誰が『尊王論』を書いたのか? その0

last updated: 2013-01-23
管理人による註
2006-09-15から当該論文は公開されていましたが、紀要に掲載されたのでいくつかの情報を追記しました。

静岡県立大学国際関係学部『国際関係・比較文化研究』第5巻第2号(2007年03月)所収の平山洋「誰が『尊王論』を書いたのか?」を転載します。

はじめに

福沢諭吉の署名著作に『尊王論』というものがある。彼が所有していた新聞『時事新報』の社説欄に、1888(明治21)年09月26日から10月06日にかけて9日間連載(09月30日は休刊日・10月05日は休載)された後、同年10月に東京神田の出版社である集成社より単行本として刊行された。

従来までの研究史では、この『尊王論』は、おおむね次の2つの評価のいずれかが下されてきた。すなわちその第1は、

<6年前の『帝室論』において、天皇を政治社外に置くことでその政治利用を排除する、という立憲君主制度の確立のために不可欠な提言をした福沢が、今度は天皇と国民の関係はどうあるべきかについて、国民の心性という曖昧ではあるが重要な側面から、一歩踏み込んだ発言をした>、

という肯定的評価である。そして第2は、

<『学問のすすめ』で楠公権助論を展開した福沢ではあったが、明治20年代にいたって、天皇を重視し国民の尊王心を統治に役立てようとする、ときの明治政府により近い反動的立場へと転向した>

という否定的評価である。

拙著『福沢諭吉の真実』(2004年08月・文藝春秋社刊)でも指摘したように、福沢研究は常にイデオロギー的色彩を帯びている。すなわち、

「福沢は市民的自由主義者であるとする、慶応義塾の出身者と丸山真男率いる東京大学法学部出身者たちを主力とする研究者たちは、石河の仕事を尊重しつつ、福沢には侵略的側面もあったかもしれないが、それを思想の核と見なすべきではなく、彼の真の目的は個人の自由と経済の発展にあった、という形で福沢を弁護し、一方東京大学文学部とその他の大学の文学部・教育学部出身者を主な構成メンバーとする研究者たちは、石河の主張を積極的に受け入れて、侵略的絶対主義者としての福沢を批判していたのであった」(232頁)

ということがある。

この『尊王論』については、市民的自由主義者としての福沢を高く評価する研究者たちが第1の立場をとり、侵略的絶対主義者としての福沢を批判する研究者たちが第2の立場をとっていることは、言うまでもない。両者は互いに相手方の見解に触れることもなく、別々の媒体で自らの主張を繰り返すばかりだったので、『尊王論』をどう評価するかについての論争も提起されず、したがってその理解が深まることもなかった。

本稿は、『尊王論』について、福沢の思想における新たな位置づけを行うものである。ただ、本論に入る前に、本稿執筆の動機として、拙著『福沢諭吉の真実』の『尊王論』に触れた部分に、思わぬ反響があったことについて、最初に述べたい。続いて本論では、まず第1にその内容を要約する。それというのも、『尊王論』はタイトルほどには中身が知られているとは言い難いからである。また第2に、それを理解する手がかりとして、福沢の書簡を利用しつつ、当時の時事新報社が置かれた状況について整理する。推測するに、それが『尊王論』出版に大きな影響を与えているのである。さらに第3に、『尊王論』の真の執筆者とその出版にいたる経緯を推定したうえで、この論説のもつ意味について述べる。

そこでこの論文を書くことになったいきさつについて、いささか弁明したいことがある。