春秋子氏と平山氏の質疑応答から

last updated: 2010-11-14

このテキストは、以下のエントリーのコメント欄にて交わされた、春秋子氏と平山氏のやりとりを参考にしたものです。 平山氏の解答をベースにして、意見→返答という形にしてみました。 なお、リンクの作成などのため、文章を一部改変しています。

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『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の逐語的註の公開について

インターネット上に逐語的註をコソコソと公開するよりも、きちんとした反論論文を公開した方がよいと思うが
コソコソなんかしていませんよ。「逐語的註」は全世界に向けて、24時間公開されているのですから。安川寿之輔著『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(2006年7月・高文研刊)をお読みになる場合の、最良のガイドになると思います。
他者の著書へ「逐語的註」という体裁で批判するのは、失礼・姑息に感じさせるし、フェアと思われないのではないか
私は自著に関する部分にしか注記しておりません。該本読者が誤解されることのないように、です。

国権に関して

民権から国権へ転換したのではないかという問題をどう捉えるか
福沢の「国権」とは「国力」を意味します。福沢は領土の拡大によってではなく、経済力を強化することによって、それを実現しようとしたのです。

福沢と石河の関係の把握

福沢の意を体していたが故に、石河幹明の記事に手を入れる必要がなかったことをどう考えるか
福沢が『時事新報』の社説を石河幹明に譲ったのは、明治25(1892)年春と私は考えますが、それ以後福沢が立案したと証明できる論説に、領土拡大の意欲やアジア蔑視など見出しがたいのです。同時期の署名著作に問題がないことは、安川氏のリストからもはっきりしています。
現行版全集所収の無署名論説は、うち224編が大正14(1925)年頃、1246編が昭和8(1933)年頃に、時事新報バックナンバーから採録されたものです。
この中には、石河が、福沢とは無関係に書いた論説が多数含まれている、と考えております。それらをどうやって区別するのか、なかなか難しいことです。とはいえ、候補者は最大4名(福沢と社説記者3名)なのですから、誰が下書きを書いたか、までは判定できると確信しております。
ただ、そもそも、福沢自身が自分の文章だとも何とも言っていない論説こそが、福沢諭吉の正体だ、などと主張するほうが、よほどどうかしている、ということだけは言える、と思っております。
現代の福沢論は、「自分の文章」と福沢が認めているものを中心として組み立てられているからこそ、「礼賛論」ばかりとなっているのではないか
つまり春秋子さんも、福沢の署名著作(現行版全集第7巻まで)に問題はない、とお考えなのですね。
8巻から16巻までの無署名論説は、石河幹明が新聞紙面から選び、しかも多くは石河が自分で書いた、と「付記」しているものなのです(拙著75頁参照)。
市民的自由主義者か侵略的絶対主義者かを考えた場合、7巻までに限定すれば、後者の言説が減るのであるから、「福沢における一貫性の欠如」は大きく解消されるであろう。とはいえ、師の考えをまるで正反対にして、石河が師を顕彰しようと考えたのかという点も含め、「福沢における一貫性の欠如」は完全には解決され得ないのではないか
もし、石河が1892年以降も福沢の言いなりであったとしたら、アジア蔑視の侵略論と見なされるような社説は、そもそも紙面に掲載できなかったのではないでしょうか。
本エントリが扱っている『知られざる福沢諭吉』にも明らかなように、福沢存命中の福沢批判は、彼の金儲主義にありました。私はその批判は、福沢の市民的自由主義への誤解によると考えます。
それより注目すべきは、福沢は生きているうちに、誰からも、侵略主義者(国家膨張主義者)とは見なされていなかった、ということの方なのです。
福沢諭吉は「偉大な啓蒙者であると同時にアジア蔑視・アジア侵略礼賛者」であるとの指摘をどう捉えるか
「福沢諭吉は、偉大な啓蒙者であると、同時にアジア蔑視・アジア侵略礼賛者であった。 思想家であると同時に、「時局思想家」でもあった」(エントリ本文より)という春秋子さんの考えは、服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔らマルクス主義者の歴史観に依拠しています。
しかし私は、彼らが規定する、「近代化論者(市民的自由主義者)ならば帝国主義者(侵略的絶対主義者)である」の、「ならば」の部分が問題で、前項と後項の結びつきは、必然ではない、と思うのです。

研究史について

福沢=侵略者という構図を通説のように捉える一方で、安川説こそ「異端」「新しい視角」ということを看過する研究史の整理の仕方はいかがなものか
私は、市民的自由主義と侵略的絶対主義の両方の見解がある、と書いているのです(拙著227頁参照)。
「市民的自由主義と侵略的絶対主義の両方の見解がある」というだけでは、丸山の方が通説であることが不分明ではないか
丸山説は通説ではないですよ。70年代以降は批判派が急速に伸張し、拙著の出る直前にはほぼ拮抗していた、と思います。