時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その0
このテキストについて
- (1)
- 本テキストは、『福沢諭吉の真実』の原型のうち、新書版と重複していない部分を掲げるものである。すなわち、新書化にあたって省略された「無署名論説の起筆者推定に関する考証」を主たる内容としている。
- (2)
- 全 8 章のうち、第 4 章までを掲載するが、それは新書版のはじめにと第 1 章に相当している。なお原型第 5 章以下は、新書第 2 章以下と正確に対応している。
- (3)
- 2003 年 04 月 24 日の完成時のままとし、一切修正は加えていない。そのため、新書版とは若干の齟齬があるかもしれない。両者の見解が相違している場合は、新書の記述を優先させることとする。
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はじめに
2 つの福沢評価
福沢諭吉にかんする数多の研究書を読んで奇異の念にとらわれることは、彼への評価のはなはだしい落差である。いっぽうに独立自尊を説き日本を国民国家とすべく邁進した市民的自由主義者という評価があれば、もういっぽうに、民権よりも国権を優先し、ついには日本のアジア侵略の端緒を開いた扇動家という全否定もある。国内において民権の伸張を唱えながら対外的に国権の拡大を主張することは必ずしも矛盾とはいえないとはいえ、福沢を批判する人々は、1882 年以降の新聞『時事新報』掲載の論説に侵略的言辞があまりに多用されていることへの懸念を表明するのが常となっている。
批判の代表的な例として、遠山茂樹は、論文「日清戦争と福沢諭吉」(1951-11)において「脱亜論」(1885-03-16)を取り上げ、
「アジアの一員としてアジアの興隆に尽くすのではなく、アジアを脱し、アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強と伍する小型帝国主義となろうとする、日本のナショナリズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な思想家も、「文明」の名においてとらえられていた」
と述べている。自国民の幸福のためには他国民を犠牲にしてもよいのか、ということであるが、本書が主題とする時局的思想家とは、そうした福沢像を端的に表したものである。
もとより「時局」という言葉そのものには「時世のありさま」といった中立的意味合いしかない。したがって時局的思想家というのも、本来はその時々に時事評論を書いた思想家、というごくあたりまえの意味しかもたないはずである。じっさい福沢は『時事新報』を創刊し、それ以後執筆した論説すべてを同紙に発表しているのであるから、まさに時局的思想家として活躍したのではあった。
とはいえ「時局的」という言葉には、もっと隠微な、あるいは陰湿なニュアンスがあることに多くの読者は気づかれるのではなかろうか。たとえば日中戦争たけなわの 1938 年に、新作の試写を見終わった映画会社の社長が、「この作品は時局的ではないね」、という評価をくだしたなら、それは戦意高揚のためのメッセージ性が弱いのでお蔵入りとせよ、ということである。福沢批判者が問題視する彼のイメージとも重なるのであるが、要するに時局的という言葉には、「(戦)時局(迎合)的」という内実が隠されているのである。本書はこうした意味で「時局的」を用いる。すなわち時局的思想家とは、不穏な時代にあってその時局に迎合的な意見を無節操に垂れ流した思想家のことである。
福沢諭吉は批判者が問題とするような時局的思想家であったのか。もしそうだとするなら、それはいつの頃からそうなったのか。そのことを明らかにするのが本書の課題である。
『時事新報』を扱うことについて
福沢批判者が問題視する論説のほとんどは『時事新報』に掲載されたものである。ところが現在の『福沢諭吉全集』(以下現行『全集』)全 21 巻のうち計 9 巻を占める「時事新報論集」が全体として研究の対象とされたことは、これまでまれであったといってよい。その理由ははっきりしている。要するに『時事新報』論説は読むに値しないものとされてきたのである。「東洋の政略果たして如何にせん」(1882-12)や「東洋の波蘭」(1984-10)、また「脱亜論」などの諸編はそれまでの福沢の思想を無為にしかねない侵略賛美の論説として悪名が高いうえ、何より「漫言」を除いても全部で 1500 編以上という膨大な数が研究する意欲を萎えさせてしまうのだ。
初出を『時事新報』とするものの掲載後に単行本として刊行された『日本婦人論』(1885-06)や『福翁百話』(1897-07)、また『福翁自伝』(1899-06)などの重要な著作は、現行『全集』では「時事新報論集」以外の巻に収められているのであるから、残された論説はもっぱら福沢批判者が、彼をおとしめるための材料を探すために読んできたといってよい。じっさいそこには、「脱亜論」ほどには有名ではないにせよ、中国人を「チャンチャン」呼ばわりした多くの「漫言」やら、日清戦争後に植民地となった台湾で蜂起した現地人を皆殺しにせよ、と主張する「台湾の騒動」(1896-01-08)などの論説が含まれている。
1980 年代初頭の『福沢諭吉選集』(以下新書版『選集』)第 7 巻で、『時事新報』掲載の対外政策論集を編んだ坂野潤治からして、
「偉大な思想家の著述はその偉大なうちに書かれたものを読んでこそ我々の役に立つのであり、その偉大さを失った後の著述は、福沢研究者以外には用のないものではなかろうか」
と述べているほどである。これでは膨大な量の「時事新報論集」を逐一読んでゆく気も失せようというものだ。
しかし論者の考えるところ、従来の研究者は重大な見落としをしている。それは、現行『全集』第 7 巻までの著作と、第 8 巻から第 16 巻の「時事新報論集」論説とは、全集に収められた経緯がまったく異なっているということである。すなわち第 7 巻までは署名入りで公刊された著作であるのにたいして、「時事新報論集」はその大部分が無署名であり、編纂者が福沢のものとして『時事新報』の紙面から選んだものにすぎない。第 16 巻には福沢の没後数ヶ月してから掲載された論説が 6 編収められているのであるが、これらを本人が書けたはずがないのはいうまでもないであろう。
いったいこれはどうしたことなのであろうか。「時事新報論集」所収論説の内容について考察する前に、まずその成り立ちそのものを検討する必要があるのである。
参考:年度別の掲載論説一覧
西暦 | 単行本日数 | 大正版 | 昭和版 |
---|---|---|---|
1882 年 | 40 | 17 | 33 |
1883 年 | 8 | 24 | 56 |
1884 年 | 12 | 9 | 57 |
1885 年 | 39 | 17 | 58 |
1886 年 | 8 | 14 | 42 |
1887 年 | 0 | 12 | 34 |
1888 年 | 19 | 8 | 24 |
1889 年 | 0 | 24 | 52 |
1890 年 | 12 | 16 | 34 |
1891 年 | 0 | 15 | 69 |
1892 年 | 22 | 14 | 82 |
1893 年 | 15 | 14 | 65 |
1894 年 | 0 | 10 | 139 |
1895 年 | 0 | 12 | 123 |
1896 年 | (74) | 4 | 96 |
1897 年 | (39) | 10 | 102 |
1898 年 | (57) | 3 | 103 |
1899 年 | (51) | 0 | 31 |
1900 年 | (5) | 1 | 38 |
1901 年 | (19) | 0 | 8 |
上記論説一覧に関する註
- 大正版・昭和版「時事論集」は各年に掲載された「編数」、「単行本日数」とは後に単行本化された論説の「掲載日数」であって、厳密には対応しない。
- 1896 年以降単行本化された著作は「社説欄」以外の掲載のため(かっこ)付とした。もちろん 1898 年 09 月の発作後発表されたものも執筆はそれ以前である。