2006年11月05日付 作家清水義範氏からの書簡
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「2006年10月23日付 作家清水義範氏宛ての書簡」に対する清水義範さんからの返答が2006-11-05に寄せられた旨の知らせを、平山氏から戴きました。
平山氏への私信ということですので、全文のアップロードはできません。ですから平山氏による内容紹介(当方には2006-11-14に届きました)を、下に掲載します。
2006年11月14日
10月23日付の書簡にたいして、清水義範氏から11月5日付の返事が届きました。私信であるため引用はできませんが、さしさわりのない程度にその内容をお伝えします。
まず、前便前半部の「心訓執筆想定年代」については、1950年という想定は、漠然と戦後ということから選んだので、やや早すぎるのではないか、という私の指摘にも一理ある、というお考えのようです。
また、後半部の「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」については、この論説に真偽問題があるとは考えていなかった、ということでした。それは当然のことです。今までは現行版全集所収論説はすべて福沢直筆かまたはその考えに由来している、ということが、すべての出発点となっていたのですから。
この論説について、清水さんは、ある本の説くところをそのまま信じていた、とのことで、 こうしたところにも、現在の福沢研究のもつ危うさが、如実に現れていると思います。
「人民の移住と娼婦の出稼ぎ」という論説は、他にも何千とある『時事新報』社説の1つにすぎないのに、現に『福沢諭吉全集』に収録されているというその事実だけから、誰もが福沢の思想であるかのように受け取ってしまうのです。
とはいえ、それはそれ。私自身も現下の問題の中心である心訓の由来について、突き止めることができたわけではないので、清水氏とともにその探求を続けたいと思っております。
2006年11月14日