守、島司、邑面長又ハ学校組合管理者(以下単ニ選挙管理者ト総称ス)ハ選挙会場(以下単ニ会場ト称ス)ノ取締ノ為必要アリト認ムルトキハ警察官吏ノ処分ヲ請求スルコトヲ得」。

 第3条抜粋。「選挙人ニ非ザル者ハ会場ニ入ルコトヲ得ズ」。ただし会場の事務従事者等は入ってもよい。

 第4条抜粋。「会場ニ於テ演説討論ヲ為ス」など「会場ノ秩序ヲ紊ル者」を選挙管理者は会場から退出させられる。

 第4条の2抜粋。議員等の「候補者タラントスル者ハ選挙期日ノ告示アリタル日ヨリ道会議員ニ在リテハ選挙期日前七日迄ニ、府会議員、邑会議員又ハ面協議会員ニ在リテハ選挙期日前三日迄ニ其ノ旨ヲ選挙管理者ニ届出ヅベシ」。さらに推薦人の届け出も同様とする。

 第4条の3要約。推薦者・選挙運動者の住所氏名は直ちに管轄警察署に届けなければならない。

 第4条の4全文。「第四条ノ二第三項ノ規定ニ依リ告示ヲ為シタル議員若ハ協議会員ノ候補者又ハ前条ノ規定ニ依リ届出アリタル選挙運動者ニ非ザレバ道会議員、府会議員、邑会議員又ハ面協議会員ノ選挙運動ヲ為スコトヲ得ズ但シ選挙期日ノ告示アリタル後ニ於テ演説又ハ推薦状ニ依ル選挙運動ヲ為スハ此ノ限ニ在ラズ」。

 第5条全文「選挙事務ニ関係アル官吏及吏員ハ其ノ関係区域内ニ於ケル選挙運動ヲ為スコトヲ得ズ」。

 第6条要約。選挙運動者は、運動必要経費の実費を受け取ることができる。

 第7条要約。詐欺の方法により選挙人名簿に登録したり会場に入ろうとした者は50円以下の罰金、実際に投票した者は6ヶ月以下の禁固または100円以下の罰金に処する。

 第8条要約。投票の依頼や妨害のために金品をもって買収行為をなす場合は1年以下の懲役または200円以下の罰金に処する。

 第9条要約。選挙人や候補者に暴力や脅迫を加えたり、交通妨害等の選挙妨害をした場合は1年以下の懲役または200円以下の罰金に処する。

 第10条要約。選挙に関して官吏や吏員が職務を怠ったり職権を濫用した場合は6ヶ月以下の懲役または禁固に処する。また官吏や吏員が選挙人に投票予定者や投票した候補者の氏名の開示を強制した場合は2ヶ月以下の禁固又は50円以下の罰金に処する。

 第11条要約。選挙事務に関係する者が、選挙人が投票した候補者の氏名を表示した場合は6ヶ月以下の禁固または100円以下の罰金に処する。

 第12条要約。会場で投票妨害等をした場合は3ヶ月以下の禁固または50円以下の罰金に処する。締め切り前に投票箱から投票用紙を取り出した場合は6ヶ月以下の懲役もしくは禁固または100円以下の罰金に処する。

 第13条全文。「投票ヲ偽造シ又ハ其ノ数ヲ増減シタル者ハ一年以下ノ懲役若ハ禁固又ハ二百円以下ノ罰金ニ処ス」。

 第13条の2要約。第4条の3または第4条の4違反は50円以下の罰金または科料に処する。

 第14条要約。第5条違反は100円以下の罰金に処する。

 第15条要約。選挙違反者が刑に処せられた場合は当選無効となる。

 第16条要約。本令の罪の時効は1年である。

 第17条要約。当選人が選挙違反で刑に処せられた場合は検事局等は当該道知事と選挙管理者に通知しなければならない。

 第18条要約。本令の規定は、選挙に関わる待遇官吏等にも適用される。

 以上が1939年3月に改正された「朝鮮地方選挙取締規則」の内容であるが、選挙の公正を保つための手続きと処罰の規定に終始している。だが総督府の狙いは単に厳正な選挙を行うことだけに留まらなかったと考えられる。その意図は、『釈義』で取り上げられている選挙違反の実例や手続きの実際から浮かび上がってくる。

6.『釈義』で取り上げられている選挙違反の実例について

 道会議員をはじめ地方団体の議員等に任命されることは、とりわけ朝鮮人たちにとって名誉なこととされていた。『釈義』中の規則第8条、第9条、第12条には、「昭和十一年朝鮮に於ケル」と注記された選挙違反の「実例」が列挙されているのであるが、これは1935年選挙時の起訴案件のうち、翌年までに判決が下された事案の判例集である。第8条違反として179例、第9条違反として2例、第12条違反として1例が紹介されている。違反者が内地人なのか朝鮮人なのかは分からないものの、1935年の有権者総数は内地人57663人朝鮮人309411人(注10)で、約84.2% が朝鮮人であったことから、選挙違反の比率も有権者数の割合に応じていたと考えられる。地方団体議員の職はそうまでしても得たいほど魅力的だったことになろう。

 買収はどこにでもあることだが、金額が大きいのに驚かされる。第8条違反について、病気の子供の治療費として200円を渡して投票の依頼をし、懲役3ヶ月執行猶予3年、罰金40円の判決を受けた、という実例が挙げられている(『釈義』116頁)。当時の1円を現在の3500円として換算すると、70万円で1票を得ようとしたことになる。また、同じく第8条違反として、「候補者ガ有権者二名ヲ各千円ニテ買収ス(禁固六月)」(119頁)ともある。買収されて処罰(罰金150円)された案件として、「有権者二名ハ各金二百五十円、同六名ハ各金二百円、同一名ハ金百九十円を収受ス」(133頁)ともある。

 第9条暴力行為違反としては、

甲乙両名ハ候補者丙ノ同族門ナル処、同門中ノ丁ガ反対派候補者ノ運動員トナリ活動シ居ルヲ不満ニ思ヒ之ヲ止メシムベク強要シタルモ、同人ガ何人ノ為ニ運動スルモ自由ナリト弁駁シタルヲ憤リ、同人ニ殴打暴行ヲ加ヘ遂ニ運動員ノ取消ヲ為サシム(甲罰金四十円、乙罰金二十円)

という実例(『釈義』149頁)があるが、これなどは関係者全員が朝鮮人と推測できる事案といえよう。

 最後に第12条投票干渉の実例として、

特定候補者ノ運動員ナル処選挙当日速ニ投票情勢ヲ知ル為、選挙場ニ向フ選挙人八名ニ対シ吸取紙各一枚宛ヲ与ヘ、同人等ノ記載セル投票用紙ヨリ被選挙人氏名ヲ吸取ラセ帰途該吸取紙ヲ返還セラレタキ旨依頼シ、以テ被選挙人ノ氏名ヲ認知スルノ方法ヲ行フ(罰金三十円)

という奇想天外な選挙違反が紹介(156~157頁)されているが、選挙運動員が誰に投票したかを知るため投票者に吸取紙を持たせて投票所で候補者氏名を転写させたというからには、その真の目的は自派の候補者の氏名が記入されたかどうかの確認であったと見るべき事案である。

 こうした違反が報告された1935年の府会・邑会・面協議会選挙は、有権者総数367074人(内内地日本人57663人)・候補者総数32195人(1907人)・当選者総数24232人(1730人)であった。(注11)『釈義』で紹介されている182例が判決にまでに至った選挙違反事案の総数であるのかどうかは分からない。とはいえこれらの実例からだけでも地方選挙への熱狂ぶりが伝わってくる。

7.地方選挙を導入した総督府の真意について

 地方選挙を導入した日本側の真意は何であったのか。推察するに、総督府は地方団体議員候補者たちを競わせることで、とくに朝鮮人たちの支配への不満を逸らし、候補者だけでなくその推薦者さらには選挙運動員たちの思想動向を探り、彼らの人間関係を利用することで支配の実をあげようとしていたのである。議員候補者と推薦者そして選挙運動員の氏名住所は所轄警察署への届け出が義務化されていた。どの候補者を誰が推薦し、誰が選挙運動員として業務に就いているのかを当局は正確に把握していたことになる。1935年の選挙に関していえば32195人の候補者総てについて、である。「朝鮮地方選挙取締規則」に従って実施された選挙は7回あったから、総督府は労せずして政治活動家のデータベースを作ることができたのである。

 そればかりではない。内地では許されていないのに朝鮮でのみ許されていた選挙運動として、「選挙期日ノ告示」から「立候補又ハ推薦届出告示」までの期間の「演説又ハ推薦状ニ依ル運動」が、候補者・運動者・一般人に認められていたことがある。立候補の届け出前に選挙運動ができるというのは奇妙なことだが、それを禁止していない第4条の4の規定により、選挙運動は内地の選挙より早い段階から可能だったのである。とりあえず立候補するともしないとも明言せずに政治演説会を開催し、当選の感触が得られなかった場合には立候補の届け出を見送ることが可能で、これは当局は実際に立候補した人々よりもより広い範囲の政治活動家の主張を集めることができた、ということである。

 候補者推薦状自体の当局への提出は義務づけられてはいなかったが、新聞等への掲載や選挙区内の選挙人(有権者)への郵送が想定されていたので、警察は容易にその内容を知ることができた。『釈義』(31~32頁)には推薦状の文例まで掲載されている。実際にもこのような推薦状が作成されていたと考えられるので、参考までに全文を引用する。

      推薦状

謹啓 春暖之候貴台益御御隆盛之段慶賀之至ニ奉存候却説来ル五月十日施行セラルヽ本道道会議員改選ニ当リ人格識見技能等我郡民ノ代表者トシテ最モ適任者ナリト信ズル○○君ヲ推薦仕候

同氏ハ久シク○○官タリシガ今ハ○○○トシテ我在野法曹界ニ活躍セラレ飽ク迄司直ノ衝ニ当ラルヽノミナラズ一面我○○府会議員トシテ常ニ正義人道ヲ強調シ独リ○○府ノ為ノミナラズ一般民衆ノ福利増進ニ多大ナル努力ヲ払ハレツヽアルハ一般民衆ノ斉シク敬服スル所ニ有之候

今ヤ本道々政ノ如何ヲ顧ルニ猶ホ教育ニ宗教ニ経済ニ交通ニ其他各般ノ施設ニ一大躍進ヲ要スベキモノアリ此際我等道民ヲ代表シ本道々政ニ参加シ以テ郡民否道民生活ノ安定ト向上ニ当ルベキ道会議員ハ実ニ同氏ノ如キ学識アリ経験アリ穏健ニシテ且ツ正義人道ノ士ヲ措テ他ニ無之モノト確信シ敢テ同氏ヲ推薦スルノ所以ニ御座候願クハ一切ノ情実ヲ排シ唯々道政ノ進展ト同氏ノ人格トヲ明察セラレ神聖ナル貴下ノ一票ヲ同氏ニ投ゼラレンコトヲ謹テ懇願仕候

  昭和○○年○月○日

                              (イロハ順)

                         ○○院参議 ○ ○ ○

                         ○○府会議員○ ○ ○

                         前道会議員 ○ ○ ○

                                  以下略

 見られるように、立候補者や推薦者は全員が朝鮮人が想定されているのに推薦状は日本文で書かれている。道会議員選挙の選挙人(有権者)は府会・邑会議員と面評議会員であるため、数の上では朝鮮人が多数を占めていたはずだが、内地人選挙人に配慮してなのか、それともそれ以外の理由があったのかは分からない。推薦状に使える言語は日本語に限るとはなっていないので、ハングル文でも漢文でもよかったと思われる。

 ただし、盛り込まれる内容についてはこの文案がひな形となったので、発送公表された推薦状には立候補者の経歴や思想、そしてどのような人々が推薦しているかがもれなく記載されていたはずである。そうしてそれらを集めて整理するだけで、当局は朝鮮全土の政治地図とでもいうべきものを作成できたのであった。

おわりに

 以上が日本支配下朝鮮人に与えられた参政権の実際であるが、とりわけ1920年以降の朝鮮地域への自治権の段階的拡大導入の方法はきわめて巧妙だった。というのも、外見は内地の地方自治に似ていたが、実際の運用方法は異なっていて、総督府が敷いた路線を逸脱しないための安全策がめぐらされていたからである。

 それは、1930年に道・府・邑(指定面)の評議会や協議会が諮問機関から道会・府会・邑会という議決機関に改組された後も、選挙で選ばれる会員の大多数が朝鮮人である面協議会は諮問機関のままとされたことや、地方議会には最後まで発案権が与えられなかったこと、地方議員等の選挙権・被選挙権は納税額による制限があったこと、朝鮮人が参加できる最大の議決機関である道会の議員のうち3分の2は府会・邑会の議員および面協議会の会員を選挙人(有権者)とする選挙で選ばれたものの、残り3分の1は道知事が任命するとされたため、朝鮮人議員が圧倒的多数とはならないようになっていたこと、さらに道知事は道会の停会を命じる権限が与えられていたこと等によって、地方議会が総督府の方針に対抗することが事実上不可能であったことによる。

 地方議員に出来たことは、予算決算の議決、総督府令等の範囲内における条例や規則の制定、さらに管轄地域内の住民生活の改善案の上申にとどまった。とはいえ議員であることにより周囲からは有力者とみなされ、また府会・邑会から道会議員選挙へ出馬し、そこでの活動が認められればさらに総督府中枢院議官へと「出世」する道筋が開かれていた。これは地域の有力者たちが競って日本の支配に協力し、また当局はその見返りとして彼らに種々の便宜を図ったことを示唆している。こうして三一運動後の朝鮮地域は見事に平定されたが、それは長期間にわたって朝鮮総督を務めた斎藤実が、朝鮮人有力者たちの協力を巧妙に引き出したからなのであった。

 斎藤は1919年8月から1927年12月まで第3代朝鮮総督、1929年8月から1931年6月まで第5代朝鮮総督、1932年5月から1934年7月まで第30代内閣総理大臣を歴任後、1936年2月26日に日本陸軍将校が起こしたクーデタ226事件によって落命した。とくに本論の課題である朝鮮人参政権に関して言うなら、1920年代の諮問機関としての朝鮮地方団体の設置も、1930年代の議決機関としての道会・府会・邑会への改組も、さらに内地において朴春琴衆議院議員や朴泳孝貴族院議員が誕生した際にも、朝鮮そして日本全体の行政の最高位にあったことはおそらく偶然ではない。

 半沢純太による最近の研究では、斎藤のもくろみは、単に忠良なる日本国民としての朝鮮人を育成することにとどまらず、再び朝鮮地域を朝鮮人に返還して独立国家を再興するところにあったされている。それは事実であるのかどうか、論者としても大いに関心がもたれるところではあるが、それはまた別の課題である。(終)

主な参考文献(刊行発表順)

  1. 山根吉三『朝鮮地方選挙取締規則釈義』(1939)朝鮮図書出版
  2. 朝鮮総督府『施政三十年史』(1940)
  3. 内務省内部資料『朝鮮人関係雑件・朝鮮地方自治制度ノ概要(調書)』(1944)アジア歴史資料センター
  4. 半澤純太「斉藤朝鮮総督の治政期『朝鮮全土地方選挙』進展と挫折に見る、満蒙・朝鮮に関る幣原外交、内田外交の展開―満州事変と『朝鮮問題』の対比と相関―」新潟工科大学『研究紀要』第17号(2012)所収
  5. 洪淳権「日帝下朝鮮の地域社会研究と『草の根植民地支配』について」国際日本文化研究センター『植民地帝国日本における支配と地域社会』(2013)所収

*本論執筆にあたり静岡県立大学図書館司書中西晴代氏より助言を受けました。ここに感謝の意を表します。

脚注

(1)
内地の県に相当する行政単位。京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道・慶尚北道・慶尚南道・黄海道・平安南道・平安北道・江原道・咸鏡南道・咸鏡北道の13道。
(2)
内地の市に相当する行政単位。1935年現在で京城・仁川・開城(以上京畿道)・群山(全羅北道)・木浦(全羅南道)・大邱(慶尚北道)・釜山・馬山(以上慶尚南道)・平壌・鎮南浦(以上平安南道)・新義州(平安北道)・元山・咸興(以上咸鏡南道)・清津(咸鏡北道)の14府。
(3)
内地の村に相当。1935年現在で2393面。
(4)
この転換は三一運動を直接のきっかけとしていたとはいえ、実際には韓国併合直後から原敬によって準備されていたこと、また斎藤実総督による朝鮮統治の方針が、最終的には朝鮮の完全独立をも見通していたことが最近の研究によって明らかとなっている。半沢純太(2012)67~73頁。
(5)
従来までの「指定面」(大規模な面)を「邑」として新たに議決機関としての邑会を設置した。1931年現在で水原・永登浦(以上京畿道)・清州・忠州(以上忠清北道)・公州・鳥致院・大田・江景・天安(以上忠清南道)・全州・益山・弁州(以上全羅北道)・光州・麗水・済州(以上全羅南道)・金泉・浦項・慶州・安東・尚州(以上慶尚北道)・晋州・密陽・東策・鎮海・統宮(以上慶尚南道)・海州・沙里院・兼二浦(以上黄海道)・安州(平安南道)・義州・定州・宣州・江景(以上平安北道)・春州・江陵・鉄原(以上江原道)・北青(咸鏡南道)・羅南・城津・会寧・雄基(以上咸鏡北道)の41邑。 
(6)
内務省管理局「朝鮮ニ於ケル地方議会議員選挙ノ概況」41~48頁『朝鮮人関係雑件・朝鮮地方自治制度ノ概要(調書)』所収
(7)
「朝鮮ニ於ケル地方議会議員選挙ノ概況」7~8頁
(8)
「朝鮮ニ於ケル地方議会議員選挙ノ概況」5~6、11~12頁
(9)
四六版全229頁。以下奥付を掲げる。昭和十四年四月二十三日印刷/昭和十四年四月二十八日発行/朝鮮地方選挙取締規則釈義/定価壱円(送料十銭)/著作者 山根吉三/発行者 京城府寿松町二十七番地/酒井与三吉/印刷者 京城府寿松町二十七番地/藤本外次/印刷所 京城府寿松町二十七番地/鮮光印刷株式会社/発行所 京城府寿松町二十七番地/朝鮮図書出版株式会社/振替京城二九六九〇番/電話光化門三二八五番
(10)
「朝鮮ニ於ケル地方議会議員選挙ノ概況」59~60頁
(11)
「朝鮮ニ於ケル地方議会議員選挙ノ概況」55~60頁掲載の表より論者が算定。