「福沢諭吉は甲申政変の黒幕か」
last updated:
2013-10-28
このページについて
平山洋氏の依頼により、2012年11月10日に立命館大学で 開催された「韓国日本近代学会」 でのプレゼンテーショ ン資料と音声を掲載します。
なお、発表中の資料番号は、論文版の資料番号と一致しています。
以下のページもご覧下さい。
資料
配布ファイル
- プレゼンテーション資料
- 121110韓国日本近代学会プレゼン.ppt
- 音声ファイル
- 121110韓国日本近代学会発表.WMA
テキスト版プレゼンテーション資料
1 福沢諭吉は甲申政変の黒幕か
静岡県立大学平山洋 第26回韓国日本近代学会国際学術大会発表 於立命館大学・2012年11月10日
2 甲申政変(1884年12月)は韓国近代史上の画期的大事件である
3 しかし、その評価は定まっていない
その理由は、 ・清国からの独立を標榜したとはいえ、金玉均・朴泳孝・徐載弼らは日本の支援を受けていた ・首謀者は亡命して助かったのに、残った人々は死刑になった ・何より三日で失敗した(計画が杜撰すぎる) など。 本発表の目的は、政変の評価をするのが目的ではなく、 事実がどうであったかを、探るところにある。
4 日本、とりわけ福沢諭吉からの支援は、いかばかりだったのか
最初に結論から ・福沢諭吉は黒幕ではなかった ・日本政府内に独立派支援者がいた ・政変自体は金玉均ら独立派の策謀である
5 「福沢諭吉は黒幕ではなかった」証拠
・福沢作成「京城変乱始末」(資料20、1885)と金玉均筆「甲申日録」(資料29、1885)で非言及 ・黒幕説の物的証拠とされるものは全て事後の事柄(資料28・30、1885・1886) ・井上角五郎誣告裁判で免訴になっている(資料35・36、1888) ・黒幕説(1910以降)の由来は井上角五郎(『漢城旬報』主筆)だが、当初は否定(資料37、1891)
6 「日本政府内に独立派支援者がいた」証拠
・田中不二麿宛書簡「黒幕は政府内にいる」(資料25、1885) ・竹添公使は後援を約束したが、現地の外交官の独断では不可能(資料20・29、1885) ・朴泳孝による日本政府批判「清仏戦争に乗じて助けてくれるはずだった」(資料45、1935)
7 「政変自体は金玉均ら独立派の策謀である」証拠
・金玉均筆「擬以朝鮮策略」(資料6、1884)での決意 ・甲申政変後朝鮮政府は日本の関与を調査したが、出てこなかった(資料19、1885) ・金玉均筆「甲申日録」(資料29)や朴泳孝(資料45)、徐載弼(資料46・48)での証言
8 策謀の経過
・1884年10月31日、竹添公使が再着任し日本による清国攻撃を明言(資料13・20・29) ・1884年11月12日、竹添公使、独立派が武装蜂起した場合の対応を本国に問い合わせる(資料9) ・1884年11月16・18日、徐光範、島村久代理公使と面談(資料11)
9 1884年12月4日
午後6時、郵征局開局セレモニーの開始 テレビドラマ『済衆院』第3話より
10 1884年12月4日
午後7時、祝宴の開始テレビドラマ『済衆院』第3話より
11 1884年12月4日
午後8時、安国洞別宮前で爆発、すぐに鎮火 政変の開始を告げる重要な合図だったが、騒ぎが大き くならなたったので、祝宴はそのまま続けられた テレビドラマ『済衆院』では描かれていない
12 1884年12月4日
午後9時、金玉均、懐中時計で時刻を確認する
13 1884年12月4日
午後9時(同時刻)、閔泳翊異変に気づく
14 1884年12月4日
午後9時過ぎ、閔泳翊、隣家火災と聞き外に出ようとする
15 1884年12月4日
午後9時過ぎ、閔泳翊、独立派により右耳を切り落とされる
16 1884年12月4日
午後9時過ぎ、郵征局外、徐載弼(左手前)・閔泳翊(右手前)・金玉均(左奥)・洪英植(右 奥)、ただし演出である
17 1884年12月4日
政変勃発後の推移 ・午後10時、英領事アストン、避難した日本公使館で日本兵を目撃(資料19、1885) ・ほぼ同時刻、景福宮内の国王日本軍の出動を依頼し、夫妻で景祐宮に避難(資料20・29) ・午後11時、日本軍景祐宮の警備を開始(資料20・29)
18 1884年12月5日
・午前零時から明け方にかけて、景祐宮に参内した閔台鎬ら大臣次々殺害さる ・午前9時、独立派政権新人事発表 ・午後にかけて国王による謁見 ・ほぼ同時に国王夫妻クーデタの事実を知り、景福宮への帰還を望む ・午後5時、景福宮へ還御 ・夜半にかけて清国軍景福宮を包囲(閔妃の依頼による)
19 1884年12月6日
・朝より袁世凱、国王への謁見を求めるが独立派政府はそれを拒否 ・午後3時、清国軍の攻撃開始 ・午後4時頃、竹添公使と独立派首脳は日本軍の護衛の下景福宮を脱出 ・午後8時頃、一行日本公使館に到着
20 政変の失敗、独立派の亡命
・1884年12月7日、事大党政府が復活して国王は清国軍の勢力下に置かれる ・同日、竹添公使・独立派首脳ら済物浦日本人居留地へ避難 ・1884年12月11日、独立派首脳定期船千歳丸で日本へ亡命
21 金玉均ら独立派の目論見
・清仏戦争に乗じて親西欧諸国政権を樹立する ・外国の外交官たちに郵征局の攻撃を清国軍だと思わせる ・独立派は武装解除されていたので、日本の軍事力を利用 ・日本側が弱腰になるかもしれないので、すばやく実行に移す
22 金玉均ら独立派の目論見はずれ
・独立派内に内通者がいた ・閔妃が秘密裏に清国軍へ出動を要請した ・大臣殺害を知った竹添公使が深入りを避けた ・清国軍1500名、日本軍150名では勝負にならなかった
23 余談・韓国ドラマ「済衆院」(2010)
第3話甲申政変への違和感 ・唯一の日本人西洋医海瀬敏行軍医はアレン医師とともに閔泳翊の治療にあたっている ・初日の深夜に起きた大臣暗殺の時点では、クーデタとは知られていなかった ・電信はまだ開通していない ・独立派は銃器をもっていなかった