誰が『尊王論』を書いたのか? その6
6 クーデタ騒動と『尊王論』の刊行
ここまでがクーデタ騒動のあらましであるが、以下では石河が鉾を納めた理由について私なりの推測を述べたい。といっても、新書にもすでに、「おそらく石河を懐柔するためであろう」と結論めいたことを書いているので、この記述がいかなる推論のもとになされたかを示すことになる。
さて、『尊王論』について福沢自身の言葉が、現行版『全集』中にたった1ヶ所しかないことは、すでに指摘した。つまり、その著作は署名入りであるにもかかわらず、「福沢全集緒言」においても一言も触れられていない、ということである。福沢自身の言明からは、それが重要な著作であることを証明することはできない。
では、1901年02月に福沢が生を終えたときに、『尊王論』は重要な著作として遺された人々によって回顧されたであろうか。『福沢先生哀悼録』(1901年05月刊)は、没後3ヶ月までに公にされた弔詞をほぼすべて集めていると思われるが、そこで『尊王論』あるいは福沢における尊王がどのように扱われているかを確認すると、次のようなことが分かった。
すなわち、そこに収められた新聞・雑誌掲載の弔文173編において、『尊王論』について触れているものは、わずかに「福沢先生の逝去を悲む」(『馬関毎日新聞』)と「黄塵録」(『鹿児島新聞』)の2紙のみである。しかも、いずれも福沢の著作リストに含まれているだけで、その内容には触れていない。福沢の尊王について触れている弔文は、『学問のすすめ』中の「楠公権助論」を使って、彼の尊王心の薄さを批判するものばかりである。
大町桂月による「日本国民として、決して之を許すべからず」(『太陽』)という弔文とも思われない激しい糾弾文はすでに拙著に引用したが、その他にも、
「翁の国史に疎闊なるは、世人の知悉する所(なり。楠公権助論を引いて・中略)故に若し国民にして歴史的観念を欠けば、遂に皇室の尊ぶべきを忘れ且つ国家の重んずべきを知らざるに至る、即ち翁の如きは、慥に其一人也」(『富士新聞』)
とか、
「幕臣たりしものの朝廷に仕へ顕要に至れるを寧ろ不義なりと認めたるが如き一種矯々の気翁の脳底に存し」(『東京日々新聞』)
とかあって、生前福沢を批判していた人々は、弔文においてもなお、彼が尊王的ではなかったと回想しつつ、そのことに強いこだわりをもっていたようなのである。
福沢が死去した時点では、『尊王論』はもとより、『時事新報』社説欄に掲載された後単行本化された署名著作は、きれいに忘れられている、というのが適切な把握のようである。各紙の弔文は、『時事小言』(1881年刊)までの著作を要約し、飛んで『福翁百話』(1897年刊)以降の晩年の作品に触れてまとめる、というふうになっているものが多い。思うに、各新聞雑誌社の資料室には、福沢の『時事新報』以前と、日清戦争後の福翁物の単行本はあっても、新聞の抜き刷りともいうべき『時事大勢論』(1882年刊)から『実業論』(1893年刊)までの署名著作群は収蔵されていなかったのではないか。いかに大福沢とはいえ、1880年代以降については、天保の老人として、すでに時代遅れの思想家である、とライバル紙が見なしていた可能性がある。実際にそう述べている弔文もある。
富田は『尊王論』の単行本の発行部数は少なかったと推測している。それはまた明治版『福沢全集』に収められたが、多数の著作の1つとしてにすぎない。それに、『全集』の多くは教育機関の図書館が購入したのであろうから、その中からとくに『尊王論』を選んで読んだ者がいかほどいたであろうか。要するに、1901年の段階では、福沢に『尊王論』の著書があることを知っていた人間は、ほとんどいなかったらしいのである。
安川は、『帝室論』と『尊王論』の合本が、福沢存命中に刊行されたかのように書いているが、それは間違いである(『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』108頁)。実際には、福沢没後の1911年と1930年にいずれも時事新報社から出版されている。前者は1911年02月3日発行とあるが、その刊行の理由は、前年05月に発覚した大逆事件において、1911年01月18日に24名の死刑判決が出されたことについて、天皇制度についての時事新報社としての立場を明らかにするためであったのだろう。後に『続福沢全集』に収められることになる石河筆の10編の社説も、この時期に掲載されたものである。
1911年刊行の合本『帝室論尊王論』の序文は石河の手になるものであるようだが、なかなかに興味深い。全文を引用する。
帝室論並に尊王論の二篇は福沢先生の著述にして、我帝室の尊厳神聖を維持する所以の道を説きたるものなり。前者は明治十五年、後者は明治二十一年の起草に係り、何れも当時の時事新報に掲載し、其後福沢全集の中にも収録したれば、世間に之を閲覧したる人多かるべしと雖も、我国近時の世態はますます帝室の尊厳神聖を維持する所以の道を明にするの急要適切なるを認め、さらに両篇を合して一冊と為し、之を刊行して読者の便覧に供するものなり。
明治四十四年一月 時事新報社
見られるように、『尊王論』の主題である<帝室の尊厳神聖の維持>については強調されているのに、『帝室論』の、<帝室は政治社外にあるべきだ>、についてはまったく触れられていない。この序文の書き手、おそらく石河が、いかに『尊王論』のほうを重要視していたかが、ここからもうかがわれるのである。
1930年に『日本皇室論』という題で刊行された合本は未見であるが、おそらく、同年04月に政友会の犬養毅らによって提起された統帥権干犯問題について、やはり社の立場を表明する必要に迫られて出されたものであろう。すでにこのときには石河は退いていたので、その出版とは無関係である。
これら2種類の合本に福沢自身が関与できたはずもないのに、そのような誤解が広まったのは、現行版『全集』の編纂者である富田正文による「後記」が曖昧な書き方になっているからである。すなわち第5巻654頁の『帝室論』解説には、
「(『帝室論』は)本全集第六巻におさめる「尊王論」と共に、福沢の帝室に関する二大論説として世の注目するところとなり、それぞれ単行本として出版され、また両書の表題を併記した合本や、「日本皇室論」と題して両書を合本したものなど、いろいろの形で時事新報社から刊行せられた」
とあって、両合本の出版年が示されていないのである。
先にも述べたように、福沢存命中に『尊王論』が多くの読者をもっていたとは思われない。世の注目を浴びた形跡はまったくないのである。言及の調査を『帝室論』にまで広げても、同時代的資料として重要な『福沢諭吉研究資料集成同時編』(1998年10月・大空社刊)の第二巻と第三巻に収められた1882年以降1901年までの福沢に関する論説107編に、『帝室論』と『尊王論』を批評したものはない。要するに、社説抜き刷りとして出版された両書は、出版された1882年や1888年の同時代人にさえも、ほとんど読まれていなかったらしいのだ。「福沢の帝室に関する二大論説として世の注目するところとなり」という富田の言明は、石河の話をそのまま鵜呑みにして書かれたものだったのではなかろうか。
今日では福沢に『尊王論』があることは知られている。その理由は、第2次世界大戦後の福沢批判者たちが、福沢の「転向」を証する著作としてそのタイトルを積極的に紹介したからである。彼らの批判の元となっている記述は、『福沢諭吉伝』第3巻第34編「時事新報」第2「帝室論と尊王論」にある。
我皇室を政治社外の高所に仰ぎ、飽くまでも其尊厳神聖を維持し、日本国民をして子孫後世に至るまで広大無辺の聖徳に依頼奉らしめんとするは、先生の持論であつて、「帝室論」並に「尊王論」の所説は専ら此精神から発したものである。(162頁)
これだけを読むと、まるで1880年代以降の福沢の尊王思想を誰もが知っているかのような書きぶりであるが、1932年当時の多くの読者にとって、『帝室論』と『尊王論』は福沢の著作として初めて聞くタイトルであったはずだ。読者にはいぶかしく感じられるであろうことを先取りしてか、石河は畳みかけるように次のように続ける。
帝室の尊厳神聖を維持するため、政治上の問題に付、苟めにも帝室を煩はし奉るべからずとの一義に就ては、官民共に慎重なる注意を欠き、現に国会開設の後に至りても、政府の当局者は議会の反対に対して一再ならず詔勅を奏請し、又一方の議会に於ても帝室に向つて政府弾劾の上奏を企つるなど、往々不謹慎の態度に出づることもあつたので、先生は其度毎に「時事新報」に於て大に其不心得を戒められた。(162頁)
すなわち、一般に『尊王論』での主張が十分に伝わらなかったため、福沢は、帝室の尊厳神聖を冒すような議会や政府の動きがあった場合には、同様の主張をその都度『時事新報』の社説に書いた、とのことだが、その内容にあてはまる論説は大正版には採録されていない。
そこで範囲を昭和版にまで広げると、政府当局からの詔勅の奏請とは、「勅命を煩はすなかれ」(1891年04月29日)、議会の政府弾劾の上奏については、「上奏不可」(1893年01月20日)、「上奏案に対する伊藤総理の演説」(1893年02月8日)、「勅命を煩はし奉る可らず」(1893年03月25日)などが散見される。いずれも石河が執筆したものである。
もとより帝室を政治社外に置くべきだ、というのは福沢の持論であるとはいえ、それらの社説をとくに石河に書かせたのかどうかは判然としない。1891年から93年にかけての書簡に、詔勅が政治利用されることへの懸念が表明されているものはないようである。
たとえば、第4議会において衆議院から内閣弾劾上奏案が出されたのは1893年01月23日であった。その動きを牽制するためか、「上奏不可」は提案3日前に掲載されているのであるが、未だ停会中であった02月02日付中村貞吉宛書簡(1748)には、
「国会は十五日(間)停会、御蔭を以て新聞社はらくに相成候。七日より再会、如何可相成哉、元老内閣も頓と役に立たず、気の毒なる事に候。商売社会の変動、相場所の大合戦、中々賑やかなる事なり」(『書簡集』第7巻223頁)
とあって、その原因となった政府弾劾上奏案についてまったく触れていないのである。言及されていないからといって関心がなかったという証拠にはならないのだが、書簡の記述からは、伝記にある石河の言葉を裏付けることはできないのである。
今までは、石河による『福沢諭吉伝』の記述と昭和版『続福沢全集』所収の論説、さらにそれらの確実性を保証する富田の現行版『福沢諭吉全集』「後記」での解説を正しいものとしていたから、『尊王論』後の署名著作や書簡に、<帝室の尊厳神聖>について触れたものが見あたらないことにうかつにも気づかなかったのである。
福沢自身にとってさほど重要な問題ではなかったらしい、<帝室の尊厳神聖>を主題とする『尊王論』を、なぜわざわざ出版したのか、については、拙著にも書いた、「石河を懐柔するため」という理由が、事態の進展から見てやはりもっとも有力であると思う。その場合、先にも触れたように、1888年10月23日に福沢と石河・渡辺の間にあった「多少之論談」とは何かが焦点となるが、そのことについてはまた後に述べる。
ここで問題となるのは、『尊王論』の奥付にある日付である。富田によれば、そこには「明治二十一年十月二十二日刷成(改行)明治二十一年十月二十三日出版」(現行版『全集』第6巻593頁)とあるという。石河との和解が10月23日なら、同じ日に出版されているのはおかしい。本当にその日に出版されたのなら、準備はそれより前に始まっていなければならない。出版があらかじめ決まっていたとしたら、石河懐柔のための奥の手にはなりえない。
そこで『時事新報』の紙面にあたってみると、『尊王論』の広告は10月中にはなく、11月13日から11月25日までの11月23日を除く12日間掲載されていることが分かった。出版が10月23日であったとしたら、20日も経ってから広告を載せたことになる。これは奥付に過去の日付が印刷されていた、ということを意味するのではなかろうか。
さて、10月29日に書いた石河を慰撫する書簡(1326)後の福沢の頭の中は、帰国する2人の息子たちのことで一杯である。10月31日付益田英次宛書簡(1327)から12月21日付黒川正宛書簡(1354)まで、福沢兄弟に触れていない手紙はほとんどない。
一太郎・捨次郎は、石河をねぎらう手紙が書かれて04日後の11月02日午前6時に神戸港に到着し、慶応義塾同窓会の歓迎を受けた。中上川は神戸に本社があった山陽鉄道の経営に携わっていたので、そこで彼らを出迎え、2人の様子を電報で福沢に伝えた。03日早朝に神戸を出航した船は、04日午前11時に福沢らが待ち受ける横浜港に着いた。横浜停車場(現在の桜木町駅)12時15分発の鉄道に乗った一行が品川停車場に到着したのは、午後1時のことであった。
大切な長男と次男が5年半もの海外留学を終えて無事帰国したからとはいえ、それから1ヶ月ほどの間の福沢のはしゃぎぶりは相当なものである。ニューヨークに駐在していた森村豊ら3人の弟子たちに宛てた11月06日付書簡(1331)には、「離居六年、父母四男五女一孫、久々之談笑、誠に悦はしく存候」(『書簡集』第6巻68頁)とある。
また、11月26日付福沢桃介宛書簡(1347)には、
「一太郎捨次郎帰朝に付、本月十二日塾の運動場にて学生の数凡千百名計り、青天井にテーブルを並べて酒肴を供し、又昨二十五日には拙者の旧友並に旧塾生の先輩凡男女五百名ばかりを招待し園遊会を催し、丁度最上の天気にて一同歓を尽し退散致し(候)。委細は新聞紙上にあるべし」 (80頁)
とあって、本来は私事たるその園遊会について、その日の紙面で大々的な報道がなされている。
この園遊会が何を目的としていたかは、もはや明らかであろう。帰朝した時、一太郎は26歳、捨次郎は24歳であった。要は後継者のお披露目である。出席者の主たる関心は、長男・次男のどちらが時事新報社を引き継ぐのか、ということであったのではなかろうか。
福沢の考えとしては、時事新報社を一太郎に継がせ、MITで土木工学を学んできた捨次郎には鉄道関係の仕事に携わることを望んでいたようだ。実際にも一太郎は翌89年02月に正式に時事新報社に入社し、捨次郎は同年06月に中上川のいる神戸の山陽鉄道に入っている。この時点で新聞社の後継は一太郎で決まり、と誰もが思ったはずであ る。
このような後の経過に注意しつつ、福沢兄弟帰国直前の88年10月23日になされた「多少之論談」についてもう一度考えてみるなら、事態の収拾は、『尊王論』の刊行というその場限りの弥縫策によってのみ図られたのではなく、それをシンボルとする、より大きな取り決めによってなされたという推測が成り立つのである。
先に引いた書簡を読むと、石河・渡辺の要求について、福沢が決して譲れない点と、譲ってもよいと考えていた点があることが分かる。まず譲れないのは、
- (1)
- 『時事新報』を大衆新聞化すること
- (2)
- 総編集伊藤欽亮を罷免すること
- (3)
- 石河・渡辺のいずれかを正式な主筆とすること
の3点である。譲ってもよいと考えていたのは、
- (1)
- 社説記者の意見を尊重すること
- (2)
- 社説記者の待遇を引き上げること
- (3)
- 福沢兄弟の帰国によっても、それまで働いてきた社説記者を排除したりはしないと確約すること
の3点である。10月22日付書簡(Ⅴ)にある、「老生唯今之考には、渡石輩をして騎虎の勢に至らしめず、程好く、まのわるくないやうに致す積り」、とはおおよそこれくらいのことと考えるのが妥当であろう。
石河は福沢の提案を受け入れ、渡辺はおそらく帰順しなかった。そこで福沢は褒美として石河が下書きを担当した『尊王論』の刊行を許し、完成後、その上製本を作って石河に贈った、というのが私の推測である。10月23日が出版日として選ばれたのは、和解が成立した日という意味が込められてたのではなかろうか。
なお、この上製本が、「献上でもするために特別に製本したものであるかも知れない」(現行版『全集』第6巻594頁)というのは富田の解釈にすぎない。したがって、安川の「それ(『尊王論』)を豪華上製本にまで仕立てて「人の上の人」に献上した」という言明には何らの根拠もないのである。
思想信条が異なり、つまらない文章しか書けない石河といえども、福沢にはもう1つ、相当な譲歩をしてでも留まってもらわねばならない理由があった。それは、石河を排除すると後継に据えようとしている一太郎の後見役がいなくなってしまう、ということであった。10月23日の論談において、石河は、帰国する福沢兄弟のいずれが新聞社を継ぐにせよ、万難を排してその子息を守護する任を果たすつもりである、という約束をしたのではなかろうか。これは推測ではあるが相当の蓋然性がある。
石河はクーデタ騒動で総編集伊藤の排斥を試みたのである。矛を収めたとて人間の感情として伊藤の面白かろうはずもない。石河は自らの身を守るためにも、一太郎を掌中の珠とする必要があった。そして、福沢としても石河が息子の守護者であるかぎり、石河の増長に目を瞑るようになったのではないか。実際にも、1888年10月22日の書簡を最後に、石河を貶すような手紙は書かれなくなるのである。
結局新聞社の後継は紆余曲折の末次男の捨次郎に決まり、1896年の末には伊藤も編集部を辞めることになるが、それはまた別の物語である。捨次郎の社長就任によって一太郎は新聞社から慶應義塾へと移るのであるが、それまでに石河から受けた親切を生涯忘れなかったようである。富田は『福沢諭吉伝』の巻末に付せられた「本書の編纂に就て」において次のように述べている。
独り終始一貫筆硯を以て福沢先生の座右に侍し其人格思想に親炙薫染したのは、実に本書の著者石河幹明その人であつて、曾て先生の長男、現慶應義塾社頭、福沢一太郎氏は、或席上に於て、「其思想文章ともに父の衣鉢を伝ふるものは独り石河氏あるのみにして、文に於て氏を見ること猶ほ父のごとし」といはれたことがあると聞いた。(第4巻836頁)
福沢兄弟が、自分たちの帰国直前に時事新報社内で起こったクーデタ騒動について、知らなかったはずはない。とはいえ彼らにとって石河が好都合であったのは、社説にかんして石河の自由裁量を認める限り、けっして彼らの地位を脅かすことはなく、かえって自分たちを守ってくれる、というその性格についてではなかったろうか。