「『福澤諭吉』あとがき全文」

last updated: 2010-11-14

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平山洋『福澤諭吉』(ミネルヴァ書房、2008年)385―386頁に掲載されている「あとがき」全文を掲載しています。

あとがき

福澤諭吉の伝記執筆の依頼が出版社からあったのは、二〇〇四年一〇月である。快諾後すぐさま資料調査を開始して、二〇〇五年九月二九日に本文を書き始め、二〇〇七年一二月二一日に入稿した。

書き進めるうちに分かったことは、明治維新前に関し、『福翁自伝』には意図的な虚偽は少ないものの、交流が確認できる、福澤楽(祖母)・野本真城(儒者)・渡辺重石丸(中津尊王派)・水島六兵衛(同)・橋本左内(一橋派)・大鳥圭介(砲術家)・小栗忠順(外国奉行)・大田黒惟信(熊本実学党)らに触れていないこと、さらに、万延元年(一八六〇)五月から文久元年(一八六一)一二月までと、元治元年(一八六四)一〇月から慶應三年(一八六七)一月までの二つの時期について、言及がないことである。

この期間の福澤の動向は謎に包まれている。どうやら元治年間以降については、徳川慶喜を頂点としつつ大鳥・小栗・大田黒らを与党とする実学派(公武合体派)の人々と連携して、長州の久坂玄瑞や高杉晋作を始め、中津の渡辺・水島らを含む尊王攘夷派に対抗する活動に従事していたらしい。

また維新後についても、自伝には明治六年の征韓論以後に権力を掌握した大久保利通および伊藤博文との緊張関係が語られていないため、明治一四年政変までの言論活動の意義が矮小化されている。さらに自伝の口述を進めていた明治三一年(一八九八)前半は第三次伊藤内閣時だったためか、過去への語り口に一定の配慮がなされている。たとえば、福澤は国学者塙二郎の暗殺犯が伊藤だと知っていたにもかかわらず、「何者かに首を切られ」とぼかしたり、本当は重大事だった明治一四年政変について、反逆者の疑いをかけられたことを、「大笑いな珍事」と軽い調子で述べている。

重要な事柄が省略されていたり、または軽く扱われていたりするため、『福翁自伝』は全体として幕末維新明朗時代劇の様相を呈している。その影響なのか、現在よく読まれている伝記は講談調が多いが、そこで描かれる福澤像は実相からかけ離れたものである。また石河幹明の『福澤諭吉伝』が提示し、遠山茂樹の『福沢諭吉』へと引き継がれた<侵略的絶対主義者福澤>という像も依然有力とされており、現行版全集の「時事新報論集」を信じる限り、その思想を整合的に理解するのは困難である。

こうした従来の見方に対し、本書において私が提示した福澤像は、<文明政治の六条件を日本に広めようとした伝道者>というものである。署名著作と、本書巻末のリストにある大正版全集所収論説と直筆草稿残存社説だけを読むならば、それ以外の姿は浮かび上がってはこないのではないか。なお私の研究論文その他は、有志者の運営によるウェブサイト「平山洋氏の仕事」上で公開中である。

本書を書き上げることができたのも、多くの人々の協力があってこそである。ここで、浅見雅男・穴山恵大・今泉俊一・今泉太郎・川嶌眞人・小泉仰・西川俊作・西澤直子・西野浩平・野本肇・馬場紘二・松沢弘陽・吉田俊純・和田武士の各氏、および担当編集者の田引勝二氏に深く感謝の意を表する。もとより、完成した本書に含まれるすべての欠陥の責任は、私にある。

二〇〇八年三月一七日

平山 洋