福澤諭吉の西洋理解と「脱亜論」

last updated: 2015-03-12

このテキストについて

小泉仰監修西洋思想受容研究会編『西洋思想の日本的展開-福澤諭吉からジョン・ロールズまで』慶應義塾大学出版会、2002 年、34-53 頁所収の平山洋「福澤諭吉の西洋理解と「脱亜論」」を転載します。 転載にあたり、当ウェブサイト管理人が、文章の一部に手を加えました。 変更点は、次の通りです。

  • ウェブ・ページへのリンクを生成しました。
  • 各注釈、文献への内部リンクを生成しました。
  • 適宜、blockquote を使用しました。

なお本論文には韓国語訳(著者未承認)があります。

本文

福沢諭吉の対清国・朝鮮観に関する研究は第 2 次世界大戦後まず遠山茂樹(1951)服部之総(1952)によって開始された。とはいえ現在にいたるまでしばしば引用される研究上の基準となっているのは丸山真男(1952)である。そこで丸山は福沢の対清国・朝鮮政策論は 3 つの段階を経て変化したと述べている。すなわち、アジアとの「連帯」を求め「共に独立を確保」しようとした 1870 年代まで、欧米からの侵略に対する「日本の武力による「近代化」の押売り」を行うべきだとの主張をした 80 年代、さらに「列強の中国分割への割り込みの要求」として積極的にアジアへの「侵略」を提唱した 90 年代の 3 段階である。この段階説ともいうべき丸山の考えは、その後の研究に大きな影響を与えた。この丸山説に対して坂野潤治(1982)は福沢の諸論文を年代順に検討し、事実としては段階的に意見を変化させているとはいえないと主張した。すなわち福沢は、軍備に関して最強の欧米、次なる大国の清国、さらに強兵化しつつある日本、最後に弱小国朝鮮という順の軍事力の不均衡を前提としていたのである。そしてたとえば「欧米対清国」をテーマとするときには巨視的に《欧米に比して弱い清国は文明化の失敗例であるので日本はその轍を踏んではならない》という脱亜観を表明し、「清国対日本」のときには微視的に《清国は大国として日本に脅威を与えているので国権を強化しなければならない》とし、さらに「日本対朝鮮」のときには《文明化に成功しつつある日本は朝鮮の内政を指導しなければならない》という主張をなしたのであって、時期による変化よりも論ずる対象による態度の差に注目するのが適当である、という結論を導いた。この坂野説は近年では多くの研究者の支持を広げている。論者もまた福沢の清国観と朝鮮観の「温度差」とでもいうべきものについては坂野説が有効であると考える。

とはいえ本論において論者が試みるのは東アジア諸国を中心とする福沢の対外観を時期や対象によって分類することではない。そうではなくて福沢がもっていた対外観と彼が身につけていた西洋文明の理解との関係はどのようなものであったのか、そして巷間にはあまりに有名な 1885 年 3 月の「脱亜論」へと至る諸論文にしばしば見られる「蔑視」とも捉えられかねない清国・朝鮮観が果たして単なる偏見にすぎないのかどうか、それらを確かめることである。

そこで議論の手順は以下の通りである。まず第 1 節では福沢が西洋文明をそもそもどのように捉えていたのか、すなわち福沢の西洋理解の根底にあるものは何か、ということについて考察する。ついで第 2 節では対アジア観を考えるにあたって今日では清国・朝鮮蔑視の代表的論文とされている「脱亜論」の内容を紹介する。さらに第 3 節では、その「脱亜論」の真意を捉えるため、1880 年代の福沢をとりまく状況と彼自身の朝鮮独立党との関わりを記述し、最後の第 4 節では福沢が何を批判の対象としていたのかを明らかにする。

1 .福沢の西洋理解

松沢弘陽は、『文明論之概略』を主たる考察対象とした論文において、福沢の文明論はたんに日本への西洋文明の移入を志したのではなく、むしろそれに「心酔」したがゆえにその文明の受容や自由貿易を安易に賛美する者に激しい批判を浴びせた、ということを指摘し、次のような総括をしている。

「福沢はその同時代から、西洋社会理論受容の旗がしらと目されてきた。たしかに同時代の知識人の中で、彼の西洋社会理論の理解の深さは群を抜いている。しかし、福沢がそれと同時に、西洋の社会理論が日本に受容された時にふるった、内面支配・同化への圧力とその問題性をいち早く感じ取り、そこから思想的に独立する志向を示していたことは、今日まで注目されることが少なかったように思われる」松沢、1981、p380)

野心的な西洋諸国が自由貿易や社会制度を押しつけるとしても、その真の意図が「文明の移入」にあるのかそれとも「国益の拡大」にあるのかは、よほど注意してかからなければ判断はつかない。福沢が恐れていたのは、1840 年代の清国、50 年代のインド、60 年代の日本、また 70 年代のベトナムでまさに起きつつあった、西洋文明に無防備なアジアの国々とイギリスやフランスとの軍事衝突が再現することであった。福沢の著述の眼目は『文明論之概略』にもある「日本には政府ありて国民(ネーション)なし」(福沢、1875、p154)という現状を打破することで、西洋社会の理論は国民国家の創造のために活用されるのでなければならないのである。西洋の社会理論の導入には熱心であった福沢が、それによる内面支配に反対の立場をとったことは十分な整合性を備えているといえる。

さらに、国民国家について考察する場合に重要な点として、福沢が守ろうとした日本の国体とは天皇制のことではなく日本人による政府を意味しているにすぎない、ということにも注意を向けるべきである。もとよりその場合の政府とは国民の知的水準や生活の質の向上に義務を負ってもいて、国民との契約が不履行となったときには速やかに政権交替が必要とされる。福沢は西洋の社会思想、とりわけフランスの思想家トクヴィルから社会契約説を学び、それに心酔したことによって、かえってそこから西欧諸国による自国下層階級や植民地原住民への過酷な処遇といった現実に目を開かれ、ついには西洋文明そのものをも批判しうる視点を得たのだと考えられる。

このようによくあるイメージとは異なって実際の福沢は西洋文明を受容しつつ西洋諸国からの圧力をはねつけようとしたのであったが、いっぽうで「西洋礼賛者」という貼られがちなレッテルにも根拠がないわけではない。彼が西洋の文明を全体として批評しているのは、ヨーロッパ旅行から戻って間もない 1866 年の『西洋事情』から 1875 年の『文明論之概略』までの期間に限られる。わけても西洋礼賛者というイメージは『文明論之概略』の第 2 章「西洋の文明を目的とする事」によって決定づけられたといってよい。以下ではこの第 2 章と、それに引き続いて文明自体の定義を行っている第 3 章「文明の本旨を論ず」について扱うことで福沢のいう目的としての西洋文明とは何かについて考えてみたい。

第 2 章の冒頭で福沢は文明の発展の度合いは相対的なものであるとする。そしてまず、活発な気風をもち旧習に拘泥しない人々が工業や商業を盛んにしているヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国を最上の文明国と呼ぶ。ついで、農業は発展しているものの政治制度には不備が多く、また、古い習慣が残存しているため進取の気性に乏しいトルコ・清国・日本などのアジア諸国を半開の国とする。さらに、定住性がなく食糧の獲得が偶然によって左右されてしまうアフリカやオーストラリアなどを野蛮の国と称している。ここで福沢のいう文明とは主に精神の発達のことであって、その条件に蒸気機関や鉄道・電信などのいわゆる物質文明を必須としていないということは重要である。そのため物質的に豊かな西洋の文明にも欠陥はあるのであって、たとえば

「西洋諸国を文明と云ふと雖ども、正しく今の世界に在てこの名を下だす可きのみ。細にこれを論ずれば足らざるもの甚だ多し。戦争は世界無上の禍なれども、西洋諸国常に戦争を事とせり。盗賊殺人は人間の一大悪事なれども、西洋諸国にて物を盗む者あり人を殺す者あり。国内に党与を結て権を争ふ者あり、権を失ふて不平を唱る者あり。況や其外国交際の法の如きは、権謀術数至らざる所なしと云ふも可なり。唯一般に之を見渡して善勢に趣くの勢あるのみにて、決して今の有様を見て直に之を至善と云ふ可らず」(福沢、1875、p18)

ということになるのである。

また福沢はアメリカを全体として大いに評価しているのであるが、同時にその政治制度については、

「合衆国の政治は独立の人民其気力を逞ふし、思ひのまゝに定めたるものなれば、其気風純精無雑にして、真に人類の止る可き所に止り、安楽国土の真境を摸し出したるが如くなる可き筈なるに、今日に至て事実を見れば決して然らず。合衆政治は人民合衆して暴を行ふ可し、其暴行の寛厳は立君独裁の暴行に異ならずと雖ども、唯一人の意に出るものと衆人の手に成るものと其趣を異にするのみ」(p46)

と、またその国民性についても、

「合衆国の風俗は簡易を貴ぶと云へり。簡易は固より人間の美事なりと雖ども、世人簡易を悦べば簡易を装ふて世に佞する者あり、簡易を仮て人を嚇する者あり。猶かの田舎児が朴訥を以て人を欺くが如し」(p47)

などと批判している。現実には多くの欠点があるにもかかわらずあえて西洋の文明を目的とすると唱えたのは、『文明論之概略』がこれからの日本の文明化に寄与すべき人々を読者として想定していて、具体的な目に見える目標を指し示す必要があったためであろう。こうした章が設けられているために彼もまた凡百の欧化論者と一緒にされてしまうことがあるが、そこにある西洋批判は現実の欧米をじかに見聞したもののみが持ち得る説得力を有している。

このように福沢は西洋文明のもつ欠点を正確に捉えているからこそ、それによる内面支配を憂えたのであるが、それは逆に西洋の文明を目的とすることそのものの意味を曖昧にしてしまうのには、自身も気づいていたのであった。すなわち彼は次のようにも述べている。

「西洋諸国の文明は以て満足するに足らず。然ば則ちこれを捨てゝ採らざる乎。これを採らざるときは何れの地位に居て安んずる乎。半開も安んず可き地位に非ず。況んや野蛮の地位に於てをや。此二の地位を棄れば別に又帰する所を求めざる可らず。今より数千百年の後を期して彼の太平安楽の極度を待たんとするも、唯是れ人の想像のみ」(福沢、1875、p18)

結局のところ実現可能なのははるか遠い未来にありうる理想の世界ではなく、現実の国にあって文明の発達にめどをつけることなのであるから、

「今世界中の諸国に於て、仮令ひ其有様は野蛮なるも或は半開なるも、苟も一国文明の進歩を謀るものは欧羅巴の文明を目的として議論の本位を定め、この本位に拠て事物の利害得失を談ぜざる可らず」(p19)

ということになるのである。要するに西洋の文明を目的とするというのは、現実世界の目に見える目標点としてなのであって、究極の目的としてではない。そうであるとすると、《現実の西洋文明を過程的目的とする文明の真の目的とはどのようなものか》という問題が生ずる。

そもそも文明とは何かをテーマとする第 3 章「文明の本旨を論ず」の冒頭で、福沢は《文明は広い概念であるため一言で言い尽くすことはできない》としつつ、考えの手がかりとするために現実世界の人々を 4 つのあり方に分類している。まず第 1 は、松前藩に支配されていたアイヌ人のように、軽い租税と少ない力役によって生活は安楽で裁判も処罰も適正に行われるものの、智徳の育成を制限しているような社会である。第 2 は、アジア諸国に見られるような、智徳の向上にこそある程度の配慮がなされているとはいえ、政府の厳格な宗教的統制によって自由で活発な諸活動は見られない社会である。第 3 は、近代以前のヨーロッパのように、自由はあるが統制のまったくとれていない、暴力が支配する社会である。第 4 は、野蛮人の暮らしのようなもので、各人は平等ではあるが社会を構成することができず、世代を経ても何らの進歩も見られないあり方のことである。福沢はこれら 4 つの状態を「一もこれを文明と称す可きものなし」(福沢、1875、p41)と退け、それに続けて枝葉末節を取り去った《文明そのもの》の定義を行っている。

「然ば則ち何事を指して文明と名るや。云く、文明とは人の身を安楽にして心を高尚にするを云ふなり、衣食を饒にして人品を貴くするを云ふなり」(p41)

さらに福沢は、物質的な豊かさのみが文明というわけではないし、また心の高尚のみがそれに価するわけでもない、として両者ともの進歩を全体として文明と呼ぶのだとしている。

「人の安楽には限ある可らず、人心の品位にも亦極度ある可らず。其安楽と云ひ高尚と云ふものは、正に其進歩する時の有様を指して名けたるものなれば、文明とは人の安楽と品位との進歩を云ふなり。又この人の安楽と品位とを得せしむるものは人の智徳なるが故に、文明とは結局、人の智徳の進歩と云て可なり」(p41)

人間の知性と道徳性が進歩して行けばそれにともなって物質的な豊かさや精神の高尚さも高められて行く、そうした進歩の総体が文明なのである。したがって西洋の文明《だから》目的とするわけではなくて、それが人間の智徳の進歩の道筋にあって半開の国々よりも先行しているがゆえにとりあえずの目標としなければならないのである。

このように福沢は西洋文明のめざす方向が智徳の進歩であることをはっきりと捉え、現実の西洋はその過程にあって欠陥も多々ある、という客観化を行っている。西洋文明に対するこうした明確な位置づけは、他の明治期の思想家には見られないものである。福沢としては、現実の西洋にどのような欠点があろうとも、『西洋事情』に文明の政治の条件として引用した、

「自主任意 国法寛にして人を束縛せず、人々自から其所好を為し、士を好むものは士となり、農を好むものは農となり、士農工商の間に少しも区別を立てず、固より門閥を論ずることなく、朝廷の位を以て人を軽蔑せず、上下貴賎各々其所を得て、毫も他人の自由を妨げずして、天稟の才力を伸べしむるを趣旨とす。但し貴賎の別は、公務に当て朝廷の位を尊ぶのみ。其他は四民の別なく、字を知り理を弁じ心を労するものを君子として之を重んじ、文字を知らずして力役するものを小人とするのみ」福沢、1866、p290)

といった部分だけは絶対的に否定できない究極の価値として感ぜられたにちがいない。またこの根底ともいうべき部分があってこそ、それを基準にして当の西洋文明そのものをも批判することができたのである。福沢が《惑溺》を批判するときに、その根拠となっているのは、素朴な進歩への信頼と、なにものにもよらない人間のごくまっとうな批判能力であることは疑うことができない。このことは、迷信を打破し、国民全体が安楽で品位を保てるような国づくりをするために必要なのは、実質的にそれに寄与できるような学問、すなわち実学であるとする福沢の学問観とも一致している。また、『西洋事情』など海外見聞記において建築物や工業機械、鉄道などいわゆる物質的文明にほとんど関心を示さなかったこととも整合している。

彼の興味の中心は西洋諸国の人々の考え方、そしてその延長上にある経済や政治などのさまざまな制度にあった。おそらく福沢は生産システムを導入しさえすれば物質文明を日本へもたらすことは容易であると考えたのだ。しかし、西洋の文明の端緒にある、ものの考え方の根底、すなわち身体や思想の自由や向上心の尊重また個人を守るものとしての国民国家の概念を移入するのは難しいと感じたのであろう。そこで自ら《それだけは正しい》と評価した西洋の思想の核心をいかに日本に移入するかが、その後の福沢の思索の目的となったのである。彼の思想を支えるこれらの西洋文明の中心的部分への評価は、生涯いささかも変化することはなかった。一見するとぶれ幅が大きいように感ぜられる福沢の諸論文も、この自由を重んじる風と個人の理性に究極の根拠をおくという点において一貫している。それは『学問のすすめ』や『文明論之概略』はもとより、のちに扱う「脱亜論」やさらには 1885 年 8 月の「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」であろうと同様なのである。すなわち西洋を批判したのと同じ目で東洋の半開の国々の評価もおこなったということだ。詳しくは次節以降で述べたい。

2 .「脱亜論」とは何か

しばしば誤解を受けがちなことであるが、「脱亜論」は福沢の思想の中心にあるものでも、対外観を示す文献として重要な位置を占めるべきものでもない。「脱亜論」の今日における名声(?)は 2 つの意味において不当である。

不当性の第 1 は「脱亜論」の影響力に関する過大な評価である。それが新聞『時事新報』の社説として発表されたことはよく知られているが、その時点では福沢の作とは認識されていなかった、ということに今永清二(1975)ら多くの研究者の目は向けられていない。「脱亜論」は 1885 年 3 月 16 日付紙面に無記名で発表された一評論にすぎず、その朝新聞を開いた多くの読者は、甲申事変に関して朝鮮政府中央から親日派が追放されたことに『時事新報』編集部が失望感をあらわにしたものである、としか思わなかったはずである。福沢自身にも自分の論説であるという認識はなかったらしく、生前に刊行された 1898 年の『福沢全集』には収められてはいない。さらに 1926 年に編まれた『全集』にも見あたらず、結局初出から約半世紀後の 1933、4 年刊行の『続全集』になってはじめて福沢の手になるものであることが示された。すなわち「脱亜論」は『続全集』編纂の過程で福沢面受の弟子にして『時事新報』編集部員でもあった石河幹明が創刊以来の同紙の評論を丁寧に読み返すことがなかったならば、今日もなお埋もれたまままであったかもしれないのである。論者の調査によれば「脱亜論」に初めて言及しているのは遠山(1951)である。さらに 1951、2 年の旧『福沢諭吉選集』の選には洩れているところを見れば、それが有名になったのは戦後 8 年よりもさらに近い時期ということになる。(註 1)それほどのものにすぎないのであるから、福沢存命中に「脱亜論」が注目された形跡はまったくない。そればかりでなく、1880 年代以降の福沢の思想が 1945 年までの日本の対アジア政策に影響を与えることなどありえようはずもなかった。なぜなら、西南戦争の前まであれほどもてはやされていた福沢も、徳富蘇峰・馬場辰猪・沼間守一ら「明治の青年」である若手の論客が育っていく過程で政治思想の提言としては次第に重要視されなくなっていたからである。1885 年 3 月 16 日の朝にたまたま『時事新報』を読んだ人の目にしか触れていなかった「脱亜論」を、近代日本の対アジア政策に影響を与えた評論として現代の高校の社会科教科書に載せようとするほどばかげたことはないであろう。「脱亜論」が注目されるようになったのは、戦後丸山らによって再評価された福沢をいわばおとしめる目的でなされた、《『学問のすすめ』の著者ですらもこのような露骨なアジア侵略の言動をなしていた》というネガティブキャンペーンの結果によるとみてよい。

不当性の第 2 は「脱亜論」をアジア蔑視の侵略論とする一般的な解釈そのものについてである。『学問のすすめ』と『文明論之概略』で輝くばかりの独立自尊の精神と真の愛国心を融合させた福沢が、西南戦争の後には『時事新報』において朝鮮への露骨な政治干渉を提唱したことに一種の齟齬があることは事実である。第 2 次世界大戦後のいわゆる左派陣営はもとより、福沢の思想の祖述者といってよい丸山でさえ、前 2 著と新聞論説との間に解決できない矛盾が横たわっていることを認めている。要するに、《自国の独立は何より大切だと説きながら他国の内政に介入するのは身勝手ではないか》ということである。論者もそう思う。(註 2)ただ福沢にとって弁解の余地はある。すなわち現代の価値観を無条件に前世紀にあてはめることはできないということであり、また日本がアジアへの侵略を始める前に書かれた『時事新報』の諸論文を虚心坦懐に読むならば、前 2 著との間に大きな落差を認めない解釈もありうるということである。とりわけ「脱亜論」は日清戦争に先立つほぼ 10 年前に書かれたものであって、そこには清国に対する勝利に驚喜する福沢の姿はない。その詳細は次に記すが、この「脱亜論」が福沢の思想においてさほど重要なものではないとはいえ、日清戦争までの彼のアジア観を考察するにあたっての基準となりうる条件は備えている。そしてその論を当時の時代背景において読むならば、それはアジアを蔑視する侵略論とはいえないばかりか、むしろ『文明論之概略』の正確な延長上にあると思われるのである。以下このことをめぐって論を進めたい。

先にも記したように「脱亜論」は 1884 年 12 月 4 日にソウルで起こった朝鮮独立党のクーデターが失敗し、金玉均や朴泳孝ら独立党の主要なメンバーが日本に亡命する中、翌年 3 月に書かれた。400 字詰原稿用紙にして約 6 枚の短い文章である。その冒頭で福沢は述べる。

「世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖ども、其挙動の古に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為に謀るに、此文明東漸の勢に激して之を防ぎ了る可きの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与にするの外ある可らざるなり」福沢、1885B、p238)

すなわち西洋文明を完全に防ぐ自信をもつことができないアジアの国々は自ら進んでそれを導入する以外に存続することは不可能だというのである。この見解が『学問のすすめ』以来の福沢の一貫したテーゼであることは誰しも認めることであろう。もちろんその成功例はわが日本なのであって、福沢は、倒幕の指導者層が皇室の神聖さを助けに借りつつ、

「断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全州の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在る」(p239)

とするまでになった、と述べている。

そして福沢の筆は次にその抗し難い流れに逆らっている 2 つの国を批判することに向かう。

「我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ」(p239)

その後に福沢による清国と朝鮮の現状の分析が続いている。この 2 つの国とも古来からのアジアの風習に基づいていることは日本と同じであるが、両国とも保守的で進歩の方法を知らないようである。交通が便利になった時代であるのに西洋の文明を受け入れようともせずに古風旧慣に恋々としている。教育については儒教主義を堅持して虚飾のみを重要視する。また実際については真理や原則を見抜く力もなく、道徳さえ残酷破廉恥を極めているのに、なお傲然として自省の念さえないようだ。

「我輩を以て此二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚も其独立を維持するの道ある可らず。……今より数年を出でずして亡国と為り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑あることなし」(p239)

さらに福沢は、日本だけは文明を受け入れた国であるのに清国と朝鮮と地理的に近いということで西洋諸国から同一視されるのは迷惑であるとして、次のような実例を挙げている。

「例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科挙の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計るれば枚挙に遑あらず」(p240)

このような批判をひとしきり述べたのち、有名な結論部に移るのである。すなわち

「今日の謀りを為すに、我国は臨国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するのみ」(p240)

と。

よくもまあ、近隣諸国の批判を遠慮もなく吐露したものだ、という感想はある意味で当然である。これだけを見れば福沢はアジアに対してひどい偏見をもっていた人物であるということになろう。しかし、先にも述べたように「脱亜論」は、1884 年から翌年にかけての政治状況に対応しているのであって、清国・朝鮮をただやみくもに批判しているのではない、ということに注意しなければならない。そのことを知らなければ「脱亜論」の真意を見抜くことなどできないのである。その政治状況とはここまでもいくらかは触れてきた福沢がそれまで支援してきた朝鮮独立党の甲申事変における敗北である。そこで次に 1885 年にいたる朝鮮と福沢の関わりについて述べることから「脱亜論」の真実に迫りたい。

3 .状況においての「脱亜論」

近世において比較的良好であった日朝関係は、明治政府のとった対朝鮮強硬策によって不幸なものとなった。それまで厳しい鎖国政策をとっていた大院君が失脚したのに乗じて、新たに政権の座についた閔氏一族が指導する新政府に対し、日本は武力によって開国を迫ったのである。その結果として 1876 年 2 月、朝鮮には不利な日朝修好条規が締結されたのであったが、その後李朝は日本に使節・留学生・視察団を派遣することになったのである。それまで朝鮮国内では西洋の学問は厳しく禁止されていたから、留学生たちはその知識を日本のとりわけ慶応義塾に求めたのであった。1880 年、第 2 回修信使として来日した金弘集らに面会した福沢は 20 年前にロンドンを訪問した自らの姿を重ね合わせて、彼らを励ましている。さらに翌年の紳士遊覧団が来日した折に一行の兪吉濬と柳正秀を慶応義塾の留学生に迎えたときのことを、英国に滞在していた小泉信吉と日原昌造にあてた 6 月 17 日付書簡に次のように書いている。

「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察の為渡来、其中壮年二名本塾に入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置、やさしく誘導致し遣居候。誠に二十余年前自分の事を思へば同情相憐むの念なきを不得、朝鮮人が外国留学の頭初、本塾も亦外人を入るゝの発端、実に奇偶と可申、右を御縁として朝鮮人は貴賎となく毎度拙宅へ来訪、其咄を聞けば、他なし、三十年前の日本なり。何卒今後は良く付合開らける様に致度事に御座候」福沢、1881、p454)

こうした心情に嘘偽りはなかった。『学問のすすめ』の主張に鼓舞されるような志ある人々は福沢の郷里中津ばかりではなく日本全国に、そして日本だけではなく朝鮮にもいるはずであって、そうした若者を福沢は対等に扱ったのである。

1882 年 7 月、朝鮮では開国後の近代化政策に不満をもつ軍隊の反乱事件が起こった。最初の峰起は辛くも鎮圧されたが、その首謀者の処刑をめぐって彼らに同情的な一般民衆の助命運動が大規模な暴動に発展してしまったのである。暴徒は閔氏政権を支援していた日本公館を焼き討ちしたうえ、王宮に乱入して閔氏の高級官僚を殺害したのち大院君を迎えて新政権の樹立を宣言したのであった。帰国した花房義質公使から報告を受けた日本政府は、居留民保護と朝鮮政府に軍乱の責任を問うために艦艇と陸軍部隊を朝鮮に派遣した。花房公使は日本軍とともにソウルに入り王宮で国王高宗に謁見、正式な謝罪と責任者の処罰および損害賠償を要求し、いっぽう清国もまた閔氏政権の要請を受けて軍隊を出動させ、大院君を捕らえて天津へ連行し暴徒を鎮圧したのである。8 月末、清国に支持された朝鮮の閔妃政権と日本の間に軍乱首謀者の処罰と日本への賠償金などを取り決めた済物浦条約が結ばれた。

この壬午軍乱の鎮圧において清国が中心的役割を果たしたため、閔氏政権は清に従属する立場をとらざるをえなくなった。大院君が除かれたことは朝鮮の近代化にとって好ましい結果をもたらすはずであったが、清国軍がソウルに進駐することになったため、日本を範として近代化を推進しようとする金玉均・朴泳孝・徐光範ら独立党の活動は制限されることになり、そのことが 1884 年 12 月に起こる甲申事変の遠因となったのである。すなわちそのままでは清国の属国となってしまうことに危機感をもった金らは、日本公使館との連携によって閔氏政権の転覆を謀ろうとしたのである。クーデターは 12 月 4 日の郵政局開局の祝宴に政府要人が集まることを狙って実行に移された。計画ではまず郵政局近くの安国洞の別宮に放火し、混乱に乗じて王宮を占拠して新政権を樹立するというものであった。ところが実際にはソウル駐在の清国軍が介入したため閔氏政権の転覆は失敗し、金・朴らは日本への政治亡命を余儀なくされたのである。

国内での自由民権運動には直接の支援を行わなかった福沢であったが、朝鮮独立党の閔氏政権転覆の計画については早い段階から関与していた。それというのも金玉均は 1882 年に来日して福沢と面会し、朝鮮の近代化のために慶応義塾の支援を受けようとしたからである。また福沢は済物浦条約による賠償金 50 万円の返済についても井上馨外務卿を紹介し、朝鮮政府への銀行からの融資に便宜を図っている。さらに福沢は日本国内で独立党を助けようとしたばかりではなく、実際に牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎ら門弟を朝鮮に派遣して西洋文明の移入を図ろうとした。そしてその成果として 1883 年 10 月に朝鮮初の新聞『漢城旬報』の発刊にこぎつけた。(註 3)

このように福沢は独立党の活動を注意深く見守っていたので、甲申事変の失敗とその後の独立党関係者の大量処刑に深く胸を痛めたのであった。福沢は『文明論之概略』では平和的政権交替をめざす政治運動家を《報国の士》と規定していたのだから、甲申事変のような明らかな武装峰起を支援したことについて疑問の余地はある。とはいえ独立党の目的は朝鮮国内に混乱を引き起こすことではなく、かえって政権内部の権力の交替にすぎないはずのものであったから、福沢はそれをテロリズムとは考えなかったのであろう。ところが最初の流血に比して事大党の報復はあまりに過酷であった。「脱亜論」掲載の 3 週間ほど前の 1885 年 2 月 26 日には「朝鮮独立党の処刑(後編)」が掲載されている。それは次のように始まっている。

「去年十二月六日(ママ)京城の変乱以後、朝鮮の政権は事大党の手に帰して、政府は恰も支那人の後見を以て存立し、政刑一切陰に陽に支那人の意に出るとのことは、普く世界中の人の知る所ならん。彼の国の大臣にして独立党の名ある朴泳孝、金玉均等の諸士は、兼て国王陛下の信任を得て竊に国事の改革を謀り、一旦事を挙げて失敗し、俗に所謂負けて国賊なるものゝ身と為りて、其生死行方さへ分明ならず、現政府は之を捜索すること甚しき其最中、先づ其党類を処分するとて、本年一月二十八日二十九日の両日を以て大に刑罰を行ひ、金奉均、李喜貝、申重模、李昌奎の四名は、謀反大逆不道の罪を以て死刑に、其父母兄弟妻子は皆絞罪に処す」福沢、1885A、p224)

さらに処刑された人々の氏名を続けたのち、

「壮大の男子を殺すは尚忍ぶ可しとするも、心身柔弱なる婦人女子と白髪半死の老翁老婆を刑場に引出し、東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや」(p225)

と続け、

「我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云はんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は則ち支那人なり」

と書いている。

このようにしてみると、「脱亜論」にある「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」(福沢、1885B、p240)とか「朝鮮国に人を刑するの惨酷あれば」とかいった清国・朝鮮批判は一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申事変の過酷な事後処理に限定されていたということが分かる。こうした時局的な表現を除いてしまえば、「脱亜論」は《半開の国々は西洋文明を取り入れて近代化すべきだ》という『文明論之概略』の主張と少しも変わらない。福沢は、国民国家として独立しかつ自国民の生活水準の向上に勉める国を尊重し、そうはしない国を軽くみる。彼の対外観はその政府が自国民の文明化にどれほど心をくだき、また同時に心身を国に捧げる報国の士がどれほどいるかということによって規定されているのである。金玉均ら朝鮮の独立党を積極的に支援したのも、彼らが真の報国心をもつ有為の人材であり、いっぽう清国に操縦されていた李氏朝鮮王国は打倒されるべき君主専制国家であるとみなしたからに他ならない。彼は「脱亜論」を独立党への大弾圧の悲惨な現実によって低下した西洋諸国からの東アジアの評価が日本にも波及することを恐れて執筆したのであって、考えの中身を変化させたわけではなかったのである。(註 4)それゆえ韓桂玉のように「脱亜論」を、

「先進西欧に習い、近づくためには、これまで交流してきた朝鮮、中国など遅れた国との付合いは迷惑でむしろ支障となるので、これとは絶縁し西欧に目を向けようというアジア蔑視観」(韓、1996、p67)

のあらわれとする考えはあまりに単純である。この表現では福沢がアジア全般を蔑視していたかに聞こえてしまうが、それこそ福沢に対する偏見というものだ。いったい福沢は誰を蔑視していたのであろうか。このことは福沢がめざしていた世界全体と関係する。

4 .支那人・朝鮮人とは誰か

我々は《支那人》とか《朝鮮人》とかいえばたいてい民族全体を指すと考えてしまう。しかしその解釈は福沢に関するかぎり間違っている。彼は《人》あるいは《士人》を指導的立場にある人々の意味で使い、国民一般は《人民》という用語を使って、政権担当者と支配されている一般民衆を分けているのである。だから、《支那人》《朝鮮人》が批判されているからといってそれらの民族が全体として蔑視されているなどと考えるべきではない。具体例を見てみよう。「脱亜論」での《人民》の用例は 1 つだけだが、それは「此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本国民に異ならず」(福沢、1885B、p239)というように、清国・朝鮮と日本の一般民衆の水準はもともと同じである、という意味で使われている。『文明論之概略』には《朝鮮人》の用例がないため《支那人》で検索してみると、「頑陋なる支那人も近来は伝習生徒を西洋に遣りたり」(福沢、1875、p16)、「支那人が俄に兵制を改革せんとして西洋の風に傚ひ」(p20)などと、明らかに国政改革の主体になりうる人々を指している。いっぽう《人民》については、《支那の人民》という用例はないが、たとえば「支那にて周の末世に、諸侯各割拠の勢を成して人民周室あるを知らざること数百年」(p24)とあって、支配層以外を人民と呼んでいるのである。その時々に書かれる時事評論の細部にわたってまで使い分けが貫徹されているとはいえないが、この規範はおおむね福沢全般についてよくあてはまっている。こうした支配層と国民の区別についての顕著な例が 1885 年 8 月 13 日掲載の「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」である。

福沢はアジア蔑視の侵略肯定論者であった、という見方をする人にとっては好都合な評論と思われるにもかかわらず、それが今まで取り上げられることが少なかった(註 5)のは、実際の歴史とは異なってイギリスまたはロシアによる朝鮮支配を想定しているからであろう。そこには《外国が朝鮮を支配するようになったとしても、そのことはむしろ人民にとって幸いである》ということが述べられている。その衝撃的な題名によって『時事新報』は発行停止とされてしまったのであるが、内容は朝鮮蔑視の不当なものということはなく、やはり『文明論之概略』の延長上にある。福沢は述べる。

「抑も天地間に生々する人間の身に最も大切なるものは栄誉と生命と私有と此三つのものにして、爰に一国を立てゝ政府を設るは此三者を保護するが為なり」福沢、1885C、p379)

このことは第 1 節でも扱ったように、福沢がつとに力説していた文明国の政府の条件であった。しかるに事大党支配下の朝鮮ではこの 3 つのうち 1 つとして守られてはいない。支配層と人民は完全に区別されていて、一般の大衆は政治に関与することができない。だから

「朝鮮の人民は内に居て私有を護るを得ず、生命を安くするを得ず、又栄誉を全うするを得ず、即ち国民に対する政府の功徳は一も被らずして、却て政府に害せられ、尚その上にも外国に向て独立の一国民たる栄誉をも政府に於て保護するを得ず。実に以て朝鮮国民として生々する甲斐もなきことなれば、露なり英なり、其来て国土を押領するがまゝに任せて、露英の人民たるこそ其幸福は大なる可し」(p381)

というのである。この意見が朝鮮という独立国に対してあまりに失礼であるということをわきまえつつ、その内容が『文明論之概略』で主張されていた《政権に対する文明の優位》の考え方と一致していることは認めなければならない。福沢によれば文明を阻害する政権は打倒されるべきであった。ただそこでは想定されていなかった事態が朝鮮において現実となっていたことこそが問題なのである。すなわち《人間の智徳の進歩にあって当該国人の政府よりもむしろ文明国の植民地にされるほうが当の人民にとって望ましい場合がある》という悲劇的状況である。

このようにして見ると「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」という題名は大いなる皮肉といわなければならない。そもそも福沢は、国民が自らの都合でその時代にもっとも適した政府を組織するなら、いかなる政権交替も国体の変更ではなく、むしろ好ましい改革であるとし、逆に外国人による支配にあっては国体の失われた亡国の悲劇であると考えていた。だからこそ朝鮮が亡国の運命に陥らないように独立党を支援し、彼ら朝鮮維新の志士の援助をしていたのである。ところがその試みはすでに前年甲申事変の失敗によって頓座している。「脱亜論」にある

「幸にして其国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別」福沢、1885B、p239)

という言葉についても、これから先の希望について述べたものではなく、むしろ失敗したその甲申事変への哀惜の情を吐露したものであったと解釈してよいであろう。朝鮮にも真の朝鮮人の名に値する報国の士は存在したが、その人々はほとんど処刑されてしまった、と。(註 6)

このように福沢には、こと朝鮮に関しては、他国のことであるにもかかわらず、まるで自国のことであるかのような感情むき出しの表現が多く見られる。同じ東アジアの国でありながら清国については《西洋諸国に蚕食されながらも日本に脅威を与える敵国》としてしか見なされていないのに、朝鮮に関してはあたかも親類が困っているかのような心配ぶりである。はじめにでも触れたように福沢の清国観と朝鮮観の差は歴然としている。それは金玉均や朴泳孝らと親しかったからかもしれないし、あるいは慶応義塾に在籍していた留学生がごく身近にいたからかもしれない。とにかく独立党を支援していたころの福沢に《彼ら朝鮮の報国の士を利用することでそこを日本の植民地にしてやろう》などという様子はみじんも感じられない。彼は東アジアに日本と同じタイプの独立した文明国を欲していたが、そこに植民地を望んでいたわけではなかったのである。そしてその夢がついえてしまったとき、福沢は落胆のあまり《もはや友人であることを望まない》という「脱亜論」を書いたのであった。(註 7)

おわりに

従来の研究の多くは、「脱亜論」執筆の動機を福沢のアジア蔑視と西洋崇拝に求めてきた。論者はそのいずれもが間違いであると思う。確かに福沢は西洋的価値観を尊重していたが、その理想をアジアにおいて裏切っている他ならぬ西欧の文明国への批判をけっして弱めることはなかった。福沢にとって目的とすべき西洋文明は、現実の西洋の文明のことではなく、自由や向上心の尊重や個人を守るものとしての国民国家の概念など、文明そのものの理想とでもいうべきものであったからである。それらを損なおうとするものはたとえ誰であろうとも悪いのであって、人種や民族によってその基準は変動しない。すなわち清国やベトナムに戦争を仕掛けたイギリスやフランス、また国民自体の期待に反していた日本の封建時代や李氏朝鮮の政府は、同じ基準によって《悪》とされたのであった。「脱亜論」は、西洋の視点からアジアを蔑視したものではなく、むしろ西洋諸国を批判したのと同じ目でアジアを評定したものなのである。それが結果として当時のアジアの諸国を酷評したものと映るとしても、それを単純に蔑視などと捉えることはできない。(註 8)当該国の政権に批判されても仕方のない側面があったから、そうされたにすぎないのである。

ただ、福沢に悪意はなかったとはいえ、当時にあってさえそのアジア観が適正であったのかについては、やはり問題が残る。あれほどの好奇心をもってヨーロッパやアメリカを歴訪した福沢だったが、いっぽうのアジアの国々を自らの目で見ようとしなかったのは事実である。彼の耳に入る清国や朝鮮の現実は、外国の新聞記事や派遣された弟子たちの報告、そして福沢に同調した考え方をもっていた留学生からの情報に限られていた。彼はあるいは《専制国家を訪問したとしても、誰も本当のことは言わないから、そこに意見を求めても無駄である》と考えていたのかもしれない。しかし《百聞は一見にしかず》ということわざは、西洋にばかりではなく東洋にも適用できるはずである。もし東洋のことなら自分はもうよく知っている、と福沢が考えていたのだとしたら、その推測自体に、彼自身忌み嫌っていた《惑溺》があったことになるのである。

(註 1)
「脱亜論」がいかにして名を高めていったのかについては、平山洋(2002)を参照されたい。
(註 2)
現行『全集』の「時事新報論集」には福沢執筆とはみなしがたい多くの論説が含まれている。福沢のものと判定しうる論説だけからでは『時事新報』創刊の 1882 年を境にして福沢が大きく意見を変えたとはいえない。平山(2002)がその点に触れている。
(註 3)
ここまでの事実経過については琴乗洞(1991)杵淵信雄(1997)を参考にした。
(註 4)
「脱亜論」文中に「西洋人の目を以てすれば……時に或は之(日清韓三国)を同一視し」とあるところを見ると、日本と清国・朝鮮を同一視した記事が欧米の新聞に掲載されたのかもしれない。
(註 5)
論者の知るかぎり本評論のセンセーショナルなタイトルではなくその中身に注目しているのは遠山(1951)杵淵(1997)しかない。
(註 6)
阿部洋(1975)によれば、甲申事変で処刑あるいは行方不明になった人々の中には多くの慶応義塾への留学生が含まれていた、という。
(註 7)
この「脱亜論」執筆の動機についての見方は、結果として坂野潤治(1981)飯田鼎(1982)に近いものである。
(註 8)
この点に関して、福沢の思想に人種・民族的蔑視をみる飯田(1982)初瀬(1984)の見解には反対である。むしろ石田雄が指摘した、とりわけ朝鮮に対する「距離感の喪失」(石田、1976、p75)という表現こそが福沢と朝鮮の関係を的確に捉えていると思う。

文献(著者のアルファベット順。)

阿部洋(1975)「福沢諭吉と朝鮮留学生」福沢諭吉協会編『福沢諭吉年鑑』 2(慶応通信・ 1975 年 9 月)。
坂野潤治(1981)「福沢諭吉選集第七巻解説」『福沢諭吉選集』第 7 巻(岩波書店・ 1981 年 3 月)。
坂野潤治(1982)「明治初期(1873 ー 85)の対外観」国際政治学会編『国際政治』第 71 号「日本外交の思想」(有斐閣・ 1982 年 8 月)所収。
福沢諭吉(1866)『西洋事情』『福沢諭吉全集』第 1 巻(岩波書店・ 1958 年 12 月)。
(1872)『学問のすすめ』『福沢諭吉全集』第 3 巻(岩波書店・ 1959 年 4 月)。
(1875)『文明論之概略』『福沢諭吉全集』第 4 巻(岩波書店・ 1959 年 6 月)。
(1881)「1881 年 6 月 17 日付小泉信吉・日原昌造宛書簡」『福沢諭吉全集』第 17 巻(岩波書店・ 1961 年 11 月)。
(1885A)「朝鮮独立党の処刑(後編)」『福沢諭吉全集』第 10 巻(岩波書店・ 1960 年 6 月)。
(1885B)「脱亜論」『福沢諭吉全集』第 10 巻(1960 年 6 月)。
(1885C)「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」『福沢諭吉全集』第 10 巻(1960 年 6 月)。
(1898)『福沢全集』全 5 巻(時事新報社・ 1898 年 1 月~ 5 月)。福沢自身の編纂で現行全集の第 6 巻『実業論』までに相当。
(1926)『福沢全集』全 10 巻(国民図書・ 1926 年 6 月~ 9 月)。石河幹明の編纂で現行全集の第 7 巻までと第 8 巻以降の『時事新報』論集の一部(約 220 編を収める)に相当。
(1933)『続福沢全集』全 7 巻(岩波書店・ 1933 年 5 月~ 1934 年 7 月)。石河幹明の編纂で現行全集の第 8 巻以降の「時事新報論集」と「書簡集」に相当。「脱亜論」を収録している。
(1951)『福沢諭吉選集』全 8 巻(岩波書店・ 1951 年 5 月~ 1952 年 11 月)。「脱亜論」未収録。
(1958)『福沢諭吉全集』全 21 巻(岩波書店・ 1958 年 12 月~ 1964 年 2 月)。編者の富田正文と土橋俊一が石河編の正続全集を合わせてさらに増補した現行版である。第 10 巻に「脱亜論」収録。
(1980)『福沢諭吉選集』全 14 巻(岩波書店・ 1980 年 11 月~ 1981 年 12 月)。第 7 巻に「脱亜論」収録。
初瀬龍平(1984)「『脱亜論』再考」平野健一郎編『近代日本とアジア:文化の交流と摩擦』国際関係論のフロンティア 2(東京大学出版会・ 1984 年 4 月)。
服部之総(1952)「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』(河出書房・ 1952 年 5 月)。本論文は『服部之総著作集』第 6 巻『明治の思想』(理論社・ 1955 年 8 月)にも収められている。
平山洋(2002)「何が「脱亜論」を有名にしたのか?」静岡県立大学国際関係学部編『国際関係学双書 19 』(2002 年 3 月)。
飯田鼎(1982)「『脱亜論』の形成」『福沢諭吉年鑑』 9(1982 年 12 月)。
今永清二(1975)「福沢諭吉の『脱亜論』ー近代日本における『脱亜』の形成についての試論」『アジア経済』第 16 巻第 8 号(アジア経済研究所・ 1975 年 8 月)。
石田雄(1976)『日本近代思想史における法と政治』(岩波書店・ 1976 年 2 月)。
韓桂玉(1996)『「征韓論」の系譜ー日本と朝鮮半島の 100 年』(三一書房・ 1996 年 10 月)。
杵淵信雄(1997)『福沢諭吉と朝鮮ー時事新報社説を中心に』(彩流社・ 1997 年 9 月)。
琴乗洞(1991)『金玉均と日本ーその滞日の軌跡』(緑蔭書房・ 1991 年 7 月)。
丸山真男(1952)「福沢選集第四巻解題」福沢諭吉著作編纂会編『福沢諭吉選集』第 4 巻(岩波書店・ 1952 年 7 月)所収。ただし論者は『丸山真男集』第 5 巻(岩波書店・ 1995 年 11 月)再録の同論文を参照した。
松沢弘陽(1981)「文明論における「始造」と「独立」ー『文明論之概略』とその前後」『北大法学論集』 31 巻 3 ・ 4 号。本論文は後に加筆して『福沢諭吉年鑑』 10(1983 年 12 月)に収録され、さらに『近代日本の形成と西洋経験』(岩波書店・ 1993 年 10 月)に収められている。論者はこの単行本より引用した。
遠山茂樹(1951)「日清戦争と福沢諭吉―その歴史的起点について」福沢研究会編『福沢研究』第 6 号(1951 年 11 月)。本論文は現在『遠山茂樹著作集』第 5 巻(岩波書店・ 1992 年6 月)で読むことができる。