『福翁自伝』の舞台は今――中津編
基点
福沢家(基点)
もとは母順の実家橋本家、1852年頃はす向かいの家から引っ越してきた。
増田の家は5軒東。路地を隔てた現行あき地。
「田舎のことで外回りの囲いもなければ戸締りもない」
(「暗殺の心配」の章「増田宋太郎にうかがわれる」の節)
基点から南
福沢家跡(基点から南に2メートル)
1837年に大阪から戻ったときから15年間住んだ家がこちら。
「(女乞食を)表の庭に呼び込んで土間の草の上に坐らせて」
(「幼少の時」の章「乞食のしらみをとる」の節)
渡辺重石丸生家(道生館)跡(基点から南に300メートル)
写真右側、茶色の二階建て付近。
増田宋太郎の師匠重石丸はここに国学専門の塾道生館を開いた。
中津の尊王派の拠点である。
正面に福沢家が見える。
「宋太郎の従兄に水戸学風の学者があって」
(「暗殺の心配」の章「増田宋太郎にうかがわれる」の節)
野本真城塾跡(基点から南に10キロメートル)
福沢百助の親友で諭吉や三之助・壱岐らの師匠でもあった野本真城は1848年から翌年にかけてここ(注1)で塾を開いた。
「それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました」
(「幼少の時」の章「年十四五歳にして初めて読書に志す」の節)
基点から北
大阪屋五郎兵衛屋敷跡(基点から北に250メートル)
1846年、母の使いで10年前の借金を返却しにいった廻船問屋。
「豊前中津下小路の南西の角屋敷、大阪屋五郎兵衛の家にいって」
(「一身一家経済の由来」の章「頼母子の金二朱を返す」の節)
基点から西
奥平壱岐屋敷跡(基点から西に150メートル)
『福翁自伝』最大の悪役、家老奥平壱岐の屋敷は中津城北門そばにあった。現在は松本水産本社。
「ある日、奥平の屋敷に推参して久々の面会」
(「大阪修業」の章「築城書を盗写す」の節)
白石照山塾跡(基点から西に50メートル)
1849年から5年間通った塾。留守居町南西端である。
「最も多く漢書を習ったのは、白石という先生である」
(「幼少の時」の章「年十四五歳にして初めて読書に志す」の節)
基点から南西
藤野啓山生家跡(基点から南西に600メートル)
1856年、壱岐から借りた『ペル築城書』の読み合わせをした蘭方医の家。
「私はそこの家に三晩か四晩読み合わせに行って」
(「大阪修業」の章「築城書を盗写す」の節)
水島鉄也生家跡(基点から南西に1.4キロメートル)
1870年に諭吉が一時帰省したのを見計らって、増田らが謀議をした場所は、どうやらここらしい。
自伝に隣家の中西与太夫にいさめられて断念した、とあることから分かる。
鉄也もまた西南戦争に参加し、生き延びて後年は経済学者となった。
「中津の有志者すなわち暗殺者は、金谷という所に集会を催して、…福沢を殺すことに議決した」
(「暗殺の心配」の章「一夜の危険」の節)
中上川彦次郎生家跡(基点から南西に約1.5キロメートル)
諭吉の姉の息子。外務省公信局長、時事新報主筆、山陽鉄道社長、三井銀行重役。
隣家が増田とともに西南戦争で薩摩軍に身を投じて処刑された梅谷安良の家だったのには驚いた。
また10軒南に勝海舟の師匠である島田虎之助の生家跡がある。
「私もまた彦次郎のほかは甥はない」
(「一身一家経済の由来」の章「子供の学資金を謝絶す」の節)