「ドイツ思想と日本の近代」

last updated: 2013-02-16

このテキストについて

以下の原稿は、ドイツ・マンハイム美術館の日独修好150年記念展覧会(2011年 10月~2012年3月)の カタログに掲載された解説文のオリジナルです。

注意:
(1)翻訳の便宜を考えて、ドイツ語にしやすい文体・構文で書いてあります。
(2)日本の歴史用語はドイツ人には理解しにくいと思われるので、思い切って意訳してあります。

本文

1.1861年以前のドイツと日本

人と人との出会いが様々なように、国家と国家の出会いもまた様々です。1861年より前の日本とドイツとの関係は、オランダ・ロシア・フランス・イギリス・アメリカと比較して、ごく小さなものでした。

その関係とは、まずオランダは鎖国時代(1640~1853)の日本と唯一交流があって、ヨーロッパの情報を日本に伝えていました。ロシアは18世紀末には沿海州にまで到達して、以来主にサハリンを巡って日本と領有権を争っていました。フランスは1806年にオランダを占領し、皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟ルイがオランダ国王に就任したことで、ヨーロッパで勢力拡大を進めている国という印象を強めていました。また、オランダの亡命政府を自国に受け入れたイギリスは、 1808年に、当時唯一海外に開かれていた九州長崎(後年原爆が投下された港湾都市)にイギリス船を侵攻させました。当初イギリス船をオランダ船と誤認した江戸(現東京)の徳川政府派遣の長崎長官(長崎奉行)は責任をとって切腹しました。1846年に初めて日本に使節を送ったアメリカは、1850年にカリフォルニアを領有したことで、太平洋を隔てた日本の隣国となりました。そのアメリカが日本を海外に開かれた国へと変えたのは、1854年のことです。

国と国との関係としてドイツ(プロイセン王国)が日本の歴史に登場するのは今から150年前の1861年が最初で、それ以前に交流はまったくなかったようです。とはいえ、ドイツ人と日本人との関係は、じつは深かったのです。鎖国時代に国家同士の関係を有していたのはヨーロッパではオランダだけでしたが、オランダが派遣していた商館員の中にケンペル(1651~1716)とシーボルト(1796~1866)という二人のドイツ人医師が含まれていて、彼らドイツ人たちが鎖国時代の日本の情報をヨーロッパ諸国に伝える役割を果たしていたからです。

そのためドイツ思想と日本人との出会いは、1830年代に遡ります。当時シーボルトは長崎に開設された鳴滝塾の主宰者として、日本人に西洋医学の指導をしていました。彼の教え子である高野長英がシーボルトから紹介されたらしい『西洋哲学史』(原典不明)の翻訳をしています。その中ではライブニッツとヴォルフについて簡単な説明がなされています。その後、1861年に日本ドイツ連邦間に正式な国交が開かれるまで、ドイツ思想への言及はないようです。

2.明治維新革命(1868)まで-改革の模範としてのドイツ連邦(1815~1871)

高野は医学との関連から西洋哲学史に関心をもったわけですが、純粋に人文学としてのドイツ思想を学んだ最初の日本人は、1862年に徳川政府派遣留学生としてオランダに留学した西周でした。ライデン大学のフィッセリング教授から国際法を学んでいた西は、教授からカントの『永久平和論』(1795)について教えられ、ドイツ思想全般に興味をもったのです。

ほぼ同時期に、当時のドイツ連邦の国家体制に関心を示した思想家に福沢諭吉がいます。西と同じく徳川政府の官僚(通訳官)だった福沢は、1862年に徳川政府が派遣した外交団の一員としてヨーロッパ各国を視察しています。フランス・イギリス・オランダ・ドイツ・ロシア・ポルトガルを歴訪した福沢は、帰国の途上、ドイツの連邦制度を模範にして日本の近代化を推進するべきだ、という結論を得ました。そして、その福沢の意見に、鹿児島藩(領邦)から出向していた同僚の寺島宗則も同意した、と福沢は自伝で述べています。この寺島は後年革命後の明治政府で外務大臣になっています。

福沢の考えでは、1862年当時の日本の国家体制は、ハプスブルグ帝国とほぼ同じでした。京都の天皇(ウィーンの皇帝に相当)の下に、江戸の徳川将軍(ベルリンのプロイセン国王に相当)を初め、多数の藩(領邦)が形式的に従っている、というのです。そこで、天皇・将軍・藩主の関係を憲法を定め、その規定に従って議会を開設するべきだと考えた福沢は、帰国後『西洋事情』(西洋の情報)という本を出版しました。

江戸の徳川政府は1867年に反連邦派ともいうべき鹿児島藩と山口藩(いずれも日本の西部)の勢力によって打倒されてしまい、福沢諭吉や西周が進めようとしていた徳川政府の内部改革は失敗に終わりました。

3.明治天皇の時代(1868~1912)-模範国としてのドイツ帝国(1871~1918)

日本で革命が起きたのは1868年のことで、日本では翌年から約半世紀の間を明治天皇の時代と呼んでいます。それは、ドイツではドイツ帝国の成立から第1次世界大戦の勃発までとほぼ重なります。この明治時代が終わってすぐに、日本はドイツと戦争をすることになるわけですが、それまでの日本はドイツを模範として国家建設を進めたのでした。

ただし、その模範国としてのドイツは、徳川政府が真似しようとしたドイツ連邦ではなく、1871年に成立したドイツ帝国のほうでした。そうなったのには事情があります。というのも徳川政府を打倒した明治革命政府は、直後に終結したプロイセン・フランス戦争でのドイツの勝利を目の当たりにして、中央政府に権力を集中したほうがより効率的な近代化が可能だと判断したのでした。

その時代の日本の代表的指導者は、鹿児島藩出身の大久保利通でした。1872年以降、明治政府は強力にドイツの制度とそれを支えるドイツ思想の導入を図りました。そのための人材育成の場として設けられたのが、官僚養成機関としての東京大学(1877年設立)と、軍人養成機関としての陸軍士官学校(1874年設立)でした。

ドイツ思想の導入を図るといっても、日本の外国語教育の中心は、アメリカとの和親条約が結ばれた1854年以降ほぼ20年間英語を中心に行われてきたため、当初は英語によるドイツ思想の紹介の形をとりました。東京大学では1878年に米国人フェノロサがヘーゲルの哲学史についての講義を、また、翌79年からは米国人クーパーがカント哲学の講義を開始しています。この時期にドイツ語によるドイツ思想の研究を望むものは留学するより方法がなく、後に東京大学哲学科の主任となる井上哲次郎は、82年まで留学して帰国後教授になっています。

東大にドイツ人の哲学教師が採用されたのは1887年のことで、以後90年までハウスクネヒトが教育哲学を、92年までブッセが主にロッツエ哲学を、91年から1914年までケーベル(国籍はロシア)が主にヘーゲル哲学を講じています。

4.ドイツ思想受容にあたっての3類型-日本の儒教・仏教・キリスト教との関係

東京大学が設立されて以降約30年間の卒業生は、ここまで述べてきた教師たちによってドイツ思想を受容しました。東大の卒業生たちの官界と学界における勢力は絶大であったため、以後日本へのドイツ思想の影響力は、大きなものとなりました。ただし、ドイツ思想といってももとより幅が広いうえ、受容した日本人にもいくつかの類型があったのです。

まず、受容した日本人の、ドイツ思想を学ぶ前に習得していた家庭教育からくる差異です。すなわち幼少からの教育が、儒教・仏教・キリスト教のいずれによるのかによって、理解のあり方に違いがあったのです。

徳川政府の時代、武士階級の教育は儒教(教祖は孔子)に基づいて行われていました。ドイツのギムナジウムに相当する藩校(領邦立学校)での教育は、儒教のうちでも朱子学派(13世紀以降の新儒教)の教師によってなされていました。その教育の基本は、世界は理(ratio)によって統率されていて、その理は人間精神に仁・義・礼・知・信という5つの道徳法則を与える、というものでした。

朱子学は身分上の差を当然の前提としていて、支配者は、民衆より理に近いがゆえに、支配を許されている、と説明されていました。武士道と呼ばれる実践活動はそうした藩校教育の延長上にあったのです。この類型にもっともよくあてはまる井上哲次郎は、ドイツ思想のratioを朱子学の理と同じものと捉え、ヘーゲルの精神史を孔子の教えと同様と理解して大学での授業を進めたのでした。初期の東大生は主に武士階層の出身者が多かったため、その解釈は容易に受け入れられました。

第二の類型は仏教を根拠とした受容のあり方でした。儒教が支配層のための学問だとすれば、仏教(教祖はシャカ)は全人口の9割以上を占める民衆のための信仰でした。仏教でも世界を統率しているのは理(daruma)でしたが、その理はあまりに深遠で、人間には容易に到達できないものとされていました。仏教の理は、それへの信仰によって支えられていたのです。仏教を基礎にしてドイツ思想を学んだ人々は、ヘーゲルの論理学を仏教の根本経典の一つである華厳経(全宇宙の原理)と同じものと理解しました。そうした解釈の代表者が井上円了でした。

仏教は日本人の大多数の信仰を集めていたので、ヘーゲルの論理学を華厳経と同じものとみなす、という説明は一般大衆に理解されやすかったのですが、問題は輪廻転生を前提とする仏教の立場からは、弁証法による世界の進歩という考えが正確に伝わらなかったことです。結果として仏教の立場からドイツ思想を受容した日本の哲学者の解釈は革命思想を含まない穏健なものとなり、人間世界に生じる矛盾はすべて理の世界において解決される、という結論に至ることになります。この立場から思索を出発させた日本の哲学者に西田幾多郎がいますが、彼は東大を卒業後、新設された京都大学の教授となって、いわゆる京都学派を率いることになります。

さて、第三の類型はキリスト教に由来しています。徳川政府はキリスト教を禁止していたため、キリスト教が許されるようになったのは1870年代からですが、アメリカ経由のプロテスタントキリスト教信者が、京都の同志社英学校を経由して東京大学に入学したり教員として採用されたりしました。学生として入学した大西祝や、教授として採用された中島力造や元良勇次郎らがそうした哲学者たちです。ドイツの思想家は、多くの場合クリスチャンでもあったわけですから、彼らの受容がもっともドイツ本国での理解に近かったともいえます。

5.受容の3類型に起因する影響の3類型-主にヘーゲルとカントを媒介にして

1889年に大日本帝国憲法が制定され、日本は立憲君主国となりますが、その憲法が模範としたのはプロイセン王国憲法でした。また、東京大学出身者を中心にして、官僚・教育・軍隊・政治機構などにドイツに由来する制度が大胆に取り込まれたため、20世紀に入った頃には、日本は東洋のドイツともいうべき国になっていました。

とはいえ、ドイツ思想といっても幅が広いうえ、日本人受容者にも上記の三類型があったので、20世紀の日本にドイツ思想が与えた影響もまた、単純ではありませんでした。

まず儒教の立場からヘーゲルを学んだ人々はその国家哲学と日本の伝統を媒介させることにより、国家主義の宣布と国民道徳の育成を推進しました。東大法学部出身の官僚と、文学部出身の公立学校に勤務する教育者がその主な担い手でした。また、プロイセン式将校養成課程を経て軍人となっていた陸軍幹部も、間接的にその勢力を支持していました。このヘーゲル右派に近い立場が、1945年までのドイツ思想受容の主流派といってよいと思います。

仏教の立場からドイツ思想を学んだ人々は、井上円了から西田幾多郎、さらに京都大学での西田の弟子である田辺元・務台理作・高山岩男へと引き継がれて行きます。全体としてはヘーゲルよりもカントの哲学を重要視する立場で、その純粋理性を無我の境地と同一視して、人生をその境地へ至るための修業と捉えていました。1920年代にハイデガーの哲学が移入されますが、その時も、彼ら京都学派は、仏教哲学を媒介にしてハイデガー哲学を理解しようとしました。

キリスト教の立場からドイツ思想を学ぶということは、実際にはカントと同じ見方で当時の日本社会を批評するということになりました。大西祝・中島力造・元良勇次郎らにも、現世の支配者としての天皇への忠誠の念はありましたが、それはあくまでも信仰の自由を侵害しない限りにおいてでした。そのため、信仰の上に天皇を位置づけようとする井上哲次郎らと深刻な対立を引き起こすこととなり、東京大学における同志社の勢力は駆逐されてしまったのです。

とはいえ、この立場は内村鑑三・新渡戸稲造ら第一高等学校(現東大教養学部)関係のキリスト者によって引き継がれ、彼らに学んだ河井栄治郎や南原繁が、国家哲学とは異なるドイツ思想の宣布の担い手となりました。それは主にカントの立場に基づいていました。

東大経済学部の自由主義経済学者として河井が行ったことは、ドイツ教養主義をより若い学生たちに根づかせることでした。ドイツ教養主義はライヒ(帝国)よりもラント(領邦)をより重要視する立場で、異なる文化の併存と、対等な国家や個人の関係を築こうとする点で、フランスやイギリスの個人主義とも親和的でした。河井の専門領域は英国の哲学者トマス・ヒル・グリーンでした。そのため河井をドイツ思想宣布の主要な学者とするのにはやや無理があるのですが、グリーンは英国新カント派の代表者ですから、英国風にアレンジされたドイツ思想を日本人に広めようとした、と考えることができます。

東大法学部では伝統的にヘーゲルが重要視されていましたが、日本へカントを紹介した西周の関心と同じく、その『永久平和論』が、キリスト教徒の政治学者南原繁の心を捉えました。1904年がカント没後100年、1924年が生誕200年にあたっていますが、この期間は、日露戦争の勃発(1904)から第1次世界大戦の終結(1919)までを含んでいます。カントの再評価は、国家理性相互の衝突が生み出した戦争という惨禍を防ぐためにカントが提示した国際連盟構想の再評価と一連のものです。南原は国際連盟設立を支持した日本人の一人でもありました。

6.第1次世界大戦とマルクス主義-ドイツ、模範国から左翼思想の供給源となる

ここで忘れてはいけないことは、日本とドイツは第1次世界大戦での交戦国だったということです。日本がドイツに宣戦布告したのは日英同盟(1902)を背景にしていて、個別的な国家利害に基づいてではありませんでした。ドイツ帝国は日本にとって明治時代以来の模範国でしたから、国内的には抵抗感も強かったのです。幸い中国山東省に駐留していたドイツ軍との交戦は短期間で終息し、中国から日本国内に移送されたドイツ軍捕虜を、日本人は丁寧に扱いました。

第一次世界大戦は、それまでさほど交流のなかった日本の民衆とドイツの一般人(捕虜の兵卒たち)の親交を深めるきっかけとなりました。日本の恒例行事として、ベートーベンの交響楽第九番のコンサートが各地で開催されていますが、それは、日本の収容所に囚われていたドイツ軍捕虜たちが催したクリスマス・コンサートの演目に由来しています。

そもそも日本がドイツ帝国を模範国に選んだのは、プロイセン・フランス戦争でのドイツの勝利に起因していました。第1次世界大戦ではそのドイツが英・米・仏に敗れてしまったばかりか、体制も共和制に変わってしまったのですから、模範国としてのドイツを国家建設の目標とする、という日本の方針も見直されることになりました。それは同時に井上哲次郎らドイツ思想受容の第1世代の引退を促し、また受容の3類型も無効になって行きました。20世紀に生まれた若者たちは、徳川政府時代の儒教や仏教による教育からの影響を受けなくなっていたからです。

では、1919年以降にドイツ思想が日本社会に与えた影響力が弱まったのかといえば、そうではありません。ヘーゲルの国家哲学への関心は薄れましたが、替わってカール・マルクス、マックス・ウェーバー、ゲオルク・ジンメルらの思想が、主に東京大学文学部社会学科(1919年設置)で学ばれるようになったからです。マルクスをドイツ思想と呼べるかどうかは難しいところですが、もしそうだとするなら、20世紀のドイツ思想は19世紀に続いて世界でもっとも影響があったことになりましょう。

7.日本文化の再発見とハイデガー哲学-日本思想と実存主義の出会い

第1次世界大戦では惨禍に巻き込まれることのなかった日本国内では、着実に研究が進められていました。とりわけ京都大学哲学科では、仏教の立場からドイツ思想を受容した西田幾多郎が、後継者の田辺元らととともに、高度に思弁的な哲学を展開させていました。ここでその中身について詳述することはできませんが、西田の哲学は「場」(topos)の哲学、田辺の哲学は「種」(species)の哲学と称されています。1922年にドイツに留学した田辺は、フッサールとハイデガーに師事して現象学の理解に務める一方、帰国後はその思索の自らの哲学の中で生かすことを試みました。

東京大学哲学科では主に18、19世紀のドイツ観念論哲学が学ばれる一方で、やはり京都大学在職中にハイデガーに師事した和辻哲郎が加わって、西田門下生とは異なる仕方でハイデガーを受容しました。それは、ハイデガーの特異な言語分析法を日本文化の解釈に応用したもので、その成果は『人間の学としての倫理学』(1934)・『風土』(1935)に結実しています。和辻はそこで、日本文化の特質を、核となる天皇制度の永続性と、温暖多湿な気候に由来する高度に柔軟な異文化の受容能力の中に見いだしました。

世界大戦での敗戦はドイツにとっては悲劇だったでしょうが、その敗戦から立ち上がろうとするドイツ民衆の姿は、同時期に留学していた明治革命第2世代の日本人に強い感銘を与えました。ドイツの国家制度が帝政から共和制に替わったことは、日本の国家主義者にとっては好ましくないことでしたが、自由主義的思想をもった多くの知識階級には快いことでした。これは思想上ばかりではなく別の表現様式、例えば映画にも見て取ることができます。

1927年に制作されたルットマン監督の『伯林-大都市交響楽』(Berlin-Die Sinfonie der Grossstadt)は、第1次世界大戦の惨禍から立派に立ち直ったベルリンの姿を描いた記録映画です。全編ワイマール時代の自由な雰囲気に満ちています。この映画は、関東大震災(1923)から復興を遂げた東京を描いて話題となった記録映画『復興帝都シンフオニー』(1929)に大きな影響を与えています。ナチス式敬礼をする者のいないベルリンと、軍服姿の日本人のいない東京の映像記録は、ドイツと日本との幸福な文化交流の第2次世界大戦前では最後の時期にあたっています。

さて、1929年の大恐慌を境にして世界の様子は一変しますが、1933年のナチス政権の成立以降も、日本人知識階級へのナチス思想の影響は限定的でした。というのは、日本とナチスドイツの関係は、1940年9月に日独伊三国軍事同盟(Dreimachtepakt)が結ばれるまで、必ずしも良好ではなかったからです。また、1930年代の日本の大学人はワイマール時代に留学を終えていたうえ、彼らの多くが日本の上流階級出身者であったため、ナチスの価値観に共感することがなかったことがあります。

8.日本の戦後とカントの『永久平和論』-ドイツ思想の受容のあり方が1862年に戻る

1945年のドイツと日本の敗北は、それぞれの国の自由主義者にとっては勝利を意味していました。日本では1930年頃までの知識階級が身に着けていた教養主義の伝統が復活して、古きよきドイツへの思想的回帰が進みました。また、マルクスはもとより、ナチズムへの痛烈な批判者としてのフランクフルト学派の思想が、より左翼的な人々に支持されました。ドイツ思想の国家主義的な部分は背景に追いやられ、中道から左よりの思想が高く評価されることになって、ドイツ思想全般の日本国民全体への影響力は、戦前とあまり変わらずに継続したといえます。

戦前においても、マルクスを読むこと自体は禁止されてはいませんでした。そのためマルクスの思想研究者は少なくなかったのですが、それを実践の活動に移すのは禁止されていたため、その影響力には限界がありました。戦後は、獄中にあった共産党員が解放されたり亡命先から帰国したりしたため、マルクスの思想は、単に研究のためばかりではなく、革命運動の手引きとして熱心に読まれることになりました。

大学では戦争に協力的だった教員が追放され、左翼の学者たちが教壇に戻ってきたので、多くの大学でマルクス主義に基づく教育がなされました。ただし、国政選挙では、自由党(LP)または民主党(DP)が合同した自由民主党(LDP)が1955年以降約40年間政権を維持し続けたので、マルクス主義の台頭は大学の中だけであったといえそうです。

マルクスをさておくなら、ドイツ民族の思想家のうちで、戦後もっとも大きな影響を保持しつづけたのは、カントでしょう。先にも書いたように、日本人とドイツ思想の最初の出会いは、江戸政府派遣の留学生西周がオランダで『永久平和論』を読んだことにはじまります。その感動は、ヘーゲル哲学の国家主義的解釈が隆盛を極めた時代には表には出なくなったものの、地下水脈として第2世代の政治学者南原繁のもとに流れこんでいたのです。

1951年、連合国との講和条約を結ぶにあたって、東大総長となっていた南原は、カントの平和論を下敷きにしつつ、「講和条約を結ぶなら、ソ連を含む交戦国すべてとでなければ無意味である」と主張しました。カントの理想主義と同じく、その主張の実現可能性は極めて低かったのですが、南原総長の筋の通った主張に、多くの日本人は敬意を覚えたのでした。

ところで、先に紹介した映画『伯林-大都市交響楽』と同時期のベルリンを舞台にして、ケストナーが『エーミールと探偵たち』(1928)を書いていますが、この児童文学の傑作は、日本では早くも1934年に翻訳されています。ケストナー作品は、戦前にはさほど読まれなかったものの、1953年に新しい翻訳が出版されてから日本の子供たちの間で大人気となります。

南原繁を核としたカント再評価の背景となる事態として、このケストナーの文学が日本の児童に与えた影響は大きかったと思います。カントが理想とするような誠実な人々の実例として、ケストナー作品の登場人物が描かれている、と多くの日本人は理解したのです。いや、幼少期にケストナー作品に感動した日本人青年が、大学に入った後に触れたカント哲学を、ケストナー作品の基礎と捉えたというほうが正確でしょう。

話を文学から思想に戻しましょう。ドイツ人の思想家で、カントの後継者として、まず第1にヤスパースを挙げることができます。ヤスパースは、カントの世界市民の理念の思想を受け継ぎ、政治的にいかなる強制からも自由で独立した個人が市民として、互いの文化的・歴史的背景の相違を尊重しつつ、相互に連帯する一種の連邦共和制に基づいた世界連邦を構想しました。この考えは、戦後の自由主義者たちに国家社会主義や共産主義とは異なる世界観を提供したことにより、その思想の影響を受けた多くの日本人研究者が現れました。後に触れる西部邁もその一人です。

カント哲学の影響下にあるということなら、カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』(1945)やジョン・ロールズの『正義論』(1971)もその延長上にあるといえます。戦前のオーストリアでドイツ語で言論活動をしたことのあるポパーならかろうじてドイツ思想に含めることはできましょうが、米国人ロールズの思想をドイツ思想に入れるのには無理があるかもしれません。 ただし、ロールズ自身はカントの弟子と自称しているのですから、現在最も影響力のあるカント門下生ということにはなります。日本でのロールズの信奉者は、東大教授川本隆史を初め数多く存在しています。

また、ウィーン出身のウィトゲンシュタインの思想は、日本大学教授永井均ら戦後日本の科学哲学者に大きな影響を与えていますが、彼をドイツの思想家と呼ぶかどうかには、国籍・民族とは別の問題が介在しています。それは、彼がケンブリッジ大学を研究の場としていたということだけでなく、彼と交流があったシュリック・カルナップ・ノイラートらにより1929年に組織化されたウィーン学団が、ナチスの弾圧(皮肉なことに非ドイツ的と判断された)にあって活躍の場を亡命先の英米に移したことによります。不本意にもドイツから追放された人々の思想を、ドイツ思想と呼ぶことを、本人たちは喜んでくれるとは思えないのです。

9.思想を言語や民族で区切ることは可能か?-フランクフルト学派の隆盛とハイデガー哲学の再評価

前節の最後にも示唆したように、第2次世界大戦後に急速に進んだ思想の世界化によって、思想を国家や言語ごとに区切ることが困難になっています。

思想を国家や言語で区切ることの難しさの一例として、1930年代以降、マルクス主義・精神分析学・アメリカ社会学などの影響のもとに批判理論を展開したフランクフルト学派の活動が挙げられます。彼らはマルクス主義の立場から現代社会の総体的解明をめざす思想家集団ですから、マルクスの末裔ということができます。

そこで唱えられたのが啓蒙の弁証法で、無知蒙昧な自然状態にある人間を解放し、自由・独立の文明社会に導くはずの啓蒙的理性が、逆にナチズムに代表されるような新たな野蛮をもたらす仕組みを解明するのが目的でした。アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』(1947)で提出した近代批判の概念です。

マルクスの思想をドイツ思想とするなら、フランクフルト学派は、その拠点とした大学も、また主にドイツ語を用いたという点においても、間違いなくドイツ思想となりましょう。しかし彼らの思索の目的は、それまでのドイツの文化や伝統を全否定し、2度と再びナチスが台頭しないように図ることにありました。その意味では反ドイツ思想であった、ともいえます。

フランクフルト学派が左翼の政治的立場の人々に与えた影響は絶大でした。彼らは旧来のマルクス主義の教条を捨てて、批判の対象を旧来の文化的伝統全般にすえました。現状に不満をもつ若者は多くその思想に共鳴し、その中には後に日本を代表する保守思想家となる若き日の加藤尚武と西部邁が含まれています。

加藤尚武と西部邁の思想遍歴は、加藤が東大哲学科で西部が同経済学部という違いはあるにせよ、似通ったものです。哲学科でヘーゲル哲学を研究していた加藤と、経済学部でマルクス主義経済学を学んでいた西部は、当初は1950年代末の日本共産党に共鳴しますが、その教条主義に息苦しさを感じて共産主義者同盟(ブントBund)の活動に加わります。その後60年代の学問的修業期に批判的左翼としてフランクフルト学派の思想に近づき、アドルノ・ホルクハイマー・ベンヤミン・マルクーゼ・フロム・ノイマン・シュミット・ハーバーマスなどの思想を耽読、彼らの思想の分析をも含んだ研究によって1970年頃大学にポストを得ました。

西部の初期の主著『ソシオ・エコノミックス』(1975)は、北海道の漁師となっていた唐牛健太郎に捧げられています。この唐牛は元ブントの学生委員長(全学連委員長)で西部の旧友でした。ともに北海道の労働者階級の出身である西部と唐牛のうち、前者は東大教授となり、後者は運動の敗北後労働者そのものとなったわけです。そして学界に残った西部のこの本は、フロム・ハーバーマスなどを援用した近代経済学批判の書となっています。その5年後、西部はスペインの思想家オルテガの影響下に保守思想家としての名声を高めることになります。

東京出身の加藤もまた政治運動からは身を引いて、70年代にはヘーゲル研究に没頭します。ただし、その方向は左派へではなく、すなわち政治の目的へではなく、生命の目的そのものを探究することになります。医療技術の進歩によって80年代に急速に関心の高まった生命倫理研究の第一人者となりますが、その発想の基礎にあるのは、ヘーゲルの精神現象学と、もう一つ、ハイデガーの存在への問いへの反照でした。

1930年代のハイデガーは政治的にはナチス党員だったわけですから、加藤本来の政治的立場とは異なっています。しかし、戦後ハイデガーの近代技術への懐疑は、同じく政治的な敗北を味わった者として、加藤に強い共感を与えたのです。京都大学教授となった加藤が編纂した『ハイデガーの技術論』(2003)は、ハイデガーによる当該問題に関する論文の収録とその解説として、高い評価を得ています。