2008-01-27付 ブレードランナーは「完全版」がよい
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メールマガジン「PUBLICITY」No.1705 2008/01/27日に掲載されている、昨年12月06日付の対談部分を、転載します。
抜粋
Date: Thu, 06 Dec 2007 09:16:36
竹山
メールありがとうございました。リアルタイムでご覧になっているのですね。
平山
1982年9月、大学1年のとき信州松本で最初に見ました。「燃えよドラゴン」との二本立てでした。版はおそらく欧州版(完全版に近いもの)だったでしょう。プリスがデッカードの鼻に指を突っ込んで、引っ張り上げるシーンがありましたから。
1987年11月、大学院2年のとき早稲田の名画座で二度目です。版は北米版だったと思います。その後レーザーディスクを購入して「完全版」を見ました。
1992年11月、静岡の大学に就職した直後にディレクターズ・カット(DC)が公開されました。それも見ています。
そして今回、2007年11月、新宿バルト9で大画面・高画質・高音質を堪能しました。
結局劇場では4回見ていますね。しかも全て別の版。残念ながらLDのみの「完全版」だけは劇場で見ていません。
竹山
完全版の方がいいのですか。
平山
DCはジャンルが混乱しているのです。とりわけ問題は、ユニコーン登場のイメージシーンで、2時間の映画でここだけが現実ではない、想像上の映像となっています。それに今回のファイナル・カット(FC)も、このシーンが無ければまだしも我慢できるのですが、ユニコーンが出てくるところで、全体の流れが滞っています。
「完全版」は、フィリップ・マーロウものなどのハードボイルドの形式に忠実に則っていて、安心して観賞できます。ワーナーのプロデューサーはそれを狙っていたはずで、英国人の監督がその意図を理解できなかった、ということなのでしょう。
一部では不評の説明過多とも思えるナレーションですが、無くなったことで完全に説明不足の映画になってしまいました。一人称で即物的に語る、というのがハードボイルドのお約束です。
ゾラ射殺後のナレーションなどは興ざめですが、冒頭のスシ屋台前と最後のロイの心情を思いやる部分は、残しておくべきでした。ユニコーンは削って。
タルコフスキーではないのですから、1回見ただけでは理解できない映画とすることが、いいこととは思いません。それに完全版までの、ラストの空撮も好きでした。『シャイニング』(1981)の余りフィルムだっていいじゃありませんか。
竹山
ぼくは、とにかく映画館で観れたことがうれしいです。ところで、「デッカードは人間かレプリカントか」という議論は、監督たちは人間だと主張しているのですが、ぼくはどちらでもいいと思います。どちらなのかという議論が起きること自体、名作の証拠であると考えています。
平山
それには同意します。ただ、デッカードはレプリカントではないか、という問題は、DCに観客を呼び込むための制作側の「煽り」と思います。92年より前にそのような疑問は、ファンからは出されていませんでした。現在は削除されているナレーションによって、そのような疑問の生じる余地はなかったのです。
竹山
ほぉー。
平山
東京女子大の黒崎政男でしたか、『哲学者はアンドロイドの夢を見るか』(1987)という本をDC以前に書いていますが、結論は心をもつものが人間である、というようなものであったと記憶します。
つまりレプリカントも人間でありうるし、人間が非人間に堕することもある、ということです。この場合、デッカードが生命体的人間であることは、前提となっておりました。この映画を哲学的な問いとして捉える場合、デッカードが生命体的人間でないと、思索の前提が失われてしまうのです。