「何が「脱亜論」を有名にしたのか」
このテキストについて
以下は、静岡県立大学国際関係学部編『グローバルとローカル』(静岡県立大学国際関係学部、2002)所収の論説「何が「脱亜論」を有名にしたのか」(65--100頁)の全文です。
この社説をより深く理解するために 平山洋「福澤諭吉の西洋理解と「脱亜論」」 ・ 「福澤諭吉「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」と文明政治の6条件」 をご覧ください。
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本文
1 一八八五年・『時事新報』紙上に掲載される
論説「脱亜論」と脱亜思想
本論文が扱うのは福沢諭吉の「脱亜論」の成立事情とその影響に関する諸々についてである。論を進めるにあたり最初にお断りしておきたいことは、この場合の「脱亜論」とは一般にいわれる彼の脱亜思想のことではなく、あくまで一個の論説としての「脱亜論」である、ということである。それというのも論説「脱亜論」と、福沢の思想の中核をなす脱亜思想とでもいうべきものはしばしば混同されがちで、そのために重要な点が見失われているように思われるからだ。
福沢が脱亜の主義として終生儒教を排したということについての研究者の理解には大きな隔たりはない。しかし排儒教の表明としての脱亜思想と、論説「脱亜論」が一般に受け取られている印象にはややずれがある。例えば広い意味での脱亜思想の著作である『学問のすゝめ』(一八七二~七六)や『文明論之概略』(一八七五)がしばしば肯定的に扱われているのに、論説「脱亜論」には、近代化しつつある日本のおごりやアジアの人々に対する民族蔑視として、否定的な評価しか与えられることはない。要するに「脱亜論」は非常に「有名な」論説ではあるが、その名高さは、完璧に「悪名」としてなのである。
いったいそれはなぜなのか。福沢の主張する脱亜思想と論説「脱亜論」を同一視してしまうとこのあたりの差異が見えにくくなってしまうように思われる。この章は論説「脱亜論」の発表の事情とそれの一般への受容(つまりは「有名」となる)過程を追求することで、そのずれの本質に迫ることを目的としている。
新聞社説としての「脱亜論」
論説「脱亜論」は一八八五年三月一六日に新聞『時事新報』紙上に社説として掲載された。すでに述べたように『時事新報』はその三年前に福沢の肝いりで創刊された新聞ではあったが、主筆は中上川彦次郎が務めていたから、紙面で「脱亜論」を目にした読者はそれを『時事新報』の意見とは見なしたものの福沢個人の思想としては受け取らなかったに違いない。初出はカタカナ漢字表記で署名は入っていない。四百字詰原稿用紙にして約六枚程の分量である。
そこで社説子「我輩」は次のように説き起こす。「世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖ども、其挙動の古に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利器を利用して勢に乗ずるが故のみ」(現行版⑩二三八)。交通が便利になったため西洋文明が容易に東洋にまでもたらされるようになった。その排斥が不可能である以上、西洋文明の移入に邁進する他はない。文明というのは麻疹の流行のようなもので、防ごうにも防ぎきれないのである。
西洋近代の文明が日本にもたらされたのは嘉永年中のペリー来航が発端であった。しかし進歩しようにも「古風老大の政府」があって、政府をそのままにしておいては文明を入れることなどできないからである。そこで、「我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基き、又幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ」となったのであった。
日本はアジアの東のはずれにあるといっても、その国民の精神はすでにアジアの頑迷を抜け出て西洋文明に移っている。だが、と我輩は続ける。「然るに爰に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ」と。この二国の人民は、古来のアジア流の政教風俗によって養われてきたのは日本国民と同じであったが、人種の違いによるものか、あるいは代々の教育が同じではないからか、シナと朝鮮は近いがともに日本とは異なっている。
彼らが「古風旧慣に恋々するの情は百千年の古に異ならず、此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然として自省の念なき者の如し」。そうであるとすると、我輩の見るところでは、このままではこの二国ともとても独立を維持することはできない。幸いにその国の中から志士が出現して政府の近代化を図るなら別だが、「若しも然らざるに於ては、今より数年を出でずして亡国と為り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑あることなし」、ということになろう。
今のシナと朝鮮は少しも日本の援助にならないばかりではなく、西洋人の目からすると三国が近い位置にあるためにそれらを同一視してしまうかもしれない。「例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ、支那朝鮮の士人が惑溺深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦陰陽五行の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば枚挙に遑あらず」。そしてよく知られている結論部に進む。
左れば今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。(現行版『全集』第一〇巻二四〇頁)
なるほどこれだけを読めば福沢のアジアへの差別意識はひどいものだ、という感想をもたれるのもある意味当然である。この「脱亜論」の評価についてはまた後に取り上げるが、ここであえて典型的なものを一つだけ挙げるならば、韓桂玉は『「征韓論」の系譜』(一九九六・一〇)において、福沢の思想の「根底にあるのが、先進西欧に習い、近づくためには、これまで交流してきた朝鮮、中国など遅れた国との付合いは迷惑でむしろ支障となるので、これとは絶縁し西欧に目を向けようというアジア蔑視観」(同書六七~六八頁)であり、「それが有名な『脱亜論』の論旨である」と述べている。
とはいえ、この論説そのものが当時の読者にどのように映ったかということは、後年それをいかに位置づけるかとはまた違った事柄である。ここで試みに自らを一八八五年の『時事新報』の一読者と想定して「脱亜論」がどのような意味をもっていたかを考えてみると、その見え方はアジア蔑視の侵略賛美とは異なったものとなる。
「脱亜論」発表時の東アジア情勢
一八八四年暮れから翌年の春にかけて日本の周辺ではフランスのベトナム介入に端を発した清仏戦争と、朝鮮独立党のクーデタ、甲申政変の失敗に始まる清国進駐軍及び朝鮮事大党政権による独立党勢力への大弾圧が進行中であった。福沢はそのうち朝鮮に関して深く関わっていた。すなわち彼は一八八〇年に初めて朝鮮独立党と接触してから八二年の慶応義塾への留学生の受け入れ、さらに牛場卓蔵や井上角五郎ら弟子の派遣などを通じて積極的にその支援活動を行っていたのである。
こうした経緯は杵淵信雄の『福沢諭吉と朝鮮』(一九九七・九)に詳しいのでここでは述べない。派遣された牛場は朝鮮政府の顧問として制度の近代化への助言を試みたし、また後にはハングル表記による朝鮮初の新聞となる『漢城旬報』の創刊には井上が大きな貢献をなした。日清戦争を経た一〇年後に始まる朝鮮への介入は日本政府主導の軍事力を背景にした侵略行為であったが、甲申政変までの朝鮮への援助はあくまで独立党に招かれた慶応義塾関係の民間人による活動として行われていたのである。
とはいえ、一八八二年八月の壬午軍乱の平定以後に権力を掌握した閔氏を中心とする親清派の事大党は、開化政策を推進しようとしていた独立党の活動をともすれば妨害しがちであった。そのため金玉均らは一八八四年一二月四日、郵政局開局祝賀宴に参集した事大党要人を殺害して開化政府を樹立した後、日本の明治維新の綱領を参考にした一四箇条の政綱を発表したのであった。そこには、清への従属関係を廃止して人民の平等権を確立し、さらに地租法を改革するなど、朝鮮の近代化にとって重大な提言が含まれていた。しかしこの甲申政変による独立党政権は清国軍の介入によって数日のうちに瓦解してしまったのである。
こうした朝鮮における政治変動の経過を『時事新報』読者はつぶさに知っていたはずである。今でも現行版『全集』の第一〇巻「時事新報論集三」に掲載されている論説を最初から順に読むことによって、当時の読者が直面していた国際情勢を追体験できる。同紙は一貫して清国に対する朝鮮国の独立を擁護し、また清国軍及び事大党による独立党への過酷な弾圧政策を批判していたのであった。
社説「朝鮮独立党の処刑」
一八八五年二月二六日(すなわち「脱亜論」掲載の三週間前)に掲載された「朝鮮独立党の処刑(後編)」はそうした記事の内でも白眉の出来映えである。そこには縁座によって処刑された政変の首謀者たちの父母妻子の描写がある。
心身柔弱なる婦人女子と白髪半死の老翁老婆を刑場に引出し、東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや。尚一歩を譲り老人婦人の如きは識別の精神あれば、身に犯罪の覚なきも我子我良人が斯る身と為りし故に、我身も斯る身と為りし故に、我身も斯る災難に陥るものなりと、冤ながらもその冤を知りて死したることならんなれども、三歳五歳の小児等は父母の手を離るゝさへ泣き叫ぶの常なるに、荒々しき獄卒の手に掛り、雪霜吹き晒らしの城門外に引摺られて、細き首に縄を掛けらるゝ其時の情は如何なる可きや。唯恐ろしき鬼に掴まれたる心地するのみにして、其索の窄まりて呼吸の絶ゆるまでは殺さるゝものとも思はず、唯父母を慕ひ、兄弟を求め、父よ母よと呼び叫び、声を限りに泣入りて、絞索漸く窄まり、泣く声漸く微にして、終に絶命したることならん。(現行版『全集』第一〇巻二二五頁)
この部分に引きつづいて、社説「脱亜論」にも影響を与えている次のような記述がある。
人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云はんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は則ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪へず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤ほすを覚へざるなり。(現行版『全集』第一〇巻二二五頁)
「朝鮮独立党の処刑」と「脱亜論」との関係
この引用からも「脱亜論」でアジア蔑視の表明としてしばしば批判されている部分が、じつは「朝鮮独立党の処刑(後編)」の要約に過ぎないことは一目瞭然である。約三週間後に「脱亜論」を目にした読者にはそれがはっきりと分かったはずである。「卑屈にして恥を知らざ」る「支那人」とは清国進駐軍のことであり、「人を刑するの惨酷なるあ」る「朝鮮国」とは甲申政変後の現地の状況を述べていたに過ぎない。
また、「脱亜論」には文明諸国によるアジア分割の危機が述べられているが、それは日本が文明国の一員として侵略に参加するべきだということではない。そうではなくて、文明諸国から日本も野蛮国であるとみなされるならばその侵略を受ける可能性がある、という意味での日本人に向けた警告なのである。
イギリス海軍が朝鮮の混迷に乗じて対馬の西方一二〇キロに浮かぶ巨文島を占領したのは「脱亜論」掲載から一ヶ月後の一八八五年四月、また清仏戦争の結果としてベトナムがフランスの植民地となったのは三ヶ月後の同年六月のことであった。
従来の研究ではしばしば「脱亜論」では日本による大陸分割政策が提唱されているとみなされてきたが、当時の読者と同様にこの時期の論説を一連のものとして読んでみると、むしろ西洋諸国からの侵略の脅威におびえる『時事新報』社説子我輩の姿が浮かび上がってくる。
とはいえ発表当時の「脱亜論」が何らかの反響を呼んだかといえば、そんなことは全くなかったようである。それは日本人の危機意識を高めるためにパターン化され何度も繰り返し掲載されていた論説の一つに過ぎなかった。
その後の『時事新報』紙上で「脱亜論」が引用されたことは一度もない。また論者は掲載翌日の三月一七日から二七日までの『東京横浜毎日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』を調査してみたのだが、そこでも社説「脱亜論」は一切言及されていない。
現在では多くの『日本史年表』に「脱亜論」発表の日付が掲載されているが、当時の人々はそんな論説があったことすら知らなかったのである。そこには福沢諭吉の署名はなかったし、内容も当時の感覚からいえばごくありきたりであったからである。掲載された『時事新報』も翌朝には魚の包み紙か何かとして使われて、そのまま捨てられたのであろう。そうして四八年四ヶ月の歳月が流れたのであった。
2 一九三三年・『続福沢全集』に収録される
第二次世界大戦終結まで「脱亜論」への言及なし
論説「脱亜論」が初めて福沢の著作として『全集』に入れられたのは一九三三年七月のことであった。福沢自身は掲載されてから没するまでの一六年間に著作や書簡でただの一度も「脱亜論」について言及したことはなく、生前に自ら編んだ明治版『福沢全集』(一八九八)にそれを収めてもいない。また、石河幹明編纂の大正版『福沢全集』(一九二五~二六)にも、その「時事論集」の二二四編のうちに「脱亜論」のタイトルを見いだすことはできない。すなわちそれは掲載されて約半世紀後の昭和版『続福沢全集』(一九三三~三四)に突如入れられているのである。
先にも述べたように、この昭和版の選定については疑問とする点が多々ある。また、「脱亜論」は石河が入社する直前に掲載されているのであるから、いかに記憶をたどったとしても福沢が書いたかどうかを思い出すことはできなかったはずである。つまり「脱亜論」は福沢の執筆ではなく、高橋義雄など若手社説記者が福沢を擬して書いた論説であるという可能性も否定できないわけである。
とはいえ、井田進也によれば、日清戦争に先立つ一〇年前の「脱亜論」自体はやはり福沢のものであると判断してよいようである(『歴史とテクスト』一〇四頁)。論者としても、先にも述べたように、論の運びの巧みさと語彙の平明さからいって真筆であると考えている。例えば「脱亜論」の中盤は『文明論之概略』第五章の要約になっているのであるが、そのまとめかたの手際のよさは作者ならではといえよう。また後半には朝鮮と中国における明治維新のような革命実現への期待が述べられているが、すでに見たように、同様の考えは一三年後に口述筆記された『福翁自伝』に示されている。
論者としても、波多野承五郎・高橋義雄・渡辺治ら石河入社前から在籍していた社説記者が署名入りで書いた論説(したがって当然『全集』には収められていない)を読んでみて感じたことなのだが、これ程論旨が明快で巧妙にまとめられた文章を書く力量は当時の彼らにはなかったようだ。「脱亜論」は福沢が強い影響力を行使していた比較的早い時代の『時事新報』の社説の中では平凡な出来であったとしても、文章そのものの水準としてはやはり高いものがあったのである。
「脱亜論」は「福沢ルネサンス」とも関係なし
さて、『福沢諭吉伝』と『続全集』は、それまで知られていなかった日清戦争の煽動者にして中国分割論者としての福沢像を、満州事変で騒然としている世相(それにしてもタイミングがよすぎる)に投げかけたため一躍「福沢ルネサンス」を惹起したのであったが、その時局にとって好都合とも思われる「脱亜論」はそれから敗戦までの研究に一切登場することはなかった。
例えば昭和版が刊行されて以後の福沢研究として、遠山茂樹にも影響を与えたという、羽仁五郎『白石・諭吉』(一九三七・六)の数多くの福沢からの引用にも、「脱亜論」は使われていない。もっとも、この著作は主に教育者としての福沢にテーマを絞っているので、それも不自然ではないかもしれない。ところが、第二次世界大戦中に出版された、元東京日日新聞記者川辺真蔵の『報道の先駆者福沢諭吉』(一九四二・九)でも、「脱亜論」は触れられていないのである。
この著作は大正版と昭和版の「時事論集」に基づいて、ジャーナリストとしての福沢を描き出した作品であるが、その時期までに「脱亜論」が少しでも注目されていたなら、それに必ず言及していたはずである。それというのも、この本のテーマはそれまで知られていなかった侵略的思想家としての福沢を描くことを目的にしていたからである。その執筆の動機について、元同僚の高石真五郎が「序」において次のように述べている。
「福地桜痴」を綴つてゐる間に、川辺君は今度は福沢先生が大きな国権拡張論者であるといふことを発見して、少々兀奮したやうだ。それといふのは、世の中には福沢先生が非常な国権主義者であつた真の姿を知らない人が多い。川辺君も恐らくそれに近い仲間の一人ではなかつたかと思ふ。川辺君はそこまで私に告白しなかつたけれども、とに角、此書において、著者は福沢先生が秀れた愛国者であり、国権主義者であり、国家膨張の急先鋒であつたといふことを主たるテーマにしてゐる。いい換へれば著者は、国権主義者福沢諭吉を描くことに主力をそゝいだのだ。(『報道の先駆者福沢諭吉』二~三頁)
その本文中で重要視されているのは『福沢諭吉伝』と同様に、いずれも福沢の執筆としては疑いの残る「東洋の波蘭」(八四・一〇)や「外戦始末論」(九五・一~二)であった。さらに「脱亜論」が掲載された一八八五年に関する記述は次のようになっている。
兎に角、その頃の福沢等は支那に対してあくまで強硬論を主張したのだが、事態は上に述べたやうな経路を辿つて平和の裡に局を結んだ。事変(甲申政変)前、稍積極的になつた形跡を示した日本政府は、また態度を変更したとも見られる訳で、「独立党の失敗後か或は其直前から、日本政府の態度の急変したのは争ふ可らざる事実であつて、爾来朝鮮は殆んど全く支那の勢力の下に帰し、日本はたゞ無為退嬰を事として以て日露戦争の時まで及んだのである」と「福沢諭吉伝」はいうてゐるのである。(『報道の先駆者福沢諭吉』一八六~一八七頁)
結局のところこの著作は石河の伝記第三巻の焼き直しとでもいうべき代物で、取り上げられている論説もそこで重要とされているものばかりである。そこから予想できるのは、石河が伝記に盛り込まなかった多くの論説は、「福沢ルネサンス」期にあってもほとんど素通りされていた、ということである。「脱亜論」は『福沢諭吉伝』で全く言及されていなかった。つまり、掲載されて四八年後に初めて『続全集』に収められたものの、さらに一八年を経過した遠山茂樹の発見まで「脱亜論」は誰の注意も惹くことはなかったと考えられるのである。
3 一九五一年・遠山茂樹によって発見される
社説「脱亜論」の発見者遠山茂樹
管見のかぎり「脱亜論」が最初に言及されているのは、遠山茂樹が一九五一年一一月に『福沢研究』第六号に発表した「日清戦争と福沢諭吉」の以下の記述である。
政府当局者よりも積極的であったといわれている、福沢の対朝鮮、対中国進出論をささえていたものは、やはり彼なりの開化主義であった。(中略・福沢の見解では)強大文明国の植民地となることが、むしろ朝鮮人民の幸福ーーこれは修辞の上の誇張の言ではなく、日本の朝鮮侵略を主張する論の前提となっている。曰く、「我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて、特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。……我は心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(「脱亜論」十八年、続全集二)。アジアの一員としてアジアの興隆に尽すのではなく、アジアを脱し、アジア隣邦を犠牲にすることによって西洋列強と伍する小型帝国主義となろうとする、日本のナショナリズムの悪しき伝統の中に、この類い稀な思想家も、「文明」の名においてとらえられていた。(『遠山茂樹著作集』第五巻(一九九二・六)三二~三三頁)
遠山がいかにして「脱亜論」を発見したかについては、今日では推測の範囲を超えることはできない。ただ、同じく福沢の文明観と国権拡大説の関係を扱った同年七月二二日の日付をもつ文章には言及がないことからみて、論者としては遠山が一九五一年の夏休みに丸山真男の「福沢諭吉の哲学ーとくにその時事批判との関連」(一九四七・九)からの示唆を受けて昭和版『続全集』を再読した結果、丸山は触れることのない福沢のアジア進出論を決定的に証明する証拠としてそれを見いだした蓋然性が高いように思う。
丸山真男の福沢研究
第二次世界大戦後一〇年までの福沢研究は、丸山真男によって提示された、精神においては主体的な独立をめざし社会に対しては多元的な自由を尊重した市民的自由主義者としての福沢像と、それへの反論として遠山茂樹・服部之総が掲げた、天皇を賛美し日本による朝鮮領有と中国分割を積極的に唱えた侵略的絶対主義者としての福沢像をめぐるややすれ違い気味の論争を中心として展開された。丸山は「福沢に於ける『実学』の転回ー福沢諭吉の哲学研究序説」(一九四七・三)と今あげた「福沢諭吉の哲学」で自らの福沢像を大々的に主張し、後の研究に大きな影響を与えることになった。
とはいえ、この福沢像は必ずしも丸山に起源をもつものではない。戦時中の石河による「福沢ルネサンス」の陰に隠れて忘れられてしまっていたが、その福沢像はじつは大正デモクラシー期のヒューマニストにしてプラグマティストであった田中王堂の『福沢諭吉』(一九一五・一二)の忠実な延長線上にある。王堂はそこで当時大勢を占めていた拝金宗にして西洋の無制限な賛美者としての福沢像を排して、彼の真意が物質文明よりもむしろ精神文明にあったことを強調し、「福沢に還れ」と主張している。
もちろん王堂は大正版『全集』以前にこの著作を書いたのだから、明治版に収められていない『時事新報』論説を考察の対象にはしていない。そのため丸山の先駆をなす福沢像をさほどの困難もなく描き出すことができたのであったが、すでに「福沢ルネサンス」を経ている戦後の研究では、日清戦争の煽動者にして中国分割論者としての福沢像を等閑視することはできないはずである。ところが丸山は「福沢諭吉の哲学」においてあえて個々の『時事新報』論説には触れずに、「福沢が後期において初期の立場から転向して反動化した」という問題については「他日の機会を俟つ」(『丸山真男集』③一六四頁)として考察の範囲外に置いたのであった。
ところがその責を果たすはずの論文は遂に完成されることはなかった。国家の行動様式を決定する準則としての国家理性の近代日本における変化を論じた「近代日本思想史における国家理性の問題」(一九四九・一)がそれにあたるのであるが、この論文は未完結となっている。華夷思想が取り上げられたその第一章では、前近代において儒教思想はもとより国学思想でさえもその克服は困難であったことが示され、洋学者のみが新たな国家理性を構想する条件を備えていた、ということが強調されている。第二章ではそうした洋学者福沢諭吉がその代表例として挙げられていて、彼なくして国家平等観念は確立されることはなかったろう、というところまで進んでこの論文は途絶しているのである。
いったい丸山はそれに続けてどのような結論を導くつもりであったのだろうか。現在読むことのできる前半部には結論までを見越した巧妙な伏線が張られているので、それを手がかりとして推定を試みたい。「まえがき」のなかで丸山は、開国によって日本はヨーロッパ世界に向かって開かれたと同時に国際社会に対して統一体としての自己を示すというパラドックッスに直面した、ということを示した後、「本稿の主要対象はどこまでも、日本が明治維新以後、どのようにこのパラドックスを解こうとしたかということの思想史的なあとづけ」(『丸山真男集』④七頁)である、と書いている。
そうだとするなら、この論文がマイネッケ(Friedrich Meinecke 1862-1954)の影響下にあるということとも考え合わせると、前近代の儒教的華夷秩序観から近代の新たな文明発展史観へ移ったことによって洋学者福沢諭吉のみがこのパラドックスを克服しえた、という道筋が示されていなければ首尾一貫したものとはいえなくなる。しかしここに新たな問題が生じるのである。それは西洋的文明発展史観に基づいたとしても、儒教的華夷秩序から解放された国家平等観念が確立した後に、今度は文明発展の段階に応じて階層化された新たな華夷秩序は正当とされねばならない、ということである。
この考えによれば、清国が儒教的華夷観によって朝鮮への宗主権を主張することはもとより批判されなければならないが、ひるがえって西洋的基準からみて日本が文明上より高い発展段階にあるとしたら、西洋文明の朝鮮への移入を大義名分としてその内政に介入することはむしろ賛美されるべきこととなる。いや、ひいては文明の名において行われるかぎり、一九四五年にいたる日本のアジア侵略も全て正しかったことになる。未完の論文「近代日本思想史における国家理性の問題」において「書かれなかった」部分をあえて補うならば、このような結論のほかに落着の場所はないように思われる。
一見して「転向」のように見える福沢の国家平等の観念から侵略の正当化への移りゆきについても、文明のアジアへの拡大という観点から見通せば、なんら矛盾とはいえなくなるのである。もともと平等な国家とは文明の名に値する国々のことをいうのであって、その段階にないアジアの諸国を文明化するために「介入」ー反対から見れば「侵略」ーすることはそれらの国々を平等の場に引き上げるための賞賛すべき支援ということになるからである。丸山がこの論文を完成することができなかったのは、この結論が丸山が描き出した福沢像をはなはだしく損ねるように思われたからであろう。
戦後左翼の丸山真男批判
こうした丸山のありかたが、アジアに対する日本の戦争責任をより重いものとみなすいわゆる左翼陣営にとって不誠実と受け取られたことは想像にかたくない。服部之総の「東洋における日本の位置」(一九五二・五)は確認できる限り「脱亜論」に触れた二番目の論文であるが、その中で服部は「脱亜論」の結論部を引用した後、「わたしの畏友遠山茂樹君に、去年「日清戦争と福沢諭吉」の一文がある(『福沢研究』第六号)。一昨年秋わたしが慶応義塾記念祭でおこなった同じ題目の支離滅裂な講演の尻ぬぐいのため、同君が執筆して下さったものである。この文章で上にあげた福沢からの引用は一つのこらず遠山君のこの論文に拠っている」(『服部之総著作集』⑥二八四頁)と述べている。
ということは、「脱亜論」を発見したのは遠山ではあるが、日清戦争の煽動者としての福沢にも注意を向けるべきだ、という問題意識を戦後初めて表明したのは服部であったということになる。こうした警告を行わなければならない理由について服部は、「総じて福沢は後世から少しばかり誤解されており、その誤解の方向はとくに敗戦後の『民主主義化』とともに一層つよまっているように思われる」(⑥二八五頁)と記している。もちろんここでの「誤解」とは、丸山が賛美する、福沢を市民的自由主義者とみなす解釈を示している。福沢には危険な国家主義的侵略的側面が強くあるのに、そのことに目をつぶるのはおかしい、ということである。
服部も遠山も丸山の一連の福沢研究論文の帰結が文明の名における侵略肯定にいたることをはっきりと見通していた。「近代日本思想史における国家理性の問題」の途絶を見届けた後、服部があえて「日清戦争と福沢諭吉」(一九五〇・一一)という講演を行い、さらに遠山が翌一九五一年に同名の論文を発表して「脱亜論」を紹介したのも、丸山が提示した市民的自由主義者としての福沢像という太い軸へ対抗する、もう一つの、アジアへの侵略賛美者としての福沢という軸を、より多くの人々に知らしめようとしたからに他ならない。「脱亜論」はそもそも福沢を批判するために、彼の名声を貶めるために探し出された論説であったのである。
しかし「脱亜論」はそのように侵略を賛美するために書かれたのであろうか。論者はすでに本章第1節において、一八八五年三月に『時事新報』紙上で「脱亜論」を目にした読者が侵略の宣言とは受け取らなかったであろうと書いた。そこで福沢は甲申政変の失敗で朝鮮の文明化が挫折したことを憤ってはいるものの、だからといって日本が中心となってアジアに進出すべし、と主張している訳ではないということに研究者たちはもっと注意を向けるべきだったのである。
論理的には侵略肯定に帰結するとしても、福沢自身はアジアの諸国民の愛国心を慮ってそれを奨励しはしなかったのである。また、本書第三章でも述べたように、従来まで侵略推進の証拠とされてきた「東洋の政略果たして如何にせん」や「東洋の波蘭」は石河が無署名論説を大正版『全集』に収めた結果としてわれわれの目に触れているに過ぎないものである。それらは発表された当時に福沢の思想とは見なされていなかった諸論説なのであった。
丸山も遠山・服部も後期の福沢の思想について考察するにあたって、『時事新報』論説には福沢以外の思想が大量に含まれていることに気づいていない。それだけ石河の「時事論集例言」が巧妙に書かれていて、収められている論説全てが福沢に見えてしまうともいえるのであるが、やはり『福沢諭吉伝』のもっともらしさがこれら三人の碩学の目すら曇らせてしまったといってよいであろう。一八八五年以来『時事新報』記者として福沢に仕えていた石河が、伝記に、朝鮮を手段として中国を目的とした東洋政略こそが福沢の宿願だった旨のことを書けば、そうかもしれない、と思ってしまうのは人情というものである。
遠山は「日清戦争と福沢諭吉」を書くにあたって明らかに『福沢諭吉伝』第三巻第三八編「日清戦争」を参考にしている。先にも引用したように、遠山はそこで「政府当局者よりも積極的であったといわれている、福沢の対朝鮮、対中国進出論」とぽろりと書いているが、そう「いわれている」一九五一年以前の代表的文献が『福沢諭吉伝』なのである。にもかかわらず、遠山は参考文献にそれを挙げていない。おそらく、議論の展開が石河の書いた「日清戦争」とそっくり同じで結論だけが逆転していることが白日のもとに晒されるのを恐れたからであろう。しかし実際のところ、石河が描き出して遠山・服部が批判のために利用した、アジアへの侵略賛美者としての福沢像そのものが、石河以外の誰も証言していない福沢の姿なのである。
一九五〇年代までの「脱亜論」
さて、「脱亜論」に論を戻すならば、「日清戦争と福沢諭吉」は任意団体である福沢先生研究会の『福沢研究』というごく限られた読者しかもたない雑誌に発表されたから、服部が「東洋における日本の位置」を河出書房刊の『近代日本文学講座』(一九五二・五)に書いて「脱亜論」を紹介することがなければ、その発見そのものも忘れ去られたことであろう。服部はこの論文を書くにあたって「脱亜論」の所在を電話で富田正文に問い合わせている(『考証福沢諭吉』下巻五九九頁)。それくらい論説「脱亜論」は無名であったのである。同じ五二年には丸山が岩波書店刊の『福沢諭吉選集』(一九五一~五二)に寄せた「福沢諭吉選集第四巻解題」(五二・七)がある。彼はその「国際政治論」の項で遠山・服部らが批判する福沢の侵略賛美の言辞を「偽悪的シニシズム」(『丸山真男集』⑤二三九頁)と捉えて、いわば、それは福沢の本心ではない、という弁護をおこなっている。
丸山が福沢を擁護するにあたって「脱亜論」などの論説には一切触れず一刀両断に、本心ではない、としたその弁護の仕方にかちんときたのであろう、服部は翌五三年八月の『現代歴史講座』(創文社刊)に収めた「文明開化」で「脱亜論」の名をあげ、「彼福沢は『文明開化』の名においてアジアの隣人の討伐をジャスティファイしているのである」(『服部之総著作集』⑥一八三頁)と批判のボルテージを上げた。さらに同年一二月の雑誌『改造』に掲載された「福沢諭吉」では特に「福沢選集第四巻解題」を俎上に載せて、丸山が軽く扱っている後期福沢の侵略者にして天皇賛美者の姿こそが本質であり、福沢は市民的自由主義者ではなく絶対主義者と呼ばれるのがふさわしい、と断じている。
その後一九五五年八月一五日発行の『服部之総著作集』第六巻『明治の思想』(理論社刊)にこれらの福沢批判論文を収めるにおよんで、翌五六年六月「脱亜論」は遂に第三の紹介者当時弱冠二五歳の気鋭鹿野政直の『日本近代思想の形成』(新評論社刊)を得ることになるのである。彼はそこで、「反儒教主義はやがて脱亜論へ連ならざるを得ない。福沢においては、ヨーロッパ諸国に追いつくことは、帝国主義化しつつある列強の陣営に参加することにほかならない。明治一八年(一八八五)に発表された「脱亜論」は、維新の意義を脱亜の二字に要約して、アジアの悪友である清国と朝鮮とを謝絶すべしと論ずることによって、日本資本主義化の論理が直ちに侵略主義に化する、という事実を物語っていた」と服部の主張を正確にリフレインしている。
このように「脱亜論」は一九五〇年代には研究者の一部に知られつつあったものの、まだ「有名」とはなっていなかった。それはいかにして有名となったのであろうか。
4 一九六一年・突如「有名」となる
一九六〇年に現行版『全集』へ収録
論者の調査のかぎりでは、五〇年代に「脱亜論」を取り上げているのは遠山・服部・鹿野の三名による計四つの論文のみである。戦時中に刊行された『続全集』を所蔵する図書館は少なかったうえ、戦後の企画である『福沢諭吉選集』にも「脱亜論」は収められていなかったため、それが一般の読者にもたやすく読めるようになったのは、現行版『福沢諭吉全集』(一九五八~六四)の第一〇巻が発行された一九六〇年六月のことであった。ただし富田正文によるその巻の「後記」は「脱亜論」に言及していない。もっとも、現行版が行き渡るまで、福沢の『全集』といえば「脱亜論」未収録の大正版のことであったのに比べれば、「脱亜論」の一般化にとってこの六〇年は大きな分岐点であった(昭和版の発行部数は多くはなかったようである)。
そうした中で次に「脱亜論」のタイトルが印刷されたのは、飯塚浩二『アジアのなかの日本』(一九六〇・六)の序章「アジアと日本」である。そこではその名前が巻頭二頁目に全く唐突に現れる。すなわち「今となっては、福沢諭吉の『脱亜論』がすでに不吉な予言の意味をもつ。日本の資本主義の発展は、この島帝国を西欧列強と同類の野心をもってアジアに立ち向かわせはしても、アジアの味方、いい換えれば、帝国主義下の被圧迫諸民族の味方にはしなかった」と。全三二四頁の著作の内で「脱亜論」に触れているのはこのたった一箇所だけである。「脱亜論」がいつ発表され、『全集』のどこにあるかといった基本的な説明もない。
この「アジアと日本」の原型が雑誌に掲載されたのが『全集』第一〇巻刊行の直前の六〇年四月というところからみて、飯塚は論説「脱亜論」を実際には読むことなく、服部からの孫引きのみでお茶を濁したのではあるまいか。これでは読者が、福沢には『脱亜論』なる大著があって、そこではアジア侵略が予言されている、と誤解したとしても仕方がないであろう。この飯塚の知ったかぶりがその翌一九六一年の竹内好による「「脱亜論」の主張があるのは有名」という発言を引き出す伏線になっているのである。
竹内は論文「日本とアジア」の中で次のように記している。「朝鮮を足場にして大陸に勢力圏を拡大するという国策の方向が決定したのが日清戦争であり、日清戦争が福沢諭吉によって、文明の勝利と謳歌されたことは前に書いた。その福沢に「脱亜論」の主張があるのは有名である。福沢の世界地図によれば、ヨーロッパは文明、アジアは半開、アフリカは未開である。半開の国はいそいで文明へ進まなければ独立を保つことができない。そのためには隣人をかまってはいられない」(『竹内好評論集』③二四八頁)。そしてこの直後に「脱亜論」の結論部を引用している。
この「日本とアジア」で論説「脱亜論」に触れているのはこの部分だけであり、あとは一般的な脱亜思想についての記述となっている。しかもこの引用をよく読むと、「脱亜論」は個別論説のタイトルであると同時にまさに誰でも知っている福沢の排儒教としての脱亜思想の両様に受け取れるように書かれている。それゆえに、続く記述が論説「脱亜論」とはとりあえず関係の薄いものであっても違和感なく読み進めることができるのである。
いったい竹内は、論説「脱亜論」が「有名」だといったのであろうか、それとも福沢の「脱亜思想」が「有名」だといったのであろうか。今も書いたように、脱亜思想という意味ならまさしく有名といえよう。『西洋事情』(一八六六)や『文明論之概略』(一八七五)もその範疇に属するし、げんに続く記述ではその両著が引かれている。しかし論説「脱亜論」が「有名」だと思っていたのだとしたら、それは勇み足というものである。竹内が参考文献として挙げている福沢以外の一二冊の書籍のうち、論説「脱亜論」に触れているのは飯塚の『アジアのなかの日本』のみである。竹内が遠山・服部・鹿野の著作を読んでいた形跡はない。竹内好ともあろうものが、飯塚の「知ったかぶり」にほだされて、十分な確認もとらずに論説「脱亜論」もまた「有名」だ、と思いこんでしまったのであろうか。
竹内好の勘違い
論者は当初一九六六年四月発行の『竹内好評論集』第三巻(筑摩書房刊)に収められている「日本とアジア」によって推定を進めたためこのような疑問にたちいたったのであるが、この論文の初出である筑摩書房刊『近代日本思想史講座』第八巻(六一・六)を実際に手にしたとたんにその疑問は氷解した。この講座は竹内と唐木順三の両名を編者として成された企画であったが、竹内の「日本とアジア」はこの第八巻『世界のなかの日本』のいわばまとめとして書かれていたのである。そしてその巻の第一論文「国民的独立と国家理性」(岡義武)の第一節では、論説「脱亜論」について、「さきに清韓両国に対して「力を以て其進歩を脅迫する」ことも差支えないと論じた福沢諭吉は、明治十八年に時事新報に「脱亜論」と題する論説を公にした」としてその全体を紹介したのち結論部を引用している。さらに「「脱亜」の時代」と題された第二節では日英同盟からパリ平和会議までの外交史が記述されているのである。
竹内・唐木連名で掲げられている『世界のなかの日本』の序文には、この巻をまとめるにあたって「おのおのの執筆者は、準備段階で何回かの会合をもって意見の交換をした」とあるから、竹内は岡及び松本三之介ら丸山門下の執筆者との打ち合わせのうちに、論説「脱亜論」は日本政治思想史の研究者の内で「有名」である、という感触を掴んだのではないだろうか。『世界のなかの日本』に収められた諸論文を最初から順に読んでいって、最後のまとめとしての「日本とアジア」の文中に「福沢に「脱亜論」の主張があるのは有名である」とあれば、読者は、ははあ、岡論文のことを言っているな、と即座に分かるのであるが、その企画から離れて『竹内好評論集』に入れられた単独論文としてそれを読むと、あたかも研究者世界という狭い枠ではなく、一般社会で「有名」であるかのような錯覚が生じてしまうのである。
さらに論説「脱亜論」を有名にするのに果たした竹内の役割はもう一つある。それは「日本とアジア」の発表から二年後の一九六三年八月に、『現代日本思想大系』(筑摩書房刊)第九巻『アジア主義』の解説「アジア主義の展望」においてその全文を掲載していることである。同時期に刊行されたこの大系の第二巻(六三・九)は『福沢諭吉』の巻で、家永三郎による周到な解説「福沢諭吉の人と思想」が付されているのであるが、ここでは社説「脱亜論」には一言も触れられていない。もちろん「時事新報評論」の編に採録もされていない。つまり六三年夏の時点では碩学である家永の耳にさえ「脱亜論」の存在は届いていなかったのである。
にもかかわらず竹内は、『福沢諭吉全集』よりもはるかに多くの人の眼に触れるところに、「脱亜論」を特に単独で切り抜いたのであった。福沢本人にとってはもとより石河や富田にも何ら特別な論説ではなかった「脱亜論」が、アジア主義者樽井藤吉の『大東合邦論』(一八九三)に比肩する反アジア主義を代表する論説に祭りあげられた瞬間である。丸山は「脱亜論」の一般化には主に竹内の影響力が寄与していたと述懐している。
今も述べたように、竹内が「有名」と評する以前に論説「脱亜論」が一般に知られていたということはなかった。広範な社会層に影響を与えていた丸山が論説「脱亜論」自体には「古典からどう学ぶか」(一九七七・九)まで一切触れていないこともあって、五〇年代に「脱亜論」を知っていたのは服部の読者にほぼ限られていたようである。竹内以前になされたそれへの言及は、発見から一〇年のうちに岡を含めても僅かに五名六論文に過ぎない。ところが中国文学者として日本思想史という狭いジャンルのそとに多くの読者を有していた竹内のこの評価によって、以後論説「脱亜論」の紹介には「有名な」という形容が付されるのが通例となったのである。
明治百年と福沢評価をめぐって
日米安全保障条約改定を巡ってそれに反対する国民運動が高揚した一九六〇年から、四年後の東京オリンピックを経て高度経済成長が進行中であった六〇年代後半は、六八年に明治百年を控えていることもあって、明治維新史研究の総決算ともいうべき様相を呈していた。また、戦後二〇年の節目にあたる一九六五年は大韓民国との国交が回復された年でもあった。衆目の一致するところ明治維新最大の思想家である福沢諭吉をどのように評価するかという問題は、単に福沢個人の思想の研究を離れて、一九四五年にいたる近代日本のありかたそのものをいかに価値づけるか、というより大きな問題とパラレルの関係にあったのである。
論者が調査した六一年以降七二年までの福沢に関する文献は七冊であるが、慶応義塾関係者が書いた松永安左エ門の『人間・福沢諭吉』(一九六四・二)と小泉信三の『福沢諭吉』(六六・三)の二つはそもそも論説「脱亜論」に触れていない。竹内の「日本とアジア」が『評論集』に収められた六六年より後に出版されている残りの五点はいずれも「脱亜論」を引用している。さらにその紹介にあたって河野健二の『福沢諭吉ー生きつづける思想家』(六七・四)、伊藤正雄の『福沢諭吉論考』(六九・一〇)、及び遠山茂樹の『福沢諭吉』(七〇・一一)には「有名な」が付されている。発見者自らそう冠しているのである。
一方鹿野政直の『福沢諭吉』(六七・一二)にはその枕詞がないのであるが、鹿野は無名時代の「脱亜論」を知っているのだから、にわかに名を高めたその論説を大層に扱うことをはばかったのだろう。その鹿野も『日本近代化の思想』(七二・一〇)では、有名な「脱亜論」として紹介している。その頃には本当に人口に膾炙していたのだから無理もないのかもしれない。
このようにしてみると、「脱亜論」の「有名さ」が定着したのは、ほぼ一九六七年であるということができる。六六年から翌年にかけて小泉・河野・鹿野が出版した同題の『福沢諭吉』はいずれも廉価な新書版であり、多くの読者を獲得したと思われるが、そのうち後二者が「脱亜論」に大きなスペースを割き、わけても河野は何のためらいもなく「有名な」と言い切っているからである。
このにわかな名声に奇異の念を覚えた橋川文三は、六八年一月の雑誌『中国』連載論文「近代日本指導層の中国意識一福沢諭吉」(後に「福沢諭吉の中国文明観」と改題)で、「この論文の頭には「有名な」という形容が付けられるのが当然のようにもなっている。しかし「脱亜論」が果していつごろから有名になったかというと、それは私には必ずしもハッキリしない。(中略)たぶん「脱亜論」が有名になり出したのは、ごく最近のことかと思われる」として、その源流を鹿野の『日本近代思想の形成』(一九五六・六)まで遡っている。
橋川は遠山による発見までたどることはできなかったが、その名声がごく最近のものであることは鋭く見抜いていた。「有名さ」が定着したのは橋川の発言の僅か一年前に過ぎなかったのである。
一九七〇年代以降の「脱亜論」
一九七〇年を過ぎたころから、論説「脱亜論」は、近代の日本がアジアに対していかに遠慮会釈ない過酷な侵略政策を推進したかを証明するものとして、明治維新以後の歴史を全体として否定的に評価する研究者たちにとって、自己の論を補強するための重要なパーツとなっていった。その際それが一八八五年の発表当時全く「無名」であり、その中身にも日本によるアジア侵略を後押しする意図など少しも伺うことができない、などということに注意を向ける者はなかったのである。
六〇年代までの著作では「脱亜論」からの引用はアジア(儒教)からの離脱を提唱している結論部にほぼ限られていたのであるが、七〇年代以降はそれが支那人の卑屈と朝鮮国の惨酷が記述されたその前の部分にまで広げられていく。第1節でも述べたようにこの部分は甲申政変後の朝鮮独立党への弾圧に憤った部分なのであるが、そうした説明を一切することなく、福沢のもつアジアへの一般的蔑視の証拠として引用されるようになったのである。
このような七〇年代半ば以降の研究については、数も多く、あまりにも同じような言辞にあふれていてもはや取り上げる必要を感じない。誰も彼もが遠山と服部の敷いたレールの上を確証もなく滑っていっただけのようだ。とはいえ、八〇年代になって「脱亜論」の解釈には大きな変化が現れた。坂野潤治が新たな『福沢諭吉選集』(一九八〇~八一・岩波書店刊)に寄せたその「第七巻解説」(八一・三)での、「脱亜論」を、「朝鮮の近代化に寄与したいと望みながらそれがかなわなかった挫折感を表明した一種の敗北宣言」とみなす読み方である。
論者はこの解釈に賛同し、本章の第1節もその立場から書かれている。『時事新報』原本で新聞の社説としての「脱亜論」をその他の記事ともども読んでみたのだが、やはりそう受け取る以外にはないようだ。また、八四年三月には、坂野の「脱亜論」解釈と軌を一にした飯田鼎の『福沢諭吉ー国民国家論の創始者』(中央公論社刊)が上梓され、アジア観についてより実像にあった福沢が描かれるようになったのである。
福沢は「市民的自由主義者」かそれとも「侵略的絶対主義者」か
最後になるが第二次世界大戦終了五年後に開始され、「脱亜論」をその重要な要素として巡らされた、丸山対遠山・服部連合のややすれ違いがちの論争をどのように総括すればよいのであろうか。結局のところ福沢は市民的自由主義者と見なされるべきなのか、それとも侵略的絶対主義者だったのか。論者の考えるところこの勝負は丸山に分がある。ただし遠山・服部からのパンチをよけながらリングを逃げ回っていたかに見える丸山が、最後になって相手をノックダウンした、というような華麗な試合の結果としてではない。
要するに遠山・服部連合が証拠として出してきた『時事新報』論説のことごとくが、福沢作ではなかったり、彼のものであったとしても侵略賛美の主張と解釈するには無理があった、というに過ぎないのである。編纂者石河幹明が大正・昭和版正続『全集』の「時事論集」に自分の好みの(おそらくは彼自身が書いた)論説を混入している可能性について誰も指摘しなかったことが不思議なくらいだ。文殊にも比される碩学が三人もそろっているにもかかわらず、である。
署名論説は日本による朝鮮領有や中国分割に触れることがないのに、そうした主張が無署名のものにはあるとしたら、その真の作者は福沢ではないかもしれない、という推理を働かせるのがまっとうな常識というものだろう。また、晩年の福沢がほんとうに天皇礼賛者になっていたとしたら、自ら編纂した一八九八年刊行の明治版『福沢全集』に、かつて『学問のすゝめ』で論争を巻き起こした「楠公権助論」や「赤穂不義士論」が何の変更もされずに収められているのは変だと思わなければならないのである。
このようにして現行版『全集』の署名著作七巻と、おおよそ千五百編もある『時事新報』論説の中から福沢の真筆だけを注意深くより分けて読んでみると、そこからわき上がるイメージは、市民的自由主義者、としか言いようのない福沢像なのであった。
一九〇一年二月・死去時点での福沢評価
遠山による「脱亜論」発見をさらにさかのぼること半世紀の一九〇一(明治三四)年二月、福沢の死去を知った大町桂月は雑誌『太陽』に「福沢諭吉を吊す」という一文を寄せた。慶応義塾が編纂した『福沢先生哀悼録』(〇一・三)に収められた新聞・雑誌掲載の弔文一七三編のうちの一つであるが、そこには次のようにある。「諭吉の常識は、幾んど円満に発達したりしかど、人は万能なる能はず、惜むらくは、国体の美を解せざりき。楠公の討死を、権助の縊死と罵りしが如き、一斑以て全豹を推すべし。正当なる独立自尊、もとより喜ぶべきことなれども、眼中国家なく、皇室なきに至りては、日本国民として、決して之を許すべからず」(同書二九三頁)。
一八六九(明治二)年の生まれの桂月が七六年完結の『学問のすゝめ』を同時代のものとして読んだことはなかったろう。おそらく八〇年に刊行された合本で初めてそれを目にし、さらに九八年刊行の明治版『福沢全集』を参考にしてこの弔辞を書いたに違いない。このように二五年前と見まがうような福沢への評価を、非愛国者の拝金宗徒として彼を批判する側ばかりでなく、独立自尊の提唱者として賛同する人々も等しく表明しているのである。それに対し半世紀後には問題となる一八八一年頃を境とした「転向」のことに言及した弔辞も、また、福沢が日本のアジア進出に積極的であったという侵略的絶対主義者としての彼を追想する文もないのである。
言うまでもなく一九〇一年当時はそうした大陸積極策の主張を悪とする考えはなかった。もし福沢にそうしたイメージがあったなら、多くの人によってその先見の明が讃えられていたとしても不思議ではないはずである。ところが、大陸進出を推進する天皇礼賛者として福沢を思い起こす人は葬儀の時点ではいなかった。
ことわざに「棺を蓋て毀誉定まる」というのがあるが、福沢諭吉くらいそれに当てはまらない人物も珍しい。卒塔婆さえ朽ち果てた後のこの毀誉の激変は、ひとえに石河幹明に帰せられる。それというのも侵略的絶対主義者としての福沢というイメージを、没後三〇年の『福沢諭吉伝』と大正・昭和版の「時事論集」で創り上げたのは石河だったからである。そもそも「脱亜論」が後年かくも「有名」となったのも、福沢ならぬ「福沢の威を借りた石河」へのある種滑稽ともいえる糾弾の試みの一幕としてであった。