誰が『尊王論』を書いたのか? その4

last updated: 2013-01-23

4 1888年10月のクーデタ騒動(1)紛争の勃発まで

探索の範囲を福沢の書簡にまで広げてみよう。『福沢諭吉の真実』にも書いたように、『尊王論』の刊行については、当時の時事新報社の内部事情が関係している、と私は推測している。「1888年10月のクーデタ騒動」と私が呼んだ内紛がそれである。

このクーデタ騒動については拙著の2ヶ所で触れている。まず40頁16行目から41頁7行目までである。

一八八八年一〇月のクーデタ騒動

さらに八八(明治二一)年一〇月には渡辺と石河を首謀者とするクーデタ騒動が持ち上がっている。この事件の経過については石河のところで再び述べることになるが、要するに、社説は両人が担っているのに待遇上報われていないので改善してほしい、さもなくば新任社説記者の菊池武徳を連れて退社する、という福沢に対する恫喝であった。

この事態に福沢は大きなショックを受けて中上川に詳細な手紙を送っている。この騒動は数日で収まったが、恭順の意を表した石河との関係は修復できたものの、渡辺と福沢の心は完全に離れてしまった。渡辺が政治運動を本格化させたのはこの頃のように思われる。

そしてもう1ヶ所は、49頁14行目から51頁9行目までで、やや長いが全体を引用する。

文章家としての石河

石河は一八八五年四月に入社してから一九二二年に主筆の座を下りるまで一貫して『時事新報』の編集や論説作成にかかわっていたとはいえ、八八年頃までの福沢の彼に対する評価は非常に厳しい。中上川宛書簡には、「石河はまだ文章が下手にて過半は手入れを要す」(八七・八・四)や「石河はあまりつまらず」(八八・八・二七)などとある。この低い評価に勘づいたのであろうか、石河は八八年一〇月に、渡辺のところでも触れたクーデタ騒動を引き起こしている。もちろんこの事件について石河自身は『福沢諭吉伝』その他でも一切口をつぐんでいる。

この『時事新報』編集部の内紛は、中上川の後任ポストを巡っての争いであるように思われる。八七年四月に中上川が退社した時点で次の主筆となる可能性があったのは、いずれも水戸出身で慶応入学前から旧知の仲であった渡辺・高橋・石河の三名であった。このうち高橋は福沢からその才能を高く評価されていたが、中上川がたどったのと同じ留学から実業界へというルートにより魅力を感じていた。そして実際帰国して後は、山陽鉄道から三井に移っていた中上川に引っ張られ、そこの重鎮となっている。

その高橋が八七年七月に福沢を振り切って時事新報社を去ったことが、次の波乱の原因となったのであろう。それはすなわちそれまで主筆の目のなかった石河と渡辺にも可能性が生じたということである。渡辺のほうが入社は三年早いが、年齢は石河のほうが五歳上である。自己評価は他者評価より必ず高い。いずれもが自分こそ主筆になるべきだ、と考えたとしても不思議なことではない。

しかし福沢としてはいずれも不十分と感じていたらしい。先にも引用した中上川宛書簡(八七・七・二七)には、それまで社長と主筆は中上川が兼ねていたものを、社長格である総編集を伊藤欽亮としたうえ、石河を執筆に廻したことが書かれている。つまり主筆は当面空席としたわけである。福沢としてはそこに日原昌造または箕浦勝人をと考えていたらしい。早くから袖浦外史の筆名で社説を投稿していた日原の本職は横浜正金銀行社員で八七年七月には香港出張を控えていた。また『報知新聞』で論説を担当していた箕浦も退社する気はないとの返答であった。

一方それまで『時事新報』に在籍したことのない人物が主筆の座を射止めては、渡辺・石河としても面白くないと考えるのは当然である。ライバル同士であっても落下傘主筆を防がねばならないという思惑では一致していたであろう。それが翌年一〇月のクーデタ騒動の遠因ではなかったろうか。

このクーデタ騒動について、それなりに力を込めて書いたつもりだったのだが、米原謙の目には留まらなかったようだ。あるいは実際の時間経過と逆に配置されているので、印象に残らなかったのかもしれない。

そこで、わかりやすくするために、1887年04月の中上川彦次郎主筆兼社長の退社から、1889年01月の渡辺治の退社までを今一度整理してみる。

1887年04月
中上川彦次郎退社。
主筆・社長空席となる。
編集担当:石河幹明。
社説記者:高橋義雄、渡辺治。
1887年07月
高橋義雄退社。総編集:伊藤欽亮。社説記者:石河幹明、渡辺治。
1888年02月
菊池武徳入社。
社説記者3人体制となる。
1888年09月26日/10月06日
『尊王論』連載。
1888年10月22日
クーデタ発覚(中上川宛書簡1324。)
1888年10月23日
『尊王論』刊行(奥付)。
1888年10月24日
クーデタ終結(中上川宛書簡1325)。
1888年10月29日
石河を慰撫する(石河宛書簡1326)。
1888年11月04日
福沢一太郎、捨次郎留学から帰国。
1889年01月
渡辺治退社。

以上のことを念頭においたうえで、当時の新報社の内情が生々しく記された福沢の書簡6通を紹介したい(表記は適宜改める)。なお、最新版の『福沢諭吉書簡集』で発信年月日が確定しているが、これらのうち、石河による『続福沢全集』の段階ですでに収められていたのは、高橋宛(1311)と石河宛(1326)の2通だけであった(4桁数字は書簡番号)。

しかも、石河宛は1894年から翌年にかけてのものと推測されていたので、1888年と認定されていたのはさらに減じて、高橋宛のみであったのである。中上川宛(1301、1319、1324、1325)は、関東大震災で焼失したと思われていたのが第2次世界大戦後に発見されて、現行版『全集』に収められることになった。これらの書簡が残されていなかったなら、クーデタ騒動の存在自体が知られることはなかったであろう。

1887年04月に退社して以降、福沢は神戸にいた中上川に新報社の内情をつぶさに知らせている。1888年05月31日付中上川宛 書簡(1301)は、新入社員の菊池武徳が思いの外出来が良いことを伝えている。

「菊池武徳は有望之少年、頼りに勉強到居候。是れは必ず高橋義雄の身代わりに可相成存候」(『書簡集』第6巻23頁)

この段階ではまだ不穏な様子をうかがうことはできない。

7月25日には、アメリカからイギリスに移っていた高橋から送られてきた社説用原稿「米国雑記」に対する返信が書かれている。

米国雑記八章、慥に落手。昨日より唯今までにて拝見致し了り候。誠に妙なり。一句も正刪を要せず、其儘に紙上に用ひ候積り。近来は渡辺氏も勉強致候得共、何分にも少人数にて、社説には困り居候折柄、別けて難有難奉存候。尚此後も御閑之節は、御書送奉願候。日本は商人に限らず、役人も学者も、坊主も政治家も、自尊之一義を知らず、是れにては、迚も立国之事難きを知るべし。何とか工風致度、夫のみ関心に御座候。(『書簡集』第6巻39/40頁)

この「米国雑記」は、「米国雑説」というタイトルで、 07月30日から08月8日(08月3日のみ差し替え)まで社説欄に連載されている。この書簡が書かれた直後、福沢は東京を離れて鎌倉に海水浴に出かけている。08月13日帰京。この間東京の編集部で石河は、手を加えられていない高橋の署名入り論説が、社説欄に掲載されているのを眺めていたわけである。

8月中旬以降の福沢の動静は書簡からうかがうしかないが、どうやら「条約改正敢て求めず」(08月31日、09月1日、09月3日掲載)の執筆をしていたようである。同時に社説記者が書いている文章の監督もしていたことになる。そうした中08月27日の中上川宛 書簡(1319)には、渡辺と石河への不満が語られている。

渡辺は先ず執筆に宜しけれども、文章に妙なくせありて、正刪を要する事多し。石川はあまりつまらず。先ず翻訳位のものなり。老生之所見にて、高橋が一番役に立候様に覚候得共、是れは商売がすきと申せば、致し方なし。新聞社に居て文の拙なるは、両国の角力に力のなきが如し。何は扨置き困り申候。(『書簡集』第6巻52頁)

どうやら石河は当時は石川と表記されていたらしい。この書簡で先に高橋本人へ向けられた賞賛を今度は中上川に伝えるいっぽう、渡辺と石河へは厳しい点がつけられている。渡辺・高橋・石河は水戸以来の幼なじみであるから、渡辺・石河の<面白くない>という感情はさらに倍加したことであろう。

石河に関する書簡中の文言「あまりつまらず」「翻訳」について、福沢が紙面に掲げられたどの論説を評して「あまりつまらず」と言ったのかについては分からないが、「翻訳」がどれであるかは確定できる。それは09月13日から3日間連載された、福沢一太郎の「帰朝記事」である。その序文にはこうある。

福沢先生の令息福沢一太郎捨次郎両氏は、米国留学五年、一太郎氏は専ら文学に志して常に私約の教師に就き、紐育にてはジーグンフース氏、ボーストンにてはホウ井トニー氏を師とし、前後両氏とも彼の国有名の碩学にして、尋常の雇はれ教師に非ず。其日本に関するの情最も厚くして、殊に一太郎氏の奇才を愛し、之を教るに深切至らざる所なくして、氏の学業の為めに大に面目を改めざるは、氏が一身の仕合のみならず、国交際の上より見ても悦ばしきことなり。捨次郎氏はボーストン府のマサチュセットイスチチューションオヴテクノロジーと云へる大学校に入て土木課を修め、本年六月優等の卒業をなして、乃ち兄弟相伴ひ米国を辞して英に渡り、これより欧州各国を巡廻してノールウェー、スウェデン等にも至り、十月初旬再び英国に還り、印度洋に出で、諸処見物して、多分本年中には帰朝す可しと云ふ。一太郎氏が米国を去りし以来の英文紀事あり。固より一篇の紀行文なれども、其文中往々氏の所見を述べて、読者に利す可きものあらんと思へば、之を翻訳して社説易ふ。(1888年09月13日付『時事新報』社説欄)

この文は明らかに福沢諭吉の真筆である。親ばかとでも言うのであろうか。それまで新聞社に一度も在籍したことのない長男が英語で書いた紀行文を翻訳して、大新聞の社説欄に連載しようというのである。08・09月の社説欄に掲載された翻訳はこの1編だけであること、また文体的な特徴からも、これを石河が担当したことは確実である。

福沢兄弟の帰国が本決まりとなった07月あたりから、「在ボーストン某生」(07月13日、14日、18日、27日、28日、08月25日、28日、29日)寄稿の社説がしばしば掲載されているのであるが、その真の筆者は、横浜正金銀行サンフランシスコ支店支配人日原昌造であった。『書簡集』には、「筆者名を「在ボーストン某生」とした理由は未詳」(第6巻45頁)とあるが、この「帰朝記事」序文によって、その理由がほの見えてくる。要するに福沢は、これらの社説が2人の息子の手になるものである、という印象を、読者に抱かせたかったのである。帰国しつつある福沢兄弟はすごく優秀だそうだ、そうなると時事新報社の世代交代も近いだろう、という方向にもってゆくために。