2008年8月 『福翁自伝』解説全文

last updated: 2018-11-01

このテキストについて

福沢諭吉『福翁自伝』<新版>(角川ソフィア文庫)の「解説」(399~406頁)です。

この解説をもとにした著作が『諭吉の流儀』(2009年PHP研究所刊)です。

なお、同じ角川学芸出版刊行の佐高信著『福沢諭吉伝説』(2008年10月)では、平山氏の「脱亜論」解釈と、佐高氏が見なす福沢のモットー「文明政治の六条件」が、同書286頁から約10頁にわたって、肯定的に紹介されています。

本文

およそ日本で書かれた伝記文学の中で、『福翁自伝』ほど面白くてためになる作品を私は知らない。本解説は、これから主にこの二つの側面について扱うが、そのうち、「面白い」ということについてはこのすぐ後に、また、「ためになる」ことについては、最後のほうで触れることにしたい。

豊前中津藩の貧しい武士の家に生まれた福沢諭吉は、他人から資金的援助を受けずに勉学して、ついには経済的な独立を果たしたことを、一生の誇りとしていた。もとより誇りと自慢は紙一重で、たとえば「一身一家経済の由来」の章にある金儲けの算段についての記述を、成功者の自慢と受け取ることも可能ではある。だがそれは、通俗的な立身出世についての自慢とは、性質をまったく異にしたものである。

福沢の誇りは、一身の独立を果たし、さらには一国の独立をも唱導する立場にまでなった、というところにあった。それが後年のいわゆる「独立自尊」の精神である。ここで重要とされるのは、生き抜くために必要なのは健康な身体一つだけで、独立の実践には場所も時も選ばない、ということである。この主題へと一直線に繋がるストーリー・テリングが、「面白い」のである。

どのように面白いのかは、実際に読んでみれば分かる。その実例を挙げるとしてもきりがないし、それに、落語のオチのようなものをいちいち説明するのは、野暮というものである。ただ、この面白さというのが曲者で、福沢が経験した過去そのものが、自伝で語られている通りであるかというと、どうやらそうではないようだ。なぜなら福沢は、自伝の全体の構造を、別の人物の自伝から借りているようだからである。それは、本書巻頭の「解題」(大内兵衛)でも触れられた、アメリカ人ベンジャミン・フランクリンの自伝である。

一七〇六年にボストンのロウソク製造業者の末っ子として生まれたフランクリンは、十歳で印刷工として働き始めた。二七年に社交クラブ・ジャントーを創設、二九年には新聞社ペンシルベニア・ガゼットを買収した。科学分野にも関心を示した彼は、四四年にアメリカ学術協会を組織し、さらに五一年には後年のペンシルベニア大学を創設した。その後は主に政治家として活動し、七六年には独立宣言起草委員に任命された。独立後の八五年にはペンシルベニア州知事に選出、八七年に憲法会議に参加するものの、九〇年に死去している。

このようにフランクリンは、科学者であるばかりでなく、新聞社主、社交クラブ・学会・大学の創設者、そして政治家であったわけだ。福沢の政治家としての活動は、一年間務めた東京府会議員に留まるが、その他については、時事新報社主・交詢社主宰・明六社同人・慶應義塾主宰など、いずれもぴったりと一致する。しかも、フランクリンを知る前に福沢がすでにしていたのは、これらのうち慶應義塾(前身)の創設だけで、その他の活動はすべて、二回目の渡米後、『フランクリン自伝』(初版一七八五年刊)を読んでからの活動であるのに、注意が向けられるべきである。

そのことを念頭において『福翁自伝』を読み返してみると、それまで文句なく面白い、と感じられていた、権威や伝統そして迷信を嫌うことが示されている挿話は、『フランクリン自伝』の同様のエピソードからの示唆なのではないか、と思われてくる。フランクリンの自伝には、「成功者への道はいかにして開かれたか」というはっきりしたテーマがあった。福沢のそれも、「独立自尊への道を示す」という主題があって、それにそぐわない事実は扱っていない可能性がある。

このことを裏付ける事柄として、『福翁自伝』には、語られるべきだが触れられていない人々が数多くいる。維新前についていうならば、中津でともに暮らしていたはずの祖母福澤楽や、面授の師匠である野本真城、親戚で中津尊王派の渡辺重石丸[いかりまる]、同じく中津尊王派の水島六兵衛、また適塾の先輩で後に明治政府高官となる大鳥圭介、幕府外国方の上司小栗忠順、熊本実学党の大田黒惟信[おおたぐろこれのぶ]らとの交流に言及していない。

そのうち、藩校進脩館の学長であった真城は、元家老奥平与兵衛の盟友である。そればかりでなく、諭吉の師匠の服部五郎兵衛や白石照山、実兄の三之助、家老の奥平壱岐、義兄の今泉郡司、親戚の大橋六助らを指導していて、福沢の中津での交友は、真城を軸としていたといってよいほどである。

究理学(数学・経済学)を豊後日出[ひじ]の実学者帆足万里[ほあしばんり]、日本史を京都の尊王家頼山陽に学んだ野本真城は、藩財政再建と軍備増強を主唱する中津藩改革党の思想的背景であった。真城は諭吉の父百助の親友で、若き日には一緒に上方旅行をして、師匠の頼山陽に百助を紹介している。また、真城の代表作は、尊王攘夷[そんのうじょうい]思想の総帥徳川斉昭への高覧を図った「海防論」であるが、それは海軍の近代化を図ることの必要性を強く主張した著作である。福沢に、実学を重視し国防力を増強するべきだ、という思想を移植したのは真城である。にもかかわらず福沢は真城について黙している。

中津藩改革党には、実学派と尊王派の二つの派閥があった。実学派は藩校で真城の教えを受けた中堅の藩士を中心とする勢力で、数学と経済学を修めることで経済力を充実させて藩財政を再建する、ということを活動の主眼としていた。一方尊王派は、藩校に入学できない下級武士層を中核としていて、彼らは真城の個別指導により、頼山陽の『日本外史』を学んで愛国心を涵養したのであった。尊王派は、実学派の、「軍事力を強化するためにも、先ずは外国と貿易することで利益を得る必要がある」という意見に耳をかさず、「鎖国を継続して国内の産業を保護するべきだ」と主張した。そのため、「公武合体・開国」を唱える実学派と、「攘夷・鎖国」を唱える尊王派は、路線の違いから、安政五年(一八五八)の日米修好通商条約の締結以降、激しく対立することになった。

尊王派の指導者でもある真城は、後年福沢の暗殺を企図することになる渡辺重石丸や水島六兵衛にも、恩師として慕われていた。渡辺や水島、さらに彼らの親戚でもあった増田宋太郎にとって、福沢は師匠真城の尊王攘夷思想を軽んじて、外国との通商ばかりを重視する裏切者であった。自伝「幼少の時」の章で、福沢家で飲み会をしていた実学派の人々と、「暗殺の心配」の章において、帰省中の福沢を殺害しようとした尊王派の人々は、もとはといえば同門の仲間だったのである。同じ師に学んだかつての友人たちから命を狙われた、という過去を、福沢は明かしたくはなかったろう。

明治元年(一八六八)の明治維新は、長州藩と薩摩藩を中心とする勢力が、徳川本家を将軍の座から引き下ろし、新たに諸大名の連合体を組織することで実現した。福沢は当初、明治政府の中枢に、それまで尊王攘夷を唱えていた長州藩がいることに危惧を覚えていたが、新政府が旧幕府の開国文明化政策を引き継ぐと分かって後は、外部からの支援を惜しむことはなかった。とくに親密だったのが、英国型近代化を日本の範とする大隈重信(佐賀)と井上馨[かおる](長州)、そして鉄道建設を推進していた岩倉具視[ともみ](公家)である。

福沢は維新まで幕府旗本の身分を有していたから、その意味では敗者の一員ではある。とはいえ、明治六年(一八七三)の征韓論で大久保利通(薩摩)が実権を握るまでは、ことは福沢の思い通りに進んでいたのであった。すなわち、『西洋事情』で構想されていた、①自由の尊重・②信教の保護・③科学技術の奨励・④学校制度の拡充・⑤産業の振興・⑥貧民の救済という「文明政治の六条件」は、新政府実学派の人々によって、着々実現されつつあった。ところが、プロイセン型近代化を志向する大久保政権に移るや、福沢の構想に抑制がかけられたのだった。福沢は私人の自由な経済活動を重要視し、大久保は国家の管理による上からの近代化を推進しようとする。明治六年から大久保が暗殺される十一年(一八七八)までの、『学問のすすめ』『文明論之概略』『分権論』といった言論活動は、弾圧に注意しながらも、大久保に最大限の抵抗を試みることだった。

大久保の死後、政府の実権は再び福沢の盟友大隈重信の手に帰した。そのため、明治十一年から十四年(一八八一)までの間、福沢は大隈を支えるべく、重要な著作『民情一新』『国会論』『民間経済録』『時事小言』などを続々ものし、さらに交詢社案で知られる憲法草案の起草を図った。これらの仕事は極めて質が高いにもかかわらず、現在あまり顧みられていない。ところがこうした英国型近代化を推進するための言論活動は、明治十四年の政変で、大隈や慶應義塾出身官僚が下野を強いられたことで、無に帰してしまう。大久保の路線を継承した伊藤博文(長州)を中心とする政府は、以後、政治・経済・教育への統制を強めていくことになるのである。

福沢の主義主張は、「独立自尊」のモットーで表されることが多い。この言葉は弟子の選択であるとはいえ、福沢の思想の特徴をよく捉えたものである。ただ、このモットーは、福沢が本来、「一身の独立」から「一国の独立」へ、という手順を踏まえたうえで文明化を図っていたことを、見えにくくさせているように思われる。

明治十五年以降の日本の発展に対する、福沢の感情は微妙なものとなる。政権を掌握した伊藤としても、一国の独立は重要な課題であった。その点で福沢と違いはないのだが、問題は、伊藤は福沢ほどに、一身の独立を重んじてはいなかったことである。そのことをよく知っていた福沢は、一身の独立を確固たるものにしない国家の独立の脆弱性[ぜいじゃくせい]について、懸念を覚えたのだった。明治二十二年(一八八九)の大日本帝国憲法の制定によりプロイセン型国家体制は完成され、教育制度についても、官学を主とし私学を従とする経路が確立された。日清戦争の勝利により、一国の独立についてはとりあえずの小安を得たが、一身の独立については、人民の国家への依存がますます強まりそうな気配であった。日清戦争後に刊行された著作が、すべて一身の独立に関するものであるのは、そのためなのであろう。

そうした時期に執筆された『福翁自伝』は、当時の日本において未だしの、「一身の独立」を図るためのハウ・ツー本としても読むことができる。私が本解説冒頭で、この自伝は「ためになる」と書いたのは、その意味においてである。福沢の考えによると、すべてに優先されるのは、まずは身体の健康である。そのためには食事に注意し、適度な運動を心がけなければならない。勉強には熱心に取り組むべきだが、それは理論を身につけるためではなく、現実世界での実践を目的としている。商売を繁盛させて豊かになろうとする欲求を否定してはならない。ただし、どのような状況でも公正であることは忘れないようにせよ。家庭をもったならば配偶者を大事にし、生まれてきた子供たちには分け隔てなく接して、その教育には手間ひまを惜しんではならない。そのようにすれば、一身の独立はもとより、経済的成功も、また子孫の繁栄も、手に入れたのと同じである。

このようにためになる情報を満載した『福翁自伝』は、それゆえにも面白い。その面白さは、記述のいっさいが、貧乏や身分制度など、一身の独立を阻害する敵を、品位を損なうことをせずに、いかにして打ち破ったか、という一点に収斂されていることによるのである。

二〇〇八年七月四日

平山 洋