『福翁自伝』の舞台は今――三田編
1.基点
明治6(1873)年7月から明治34(1901)年2月の死まで諭吉が住んでいた家はこの場所にあった。 『学問のすすめ』(二編以降)や『文明論之概略』がこの場所で書かれたということを思えば、もうちょっと整備されてもよいのではないか。
2.基点から北に20メートル
諭吉家の北には一太郎や捨次郎の家が軒を連ねていた。 現在では福沢公園と呼ばれている。
3.基点から北に50メートル
明治4(1871)年3月に新銭座から移転した慶応義塾の三田構内のこの場所に、諭吉は最初の屋敷を建てた。
「いまこの三田の屋敷の門を入って右の方にある塾の家は明治初年のわたしの住居で、その普請をするとき、わたしは大工に命じて家の床を少し高くして、押入れのところに揚げ板を作っておいたというのは、もし例のやつらに踏み込まれたときに、うまく逃げられればいいが、逃げられなければ揚げ板から床の下に入ってそこから逃げ出そうという私の秘計で」
(「暗殺の心配」の章「床の下から逃げるつもり」の節)とあるのがこの家である。
二年後に1の家に越してから、さらに9年後創刊された時事新報の編集部がそこに置かれた。
4.基点から北西に70メートル
明治8(1875)年5月、演説の稽古をするために建てられた演説館は、当初旧図書館の西側にあたる場所にあった。
現在の所在は、
5.基点から西に100メートル
三田構内を北東方向に望む。
右手の茶の建物が新図書館、左手の古い建物が塾監局(法人本部)。
この辺りが移転当初の教室等があった場所である。
「引っ越してみれば、誠に広々とした屋敷で申し分なし。
御殿を教場にし、長局を書生部屋にして」
(「王政維新」の章「敬礼を止める」の節)。
6.基点から西に160メートル
三田構内を西に抜けると、このような風景が広がっている。 正面が三田綱坂、右手が慶應義塾生活協同組合の建物、左手が綱町三井倶楽部、撮影場所は慶応義塾中等部わきである。
この写真はとまったく同じ地点から写された古写真がある。 ベアトによる撮影で、慶應義塾が移転してくる4,5年前の、島原藩中屋敷の長屋塀が写っている。
7.基点から西に150メートル
6の撮影場所からすぐ南のところが、現在の法科大学院である。 ここにはかつて慶応義塾幼稚舎があった。
8.基点から西に150メートル
三田周辺の町屋の風情を留めているのは、もはやこの津国屋だけとなった。 背後の建物が法科大学院。
9.基点から南西に500メートル
新銭座に塾があった当時、明治3(1870)年4月から明治4年3月まで約1年間、この龍源寺に分校が設置されていた。 新銭座からここまで通っていた塾生が、好立地の移転先として諭吉に島原藩中屋敷を推したのだという。 明治7年5月に母順が死去したとき、葬儀はここで執り行われた。