『福翁自伝』の舞台は今――長崎編
基点
桶屋町光永寺
嘉永七年すなわち安政元年(1854)2月、福沢諭吉と兄の三之助は、中津藩家老の息子奥平壱岐が寄寓していたこの寺に荷を解いた。
この寺は壱岐の母の実家である。
福沢はここに三ヶ月ほど寄宿したが、その後250メートルほど北にあった山本物次郎の家に移った。
写真は、一番目が山門、二番目が本堂で、三番目が庫裏玄関。
「そのときにわたしの藩の家老のせがれで奥平壱岐という人はそのお寺と親類で、そこに寓居しているのを幸いに、その人をたよって、マアお寺の居候になっている」
(「長崎遊学」の章「活動の始まり」の節)。
基点から北に250メートル
大井手町山本物次郎家跡
福沢は小出町と呼んでいるが、上記の表記が正しい。
山本家は地役人といって、もともと長崎の住民が幕府に雇われて御家人となった現地採用の幕臣である。
福沢は光永寺に三ヶ月ほど寄宿した後、安政元年(1854)5月頃から翌年2月上旬まで9ヶ月ほどこちらの書生となっていた。
この井戸は、安政の大地震のとき彼がまさに水を汲んでいたという因縁の井戸である。
「ちょうど上方辺の大地震のとき、わたしは先生家の息子に漢書の素読をしてやったあとで、表の井戸端で水をくんで、大きな荷桶をかついで一歩踏み出すそのとたんに、ガタガタと揺れて足がすべり、まことにあぶないことがありました」
(「長崎遊学」の章「長崎遊学中の逸事」の節)。
この記述により、この日が安政元年11月5日であったということが分かる。
基点から北に200メートル
大井手町の現状
路面電車の軌道が敷かれている以外は、ごく普通の地方都市の町並みである。
基点から南西に400メートル
眼鏡橋
福沢の文章に登場するわけではないが、まあ有名な観光名所なので。
基点から北西に500メートル
長崎奉行所山役所(現長崎歴史文化博物館)
長崎奉行所は二役所制をとっていて、こちらが本局である。
写真は復元された山役所玄関。
安政二年(1855)正月、福沢は縁があった光永寺の和尚のお供として奉行所に挨拶に行った。
「長崎の奉行所に回勤に行くその若党に雇われてお供をした」
(「長崎遊学」の章「和尚の若党」の節)。
基点から南西に1キロ
長崎奉行所西役所・海軍伝習所(現長崎県庁)
長崎奉行所は二役所制をとっていて、こちらは出島の北側にあった外交担当部局である。 長崎海軍伝習所は福沢が大阪に移った直後の安政二年(1855)八月にこの役所内に設置された。 勝海舟とは行き違いであったわけである。 文久元年(1861)12月に欧州に行く途中、長崎で山本家を訪ねた福沢は、同時に適塾の後輩長与専斎の塾に立ち寄っているが、その塾はこの奉行所の門前にあった。
基点から南西に1.1キロ
長崎出島
西役所のすぐ南に築かれていた。 開国後も外国人はこの居留地の外に居住することは許されていなかったので、長崎で外国人と接触したければ西役所を通らないわけにはいかなかった。